香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

仲多度郡多度津町青木・昭和17年生まれの女性の証言

実家でうどんと言えば打ち込みうどんだった

(取材・文:

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  • vol: 223
  • 2017.08.10

年中打ち込みうどんを食べていた

 生まれは多度津。多度津のな、元の「しかむら」で青木(おおき)いうとこやけどな。今はもうよーけ住宅が入ったけど、昔は30~40軒ぐらいしかない田んぼの中やった。青木には北山と本村いうんがあるんやけど、その本村の方の百姓。父親は農家の合間で、たまに道の仕事とかごぞごぞで行っきょったけど、主は田んぼやったな。私も三女でほったらかしやって、何でも興味があったきん(から)、田んぼのことは全部手伝てきた。田んぼするんが好きなかったきんな。

 家では昔から、おうどん手打ちして食べよった。打つんは父親やけど、手伝いしよったけん打ち方知っとるよ。私や上手なで。道具も…こやん(このように)して、道具ここの棒があって、こやんしてこやんしてな。ほんで包丁でちゃっちゃっちゃっと切る。粉をよーけしてな。ちゃっちゃっちゃっとこやんして切っては、ちょっと取って、ゆー(湯)が沸っきょっるダシ汁の中へぱっぱーっと入れて。ほんでネギや野菜入れてな。

 そう、打ち込み、打ち込み。打ち込みにして、そん中にネギや家にある野菜や入れてな。確かおアゲも入っとったなあ。冬だけやなしに、うどんは全部打ち込みばっかり。夏も素麺や食べたことなかった。

 ダシは、コブ(昆布)いうたら贅沢なかったけん、イリコが多かった。味付けはしょう油。しょう油もお味噌も、全部家で作んりょった。豆を挽いてこやんしてな。ほんでしょう油の元…麦芽とかを大けな樽に入れてなー。作ったらアンタ、上から絞って「チョロチョロチョロ」てこいなんになー。

 おしょう油やお味噌に使う豆も作んりょった。田んぼの畦のとこをずーっと、崩れて水が漏れんよーにいうて豆を植える。でもほんとはな、イカンのやってな。なんでか言うたら、畦の端(はた)の稲がな、豆に付く虫やあいなんで一緒に喰われてしまうきんな。その周りは、えー(良い)お米はできんの。

精米所で小麦とパンを交換していた

 小麦は家で作って、全部精米所で挽いてもらいに行っきょった。どこの家でも大方小麦はしとったなあ。青木の「ショウ」いうとこに「中津」いう精米所があったん。チンチン電車が通んりょったこっちやきんな。

 お米も持って行って突いてもろて、持って帰ったことはしょっ中ある。あそこいはうどんは無かったけど、小麦とパンも換えてくれよった。うどんはな、やっぱり家で打った方が美味しいけん、精米所で粉挽いてもろて持って帰って作んりょった。うどんやおやつみたいにしよったなー。

 「中津」さんとこではないけどな、小麦と乾燥麺を換えてきたいうのは覚えがある。子供やきんうろ覚えやけど、素麺みたいな、素麺とうどんと合いの子みたいな。太かったけん素麺ではない。袋に入(い)ってなかって、そのまま箱に入れて置いてあった。その裏で干っしょったんも、覚えがあるような気がする。木ばっかり並べてな。長いんがヒラヒラヒラしとった。乾燥麺だけで生うどんは覚えないな。あれどこだったかしらん。

忘れられないドジョウのダシ

 ドジョウがある時は打ち込みに入れてドジョウうどんして、丼2~3杯ぐらい食べよった。私や何でもよーけ食べるいうて有名なかったのん(笑)。

 ドジョウは親が獲んりょった。こいな「タナカゴ」いう編んどるカゴがあってな。それを田んぼのとこに仕掛けとくん。カゴは仕掛けが、ドジョウが入ったら出られんよーになっとんやん。すーっと入るけど、今度出るのに全部角が入るけんつっかえる。昔は予防(農薬)してないけん、ドジョウがよーけおったん。ほんでご、それを獲ってきてな。

