第一話
宮武うどん・前編
聞き手:田尾和俊、長谷川知広 文・田尾和俊
お話・宮武うどんの大将・宮武一郎さんと奥さん
<昭和20年〜昭和27年>
昭和27年頃、先代が玉売りの製麺所を始める
ーー では、宮武のルーツから行きましょう。
- 大将
- どこから言うたらええかな。わしは昭和18年生まれやけど、昭和20年に戦争が終わって親父が引き上げてきて、わしが物心ついた頃には親父は何かいろんなことをして生計を立てとったな。季節になったら岡山に「い刈り」に行きよったのも覚えとる。「い草」な。あの畳にする「い草」を刈るのを手伝いに行ったり。
- 奥さん
- 駄菓子を売ったりもしよったん違うな? 私がこっちに来たら、客席だった場所がまだ物置やったけど、チョコレートやらキャラメルやらいっぱい置いてたよ。
- 大将
- そうやな。いろんな道具を置いとったな。終戦後はまあいろんなことをして食いつなぎよったんやろな。それから、どこでどういう話になったんかは知らんけど、大きな機械を入れて精米をやり出した。うちはもともと田んぼも畑もないから、農家の人が持って来た米をついたり小麦を粉に挽いたりしよった。精米をするまでは、親父はいつもどこかに働きに出ていてほとんど家におらんかったけど、精米をしだしてから家におるようになった、という記憶がある。
ーー そこでようやく定職ができたと。
- 大将
- ところが、何年もせんうちに農協が精米をやりだしたんや。そしたら農家の人がみんな米や小麦をそっちに持って行きだして、それで農協に客を取られて、うちは精米でやって行けんようになった。それでまた出稼ぎみたいな仕事で食いつなぐことになったんだろうな。その時に、近所でうどん玉の製造と玉売りをしよった「山神」さんとこ(現在の満濃町・山神うどん)へ、暮れに手伝いに行くようになったんよ。
昭和25年頃かな。当時、あのあたりには山神さんと「大西」さんいう製麺屋があってな。大西さんは機械を入れてしよったけど、山神さんは全部手作業でうどんを作りよった。その山神さんとこへ手伝いに行って、うどんを踏んだり何やかやしよって、突然「自分でやる」いうことになったんや。
わしが覚えとるのは、ある日、親父が突然ご飯を炊くところの釜を潰し始めて、「何をしよん?」いうて聞いたら「うどんを茹でる釜を作る」言うて。それで自分で釜場を作ってやり始めた。あれが昭和27年か28年。わしがまだ10歳ぐらいで、小学校に行きよった頃や。
ーー 宮武うどんのルーツは「山神」だったんですか!
- 大将
- ルーツというか、手伝いやから修業したとかいうことではなくて、たぶん見よう見まねで覚えたんでしょうな。うちの家ではお袋が時々うどんを作りよったけど、まあモノがない時代やから今みたいな「うどん」ではなくて「打ち込み汁」みたいなものでな。そやから山神さんとこで「うどん」と、それから玉売りの商売の仕方みたいなのを覚えて、「自分でやろう」という話になったんでしょうなあ。
<昭和28年〜昭和35年>
親父はとにかく毎日朝から晩まで仕事をしていたけど、貧しい日々だった
ーー 先代の製麺屋の仕事内容はどんな感じだったんですか?
- 大将
- まあ大まかに言うたら、うどんを作って農家に売りに行くんやな。
ーー 食堂とかに卸すんではなくて、農家に売りに行くんですか。
- 大将
- あの辺に食堂やないがな。琴平や善通寺の街中にはあったんやろけど、あの辺は田んぼと農家ばっかりやから、個人の家に玉売りに行くんよ。あとは買いに来てくれる人がちょっとおったぐらいで。そやから、親父は朝作ったうどん玉(ゆで麺)をせいろに入れて、それを自転車に積んで毎日農家に売りに行きよった。昔の荷台がしっかりして大きい、「運搬車」いう自転車な。
ーー そんなに毎日、農家の人がうどんを買ってくれるんですか。
- 大将
- 昭和30年頃いうたら、その頃にはもうあんまりみんな家でうどんを作らんようになっとったから、みんな玉を買うてくれるようになっとったんやね。それと、昔は家族が多かったから、1軒で10玉や20玉買うてくれるところはザラでしたからな。それで10軒行ったらすぐに100玉、200玉になるでしょ。親父は全部手作業で作りよったから、それでいっぱいいっぱいや。
それで、結構常連さんがついてくれとったみたいやな。その頃から「宮武さんとこのうどんはうまい」いうのをちょいちょい聞いたことがある。やっぱり手作業の手打ちがよかったんやろな。ゆで麺の玉売りは、たいてい食べるまでに時間が経つでしょ。すると今と同じで、手打ちでしっかり作ったうどんは時間が経っても落ちるのが遅いから、評判がよかったんやと思う。
農繁期は特に注文が多かったけど、冬場でも毎日お客さんから電話がかかってきたり、店まで買いに来たりしてくれよったな。親父は5玉や10玉の注文でも自転車で配達に行きよった。自転車やから行動半径は狭いけど、毎日、自転車で何回も何回も農家に配りに行きよったなあ。
ーー 相当忙しかったんでしょうね。
- 大将
- 親父は朝から晩まで、いつ見ても仕事をしよった。とにかく当時、親父が寝るところも起きるところも見たことがないんや。わしが目が覚めたら親父はたいがい仕事しよったし、寝る時も仕事をしよったからな。それで、わしも高校時代に粉をよう取りに行かされよった。学校に行く前に、自転車に小麦を30キロとか60キロとか積んで家から水車(粉挽き屋)に持って行って、小麦粉と交換して持って帰って、それから学校に行きよった。水車は丸亀の垂水にあったから、自転車で往復1時間ぐらいかかりよったわ。それも今みたいにアスファルトの道でなくて地道やったからな。まあいずれにしても、昔の人はやっぱりえらい目しとる。今は何をしても楽になったと思うわ。
ーー それぐらい忙しいと、家はそれなりに裕福だったんですか?
