さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

中村

【中村うどん店(丸亀市土器町)】
“中村ファミリー”の記憶

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 14
  • 2021.12.06

全一話

中村うどん店

お話:中村うどん店店主・中村吉邦さん(昭和27年丸亀市飯山町生まれ)
聞き手・文:萬谷純哉

 土器町の「中村うどん店」店主の中村吉邦さんは、知る人ぞ知る、飯山の「なかむらうどん」の故店主の弟さんです。従って、昔話の大半は「“中村ファミリー”の記憶」となりますので、飯山の「なかむら」の開業ヒストリーと合わせてお読みいただけると、よりおもしろいと思います。加えて、大将の視点で讃岐うどんに対する思いなども語っていただきました。

飯山の「なかむら」がうどん店になるまで

中村うどん店

ーーお生まれはどちらですか?

 僕は飯山。昭和27年生まれだから、物心ついた頃(昭和30年代)は麦が半分、お米が半分とかその辺のレベルの生活でしたけど、それなりに食べられとったね。「ドジョウ汁する」いうたら自分でイデ(用水路)にドジョウを獲りに行っきょったような時代。それから世の中がだんだん豊かになっていったから、まあ恵まれた時代に生まれた世代やね。

 父親は飯山生まれなんですけど、母親は愛媛県の内子町の山の奥の方で、その母親の関係で一時は愛媛県で暮らしてたんです。その後、こちら(飯山の今の「なかむらうどん」の場所)に帰って来て父親が新しい仕事を探すことになったんですけど、実家のある地区で出る水がすごくいいというんでね。僕も長いこと大阪でおったんやけど、田舎に帰ってきて「水を飲む」のが楽しみだったぐらいでね。それぐらいおいしい水やった。それが、うちの実家の井戸は二間(約3.6m)くらいしか打ち込みしてないんやけど、水道局の水道が枯れてもうちの水脈は枯れたことがないんです。

ーー「なかむらの名水」とか「飯野山の見えるうどん屋はうまい」とかいう話を聞いたことがありますが、その正体は土器川の伏流水だったんですね。

 そうですね。それで、そのいい水を生かして「家畜を飼うか、うどん屋をするか」という二択になったみたいでね、父親は昔の人だから易者さんに見てもろうたらしいんです。そしたら「これだけいい水なら生き物を飼うとよく育つであろう」というお告げを頂いて、それで養鶏を始めたらしい(笑)。養鶏は採卵が主ですけど、頼まれれば卵を産む時期を過ぎた親鳥を出荷して精肉にするという、ブロイラーも多少は扱っていました。養鶏は1970年(昭和45年)くらいまではしてたんですが、結局周囲の環境が悪化して断念せざるを得なくなって、うどん屋に変わることになりました。

ーー飯山の「なかむら」の開業ですね。

飯山の「なかむら」の記憶

 飯山の「なかむら」が僕の実家で、父親がうどん屋を始めたのが昭和45年くらいですね。でも「うどん屋」と言っても、親父がしよった頃は”お店”っていう雰囲気ではない。隣近所の人が集まってワイワイ言いながら情報交換したり商談したり、そういう集まりの場になっとった。椅子とかテーブルとかがあるわけでもないし、みんな適当にブロックのとこに腰掛けたりしゃがんで食べたりね。サービス業という形態ではまったくなかった。ただ、そこにうどんがあるからうどん食べに来とるってだけで、飲食店の営業いう状態ではなかった。

ーー創業の頃のメニューはどんな感じでしたか?

 もともとはダシもなかった。創業当時は醤油だけ。醤油と味の素置いて、赤天、エビ天ね、あれを置いてあるだけ。醤油いうたらね、昔の飯野町に「ヤマセ醤油」いうんがあったんですけど、またその醤油がおいしかった。上に麹がぱーっと浮いてくるような、昔のたまり醤油。それをみんなかけて食べよった。「ヤマセ」は今は残ってないけど、「京兼醤油」さんとこが「ヤマセ」の名前を引き継いで製造はしとると思う。

