さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

【宮武うどん(琴平町)】
小さな玉売り製麺所から讃岐うどん巡りブームのレジェンド店へ…。元祖宮武うどんの歴史がここに明かされる!

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 3
  • 2015.12.01

第二話

宮武うどん・中編

聞き手:田尾和俊、長谷川知広 文・田尾和俊
お話・宮武うどんの大将・宮武一郎さんと奥さん

<昭和51年〜昭和63年頃>

継いで数年間は玉売りだけの店だった

ーー 大将が継いだ時は、まだ玉売りだけの店ですね。

打ち場でうどんを打つ大将(平成18年)。

打ち場でうどんを打つ大将(平成18年)。

大将
そうやな。それでも継いだ時に、たまに食べに来る人がおったから、親父がカウンターだけは作っとった。鍋に一杯ぐらいはダシも作っとったけど、商売としては玉売りだけやな。それをわしが引き継ぐ形になった。玉売り先も親父のお得意さんをそのまま引き継いで、そこからわしが順々にお客さんを広げていったんや。その頃はオートバイがあったから、行動半径も広くなってな。お客さんを開拓して、買うてくれたら次の家も行こか、いうて順々に広げていった。

それで大体、親父の時の倍まではいかんけど、1日250玉ぐらいにはなったかな。朝、配達に回って、昼からもう一回配達に出よった。「この家は何曜日と何曜日に行く」いうて決めとったから、家の人が留守にしとる時は、行ったら入れ物とお金を置いてくれとったりした。それぐらい、まあ親父が人気と信用を作ってくれとったということやな。

奥さん
それでも冬の配達は辛かったな。しょっちゅう凍えて帰って来よったし。
大将
寒い日にオートバイで大麻山の方まで配達に行くんやけど、うどんを渡すのに手袋はいたままうどんをつかんでお客さんに渡すわけにいかんから手袋を脱ぐでしょ。そしたらどんどん手が凍えてきてな。それであんまり手が冷たくなるから片手を腹の中に入れて走って帰りよったら、今度は体温が下がってしまうんや。
奥さん
昼からの配達が終わって3時か4時頃帰って来たら、手が冷えて、体も冷えてしもとって、体温計で測ったら温度が出んのよ。体温計が35度からしか測れんのやけど、体温が35度より下がってるから温度が出んの。最初、体温計が壊れてるんかと思って、家中の体温計を全部出してきて測ったけど、全部出んかった。
大将
それで、「これはいかんわ」言うてコタツに入ってぬくもって、5時か6時になってようやく体温が出てきて測れるようになってな。そんなことが何年か続いて、それでもう「これでは体が持たん、玉売りをやめて食べてもらう店にするか」いう話が出てきたんや。玉売りのお客さんは付いてくれとったけど、そんなに大した儲けにはなってなかったいうのもあってな。

半“物々交換”の玉売りシステム

ーー その製麺所の玉売りのシステムなんですけど、具体的にどういう流れで商売していたんですか?

大将
農家がうちに小麦を持って来て、それを貸すんです。通いに書いて

ーー 貸す?

麺切りは当時でも少なくなっていた手切り。これが独特の麺の食感を生み出していました(平成18年)。

麺切りは当時でも少なくなっていた手切り。これが独特の麺の食感を生み出していました(平成18年)。

大将
お金を貸すん違いますよ。夏に小麦が穫れるでしょ。それを農家が何ぼかうちに貸す。預けるんやな。それを通いに付けて、農家の人は、うどんがいる時にうちに来てうどん玉を持って帰る。その時にうちは加工賃をもらうわけですよ。小麦1升につきうどん10玉を渡して、加工賃を10円もらいよった。1玉につき加工賃1円いうことやな。逆に、先にうどん玉をもらって、今度の夏に小麦がで来たらそれで払ういう農家もあった。例えば親父がやりよった当時はうどん玉が1玉6円やったから、10玉で60円でしょ? 小麦が1升50円しよったから、10円の加工賃もろたら60円になるやろ。

ーー うーん、またややこしい計算になって来たぞ(笑)。ちょっと長谷川君、農家になって宮武に小麦を持って行ってみてくれ。

長谷川
わかりました。じゃあうちで小麦が穫れたので、今から宮武に持って行きます。「一郎さ〜ん、小麦持って来ました」。
大将
「お、どしたんや長谷川君。今年はちょっと早いやないか」。

ーー あ、大将は小芝居せんでもええですから(笑)。

大将
そうな?

ーー で、とりあえず長谷川君が小麦を1俵持って来ました。そこからどうなるんですか?