- 大将
- いや、裕福とは言えんかった。というより、貧しかったですよ。特に製麺をする前はほんまに貧しかった。農家の人は食べるものがあるからそうでもなかったでしょうけど、わしが小さい頃は食べるものにも苦労しよりました。お袋が「今日は食べるもんがないから打ち込みするわ」言うて打ち込みうどんをするんですけど、量を増やすのに野菜を多めに入れて作って、まずわしら子供に食べさせるでしょ。そしたら、親父やお袋が食べる頃には汁しか残ってない。そんな日がしょっちゅうあった。
製麺を始めてからも、1日に100玉や200玉のうどんを作って売るだけで家族を養わないかんという規模でしたから、食べて行くのが精一杯ですわ。製麺しよっても、自分とこの自由になる粉はそんなになかったんでしょうな。大事な商売モノの粉には手を出せんから。それで、また打ち込み汁を作っては子供に食べさせて、その間、親父らはずっと仕事をしよる。親父らは汁だけ飲んでまた仕事をする…それぐらい、ほんまに貧しかったですよ。
それでもまあ、わしが高校に行く頃にはちょっと余裕ができてきたのかもしれん。昭和33年から35年頃かな。高校生の時にうどん屋に寄ったりしよったから。
ーー その頃に善通寺にうどん専門店があったんですか。
- 大将
- 善通寺一高の近くに「大林」いううどん屋があった。確か、当時では珍しいうどん専門の店やったと思う。尽誠学園から善通寺駅の方に斜めに入って行く道沿いにあって、うどん一杯20円か30円だったかな。そこへ学校から何人かで黙ってうどん食べに行ったら、時々指導部の先生が来るんや。それで見つかったら怒られるから、みんな「先生が来よる!」いうたら飛んで逃げる。けど、飛んで逃げるからみんな金を払てないがな。そしたら店から学校に「金を払わんと逃げた生徒がおる」いうて苦情が来るやろ。それで指導部の先生が「誰や! うどん食うて金払わんと逃げたのは!」いうて、結局バレてえらい怒られたことが何回かあるわ(笑)。
<昭和36年〜昭和51年>
大阪でサラリーマンを経て、宮武の二代目大将へ
ーー 大将は高校を出てから何をされていたんですか?
- 大将
- 昭和36年から昭和51年まで15年間、大阪で勤めをしよったんです。あんまり自分の家の商売を継ぐいうのは好きでなかったから、大阪でペコちゃんポコちゃんの会社に就職してね(笑)。それでまあ、年末年始に帰ってくるぐらいやったな。年の暮れはうどんが忙しい時期やから、それを手伝うくらいで。それで5年くらいして、23の時に結婚して。
- 奥さん
- それから私も毎年、暮れになったらこっちに帰って一緒にうどんを手伝ってました。
ーー それが、なぜうどん屋を継ぐことになったんですか?
- 大将
- お袋が調子悪なってな。親父やお袋の面倒を見ないかんようになって、昭和51年、わしが33歳の時に大阪の会社を辞めてこっちに帰って来た。母さん(奥さん)にだいぶ苦情言われたけどな。「私やそんなつもりで結婚したんでない」言うて。それからずーっと、何かあったら「騙された、騙された」言われるんや(笑)。
- 奥さん
- ケンカするたびによう言いよったな(笑)。でもまあ、そんなに言いながらここまで来たきんな。
- 大将
- まあそんなことで、昭和51年からわしが宮武うどんの二代目を継ぐことになったわけや。
仲多度郡琴平町
純手打うどん 宮武うどん店
みやたけうどんてん
〒766-0006
仲多度郡琴平町上櫛梨1050-3
開業日 昭和27年頃
閉店
現在の形態 セルフ
(2015年7月現在)