 ドジョウは泥抜きせないかんけん、父親がバケツの中でキレイな水で洗ろて、ほんでヌルヌルを取ってな。臭みがひとっつもないん。ほんでクタクタ炊いたらな。ほんまに美味しいん。ええダシが出てなあ。なんでか昔の味っちゃ、忘れられんな。

 ドジョウは庭の水槽みたいなとこで、こーとった(飼っていた)ことがあるわ。水に田んぼの土入れといたら、その中にドジョウがおるんやがな。

 打ち込みは作るんが早いきん、年中食べよったな。うちの人も好きなかったわ。ドジョウうどんは大抵冬が主やったけど、いかなんだら暑い時も「ドジョウ食べんか」言うてしよった。私やドジョウは方々(いろんな所で)食べよんかと思とったけど、こっち(観音寺)の人は食べんのやな。

 それと海岸寺の白方(しらかた)の海岸へ、よー貝掘りに行っきょったんや。そん時は父親が、アサリを入れて炊いてくれたん美味しかった。

田植え手伝いのお礼も打ち込み

 うどんは半夏にも食べよったな。近所の人が田植え手伝いに来てくれたら、昼のアレとか三時やの休みとかにな。そのうどんも家で合間に打っちょった。メニューはすうどんじゃろなー…いやネギやあいな野菜がいっとった(入っていた)きん打ち込みや。とにかくうちは打ち込み。団子もこっしゃえたり(作ったり)な。きな粉や小豆のアレ付けておはぎにしたり、団子汁で食べよった。

 法事のうどんは、最近はするようになったけど、昔はせんかった。49日以降にならんとな。「長続きするけん縁起が悪い。こんなん続いたらいかん」言うてな。逆に結婚式やお祝いには、うどんとか色んな長いもんをする。今頃やったらスパゲッティみたいなんをな。

多度津の街中にはうどん屋がたくさんあった

 うどんは家で作って食べるもんやったから、子供の頃店に食べに行った覚えは全然ない。でもこいな歌は知っとるで。「♪多度津の角のうどん屋で、うどん六杯腹ろぶろぶ」って。多度津は昔、港が栄えとったきん、うどん屋はよーけあった。うちは田舎の方やけんなかったけどな。「多度津の角のうどん屋」は、昔チンチン電車が通んりょった鶴橋いう駅からずっと下りたとこのそばや。私は行ったことないけど。たぶんそうや。

嫁ぎ先のお母さんがうどん屋をやっていた

 ほんで昭和41年12月に観音寺にお嫁に来た。嫁に来たうちの姑さんは、昔おうどん屋しよったん。ほだきんお姑さんから、うどんのダシの出し方やそいなんはちょこちょこ聞いたことある。「するんやったら、こいな味噌汁にも合うきに、こないして作ったらええで」て、イリコと昆布と出して。

 最初はな「サシトラ」の横で貸してもろてしよったらしいわ。それからそこをやめた後、若宮(旧観音寺市若宮町・現在は観音寺町に統合)の家の庭でもしよったん。こんまい家やけど庭が広かったきんな。

 店でうどんは打ってない。食べさせるだけの普通の食堂。それでもお客さんが来よった。昔やけんできたんやなあ。元々一人でしよったけん、打つまではできんかったんやろ。うどん玉だけ「柳川」さんか「十日屋」か、あの辺で仕入れて来よった。たぶん「柳川」さんやわ。近かったけんな。

 店の名前は、姓が古河やけん「古河」やったんやろなー。でも私が嫁に来るのに、家がせもなる(狭くなる)きん言うてやめたん。嫁に来る一年も、半年も前ぐらいや。ほんだきん、姑さんがしよって売んりょるとこは見たことない。

バイト先のうどん屋で味を盗んだ

 嫁に来てから仕事の内職程度に「つるや」のおうどん屋さんに手伝いに行ったこともある。それから「七宝亭」も、若い時に「ちょっと来て」言われて行ったな。ダシの取り方や、見て見ぬふりして盗んだ。おっきょい(大きい)声で言えんきん(笑)。やっぱり他所のうどんも一緒じゃわ。よー似たもんやわな。

 話っしょったら、色々思い出したな。よいよー(笑)。あの頃は良かった。帰りたい。

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