 父親がうどんを教わった「西森」のおじさんが「うどん食べるのにネギやしょうがや、そんなんいらんいらん。醤油かダシがあったらええ。そんなんあれこれ入れてうどんの味やわかるかー!」ってよく言いよったからね。お客さんがうどん買いに来ても、うどんが売り切れてたら「今頃来たってあるもんな。いるんやったらもっと早よ来ないかん」って。もうそういうタイプの人やから。殿様商売やね(笑)。

 そないしよるうちに、ちょっと遠方から来よる人が生卵を持ってくるようになって、「釜玉」みたいなことをお客さんがするようになって。父親はそれも「好きなようにしたらええが」みたいなもんで黙って見てたみたいですけどね。だから、「釜玉」の食べ方はこっちが早かったかもしれん(笑)。亡くなった兄なんかは「卵持ってくるのは構わんけど、持ってくるんやったら俺の分も持ってこい」ってよう言いよったけど(笑)。

「西森」の記憶

ーーちょっと逸れますが、先ほど話に出た「西森」のお話を聞かせてください。

 城東小学校の入り口近くの土器川の橋を渡ったところに「こますけ文房具店」っていう店があるんですが、そこから川の土手沿いに行くとクスノキがあってね。そこに「西森うどん」っていうのがあったんです。うどん玉の卸をやっていて、警察署とか郵便局とかいろんなとこのお昼ごはん、あるいは夜食、そういう感じの卸を結構されてましたね。私らがうどんを習ったのはそこの二代目くらいの方やと思うんですけど、その先代は90歳くらいまでうどん打っとったいうのを聞いたことがあります。南海地震(昭和21年)があった時にね、家から出たら家の正面にあった木が横の方に動いとったという話を聞いたこともあった。店開けたら木が正面にあったはずやのに横に木が動いとったって(笑)。亡くなった「西森」のおじさんがよくそういう昔の話をしてくれましたよ。

ーー「西森」はいつごろまで営業してたんですか?

 土器川の土手沿いの店は立ち退きになって一旦店を閉めとったんやけど、後に南の方のちょっと奥まったところで店を再開して。僕がこっちに帰ってきたのが平成7年やから、そのちょっと前くらいまではされとったん違いますかね。

ーー駐車場問題が面倒になって廃業したという話でしたね。

 そうそう。“やっかみ”がやっぱりね。西森は流行っとったから、隣近所から「車が邪魔になる」とか「公用車でうどん食べに来とる」とか「パトカーでうどん食べに来とる」とか、そういうことをしょっちゅう言われよったらしい。まあ駐車違反はいかんけど、役所にしろ郵便局にしろ警察官にしろ、お昼ごはんに仕事の車でうどん食べるぐらいはええんと違うん(笑)。まあ近所の人にしても機嫌がええ時ばっかではないから、機嫌が悪い時に車がようけ並んどるのを見たら、やっぱり言わんでいいことでも一言言うようになるわな。

ーー残念ながら「西森」さんの麺はもう食べられませんけど、飯山の「なかむら」さんやこちらの「中村」さんみたいな麺だったんですか?

 うーん、やっぱり若干違うとったね。やっぱうどんは作る人によってみんな違う。おんなじ材料でおんなじ配合で「こうするんやで」いうてでも、やっぱりちょっと違う。それで、お客さんは「西森」行って食べる人、「なかむら」来て食べる人、行ったり来たりするんですよ。「あっちのうどんよりこっちのほうがうまい」「こっちのうどんよりあっちの方がうまい」とか、好きなことみんな言うんよ。まあそれが楽しいんやろうけどね。

ーーじゃあ、「西森」さんと「なかむら」さんとはいい勝負をしてた。

 いやー、それはお師匠さんに対しておこがましいかなと(笑)。昔、よくうどんを餌にして魚を釣りに行ったりしよりましたけど、スーパーで買ってきたうどんと「西森」さんとこでもろうてきたうどんだと、魚の食いが違う(笑)。魚もうどんの味がわかるんやなと思うくらい、食いが違うんです(笑)。ほやけど、「西森」は手作業で一日6袋(たい)も7袋(たい)も捌いとったいうから、そりゃすごいなと思います。やっぱりうちみたいに自分たちのペースで数をこなしていくのと、「西森」さんとこみたいにお客さんに追われて仕事していくいうのは全く違うからね。疲れ方も何倍も違う。

土器町の「中村」の誕生

中村うどん店

ーー話を戻しますが、大将はいつ頃うどんを習ったんですか?

 父親にうどんを教えてもらったのは20歳過ぎてくらいやね。その頃から父親の手伝いをするようになって、22~23歳くらいの時に「玉売りするうどんはこうする」「打ち込みうどんはこうする」いうのを初めて教わった。「打ち込みする」いうお客さんには塩の入ってないうどんを作ってね、「麺はちょっと切れるかもわからんけど、打ち込みにする時はちょっと風に当ててやれ」って言うてました。「風に当ててやると美味さが出る」って。普通は「風に当てたらうどんが切れる」って言うんやけど、多少切れても打ち込みとして食べる分には何も問題ないからね。「ちょっと風に当ててやった方が麺がうまくなるで」って言ってましたね。

 ダシは「たっぷりのカツオでサッととれ」って言われた。ウルメとかこの辺で言う雑節を、その一種類でサッととる。ひと煮立ちしたらそれで終わりっていうダシのとり方やけど、それが本当にうまかった。子供の時、この辺がまだ海やった時にね、しょっちゅう釣りに来て帰りに「西森」さんに寄ってうどん食べさしてもろて帰っりょったんやけど、西森さんとこのダシの印象っていうんがあんまりないぐらい(笑)、ダシはうちの父親が作ったのが一番うまかった。

ーーすると、うどんもダシも先代に教わったのは大将(吉邦さん)だったわけですね。

 そうです。「なかむら」のうどんは父親が創業者で、僕が父親にうどんを習ったから、実質的には僕が父親直伝の二代目やね。それで僕が長男(兄)にうどんを教えたから、長男は僕の弟子です(笑)。

 でも、二代目やいうても僕は店を継いだわけやなくて、僕と兄貴はそれから大阪に行っていろんな仕事をしよったんです。僕は大阪で、高松のライオン通の「川福」さんの心斎橋のお店にもお勤めしてました。うどんも打ちましたし、調理全般も担当しよった。うどんすきしたり、揚げもんしたり、お刺身引いたり。調理師学校に行っきょった時に、大阪の船場の「うさみ亭マツバヤ」というきつねうどん発祥の店の創始者の社長にカバン持ちみたいにして付いとったこともありますよ。

 そないしよるうちに、昭和50年代の終わり頃、父親が80歳の時に長男が飯山の「なかむら」を継ぐことになったんです。それからしばらくは長男夫婦が店を切り盛りしよったんですが、平成7年に父親が交通事故で入院して、僕はその頃まだ大阪におったんやけど、兄貴に「オヤジの面倒看るのがおらんから、お前ちょっと帰ってきてくれー」いうて言われて、長男の特権でそう言われたら仕方がないということで(笑)、大阪の仕事をやめてオヤジの看病しに帰ってきたわけです。

 それから看病が一段落したんで「もう一回大阪に帰って就職活動する」言うたら、「こっちでうどん屋するか?」という話になって、飯山の店に来よったお客さんが「ちょうどうちの持ち物件のテナントが空いとるけん、うちでするな?」いう話になってね。兄貴も自分が呼び戻した手前ね、入院してた親父の世話が終わったからいうて「今からまた大阪帰って仕事探しせえ」というのも気が引けたのかのかもしれんけど、「お前うどんできるし、こっちでうどん屋したらどうや」と。それで、平成7年にここ(土器町)でうどん屋をやり始めたんです。

最初は不安でいっぱいだった

ーーオープン当初はどんな感じでしたか?

 もう不安でいっぱいでしたよ。一番最初に思ったのが、「1杯200円のうどんで、これ生活していけるんかな」いうことでした。当時は実家の飯山の「なかむら」が1杯100円でしとったから、200円でも「兄貴んとこは100円で食えるのにお前んとこは200円か」いうて言われたりしてね。けど、家賃は払わないかんし、住まいは構えないかんし思うたらね、ほんまに不安でしたよ。

 僕がお勤めしとった大阪の「川福」のお店は1000円を超えるうどんも出してたし、朝11時から夜中の3時まで営業しとったんですけど、それでもアイドルタイムを除いたらほぼ7割ぐらいお客さん入ってましたから、そのギャップもあってね。今でも思うけど、香川のうどんの業界の人は値段的にもっと頑張ってもええと思う。自分も含めてみんなが今までやってきたことを振り返ったらね、もっとお金いただいてもええなあと思う。けどなかなかね、香川いうのはうどんにお金を出さんとこですからね(笑)。

ーーメニューは今と同じシンプルな感じで?

 そやね。うちは肉うどんとか天ぷらうどんとかのメニューはしない。うどんと揚げもんとおむすびくらい。あと、卵と。最初、釜玉はお客さんに自分で卵を割ってれてもらいよったんですけど、女の人のお客さんなんか増えてきたら「ここはそれくらいのこともしてくれんの?」って言われてね。そんで「服に卵が飛び散った」とかいうトラブルがちょいちょい出始めて、「ほんなら卵だけは割って入れてあげよう」というところまで譲歩しました(笑)。

ーー平成7年オープンというと「讃岐うどん巡りブーム」が始まりつつあった頃だと思いますが、お客さんの数はどうでしたか?

 多かったですよ。平成10年頃には毎日のように行列ができて、ピークの時は駐車場の端から隣のイエローハットのところくらいまで、道に100mは並んでましたね。

ーー従業員さんも腕のいい人が揃ってますね。

 うちで今うどん打ってくれてる子は学生時代に丸亀市土器町にあった「かな泉」でアルバイトしてた子で、うどん歴は何十年にもなります。今、修業に来てる子は群馬の子で、その前が埼玉の子で、どっちもうどんの本場から修業に来よる(笑)。みんな香川のうどん屋を何十店も回って、何が気に入ったんか知らんけど「中村で習いたい」って。以前に九州から来た子は「200店回ってここに来ました」言うとったけど、僕よりようけ回っとる(笑)。

ーーそれで皆さん、中村のうどんを学んでいくわけですね。

 まあ基本は教えるけど、やっぱり若干の違いが出るね。僕が作るうどんと教えた子が作るうどんはやっぱり違う。不思議とね。条件が同じでも作る人が変わったら同じうどんにはならない。僕も親父と同じうどんはできんかったし、兄貴も私が教えても私がしよったうどんはできなんだし。十人十色、それがまたおもしろくてええんと違うかなーと思う。だから、ある程度できるようになったら必要以上に口出しをしない。粉も今は「さぬきの夢」やら何やら新しいもんが普及してきて、みんな努力して自分の店オリジナルのブレンドとか粉の選択をしてるから、いろんな美味しいうどんが出てきたなーと思うね。
 
ーー“なかむらファミリー”の麺は、細くて柔らかくて伸びがあるのが特徴ですね。

 今はね、僕らから言わしたら“固いうどん”が主流になってきよるけど、僕らが昔から食べよった讃岐うどんいうのはあんな固いうどんではなかったと思いますよ。「西森」のおじさんからも「そんな固いうどん打ったり茹でたりしたらいかんで」ってよく言われよった。粘りのある、伸びるうどんが昔のうどんだったと思いますね。昔のうどん屋さんから言わしたら「そんな固いうどん食いよったら腹こわすぞ」って思う(笑)。まあ、観光で来てる人は、普段自分たちがあまり食べることのない“固いうどん”を食べたら目からウロコで「これが讃岐うどんか!」って思うんだろうけど、実際はそうじゃないんよね。“コシ”いう言葉自体もね、昔のお店のコシと今のお店のコシは全然違ってきとると思います。

ーーそれでも「中村」さんは超人気店ですから、たくさんの人が「あの麺とダシがうまい」と感じてくれていますよ。

 ありがたいことです。お客さんにも話するんやけど、「なんでここまで食べに来るん?」って言うたら「香川に来たんじゃなくて、中村のうどんを食べに来たんや」って。「讃岐うどん」やなくて「中村」に来よんやって言ってくれるお客さんも中にはおるからね。うちはずーっと手作業でうどんを作っとるから数はそんなに打てんけど、3才や4才くらいからうちに食べに来よった子が大人になってからも来てくれますし、お客さんの息は長いです。
 

「中村」は自分の代で終わり

ーー今後はどうされるんですか?

 うちは跡継ぎも子供もおらんから、もう私の代で終わり。もうすぐ70やからね。体の調子が悪くて、正直言うて両手が痺れてほぼ感覚がない状態。最初の頃はまだ体も若いし、攻めの気持ちもあったからやれよったけど、がむしゃらにやった結果がこういう体になったしもうたという感じやね。お客さんに追われて仕事するというのが相当つらくなってきたんで、いつ閉店するかなーって、最近そればっかり考えるようになった。

 やっぱり自分の余生をね、病気になって体が動かんようになって家でじーっと死ぬの待っとるような余生は送りとうないからね。やっぱりついてきた嫁さんにも少しは楽しい思いをさせてやらないかんからね。元気なうちに終わりたいなーと思って。もうあと何年自分の人生残っとるかわからんけど、仮にお客さんがようけ来てくれよるいうたって、それだけにかかって自分の人生終わるわけにはいかんなって。やっぱ自分の人生は自分のもんやから。誰か「跡次いでするわー」って言うてくれる人がおるんやったらタダででも渡してもええんやけどね。

ーーそんなこと言うたら希望者がめちゃめちゃ来ますよ(笑)。

 けど、こんなご時世見とったらなかなかね、二の足踏むん違うかなーと思う。昔から「うどん屋したら、食うんには困らんけど金持ちにはならんぞ」と言われるし(笑)。まあ、うちの店みたいな感じにするならそんなに設備投資せんでもすむから、粉と水と塩と茹で釜とダシとる状態があれば何とか店はやれるやろうけど、やるにしても「若うても無理はせん方がええよ」って言うてやりたいね。

ーーいずれ引退しても、年に何回かイベント的にでもやってくれたらみんな喜ぶんじゃないですか?

 いやいや、「西森」のおじさんもよく丸亀の観光協会の人にひっぱり出されて打っちょったけど、「えらいわ! えらいわ!」ってよう言うてましたよ。「もうーいかん」って(笑)。やっぱ来てくれるお客さんや喜んでくれるお客さんには感謝なんやけど、「もうそろそろ解放してほしい」と思う部分もある(笑)。

ーーわかりました。もう無理は言いません(笑)。では最後に、今まで食べた中で一番心に残ってるおいしいうどんは何ですか?

 やっぱり親父が打ったうどんかな。うどんの味が生きとったね。香りと、舌で感じる味覚の部分、その両方やね。時間が経ったうどんを湯煎しても、たまに打ち立てに戻るような、そういう食感があった。ただ、「わしも今まで何十年とうどん屋してきても、自分で今日のうどんはうまかったいうのは年に数えるくらいしかできんで」ってよう言いよった。「西森」のおじさんも同じことを言いよったなあ。けどやっぱり、自分の親を褒めるわけではないけど、親父はやっぱり相当なもんやったなあと思う。

ーーどうもありがとうございました。あと、おまけで讃岐うどんの風習の記憶をちょっとだけ。ご実家の方では法事にうどんは出てましたか?

 それはもうもちろん。宗派は浄土真宗ですが、おじゅっさんが来てうどんを食べて、お昼の中休みにまたうどんを食べて。朝と昼で二回ね。それ以外にも、法事の案内にご近所さんや親戚にうどんをお重に入れて持って行ってました。ごく近くにはボールに入れて持って行ったりね。あと、お供えのおすそ分けはしてたけど、うどんのお土産はなかったかな。

ーーお祭りでうどんは出ていましたか?

 うん、祭りの時はうどんに天ぷらに寿司。何かの行事の時は、その3点セットが付き物やね。天ぷらも、昔のは衣に赤やら青やら黄色やらの色付けた天ぷら。緑色の天ぷらもあったかな。「何でみんなこんな天ぷら食べるんやろ」思うような、すごい色の天ぷらやったなあ。

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