大将
1俵いうたら、だいたい1升で10玉やから、1斗で100玉。4斗が1俵やから、うどん400玉分になるわな。それを通いに付けとくわけや。それで、長谷川君が「うどんがいる」いう時に、例えば10玉持って帰ったら、うちが加工賃を10円もろて10玉渡して、通いの残りが390玉分になる。

ーー なるほど、そこまではわかりました。じゃあそこから、大将は長谷川君から預かった小麦1俵を製粉所に持って行って粉にしてもらうわけですね。そこで1俵を粉にしてもらって持って帰ったら、製粉所はどこで儲けるんですか?

大将
水車(製粉所)に1俵持って行ったら、粉は1俵分は返ってこんという感じや。それが向こう(製粉所)の取り分やな。

ーー なるほど、そういう仕組みか。じゃあ、例えば1俵の小麦を持って行って、その9割が粉になって返ってきたとしますよね。そしたら、400玉作らないかんのに粉が足りなくなるんじゃないですか?

大将
そこがうまいことできとる。もともと、小麦1俵でうどんは400玉以上作れるんよ。だから製粉所で1割取られても、残りの粉でまだ400玉以上は作れるようになっとる。それでな、たまに食べに来るお客さんに出せるうどんもできると、こうなっとるわけや。

ーー ははー、何となく謎が解けました(笑)。

昭和55年頃、飲食主体の店に転換

ーー さて、その後、玉売りを辞めて飲食主体の店になったのはいつ頃ですか?

営業当時のメニュー表。「ひやあつ」などのメニューは宮武うどん発祥です(平成18年)。

営業当時のメニュー表。「ひやあつ」などのメニューは宮武うどん発祥です(平成18年)。

大将
いつ頃かなあ。確定は難しいな。
奥さん
ユカちゃん(娘さん)が小学校の時に「早よ洗いもんして」言うて丼を洗わせよったのを覚えてるから、その前やな。保育所の時かな。お父さん(大将)がオートバイで迎えに行くのを時々忘れて、保育所にユカちゃんだけ残って、保育所から電話がかかってきよったやろ。
大将
そんなことは思い出さんでええがな。まあ、大体その辺やったと思うから、昭和55年頃かな。とにかく玉売りばっかりしよったんではわしの体が持たんようになって、それで物置みたいになっとったところにテーブルを置いて客席にして、奥に小上がりも作って食べさせる店にしたんや。ダシの取り方は親父が教えてくれた。それに母さん(奥さん)が多少味付けをして、だんだんおいしくしていってな。うどんのおかずにくずし(かまぼこ)やらも置いて。

藤原屋の天ぷらとの出会い

ーー 宮武とは切り離せないのが「藤原屋の天ぷら」ですけど、あれはいつ頃から置き始めたんですか?

宮武うどんには、天ぷらなどの豊富なオプション類がありました。ゲソ天が入ったダンボールには「藤原屋」の文字が確認できます(平成18年)。

宮武うどんには、天ぷらなどの豊富なオプション類がありました。ゲソ天が入ったダンボールには「藤原屋」の文字が確認できます(平成18年)。

大将
わしらが大阪から帰ってきて継いだ時には、もう置いてあった。きっかけを聞いたら、最初にうちの親父が「もりみせ」いう食料品や日用品を売りよる店で売っとった天ぷらを見て、仕入れ先の藤原さんの先代に「うちにも卸してくれ」言うたのが始まりやったそうや。それが藤原さんとこやったんやな。わしが高校の時までは置いて(仕入れて)なかったから、大阪に行っとる間に取引が始まったんやろな。

藤原さんの先代は、いろんなもんを作りよったわ。巻き寿司から鳥の足から、総菜みたいなのもいっぱい作って売りに来よった。それをうちも何ぼか仕入れて、店で出すというより、ほとんど全部、うどん玉と一緒に農家に売りに行きよったんや。

わしが継いでからも、藤原さんから天ぷらをようけ仕入れて、玉の卸しの時に一緒に積んで売りに行きよった。それを、食べさせる店にしてから店にうどんの添え物で置くようになったんや。最初はそんなに種類は置いてなかった。丸エビとゴボウはあったな。あと、サツマイモとレンコンと、大体は野菜ものの揚げ物。ゲソ天は最初はなかった。昆布天もずっと後や。

奥さん
藤原さんが時々、「これ食べるな? オカズにしてみな」言うて、新作の揚げ物を持って来てくれるんよ。それである時、ゲソ天を持って来てくれて、食べてみたら「わー、これおいしいわー」言うて、それでゲソ天を置き始めた。
大将
一回、バナナを揚げて持って来たことがあったな。けど、食べたらものすごく甘い。揚げたら一層甘くなるんや。それで、「これはいかんわ」言うたんやけどな、「これ珍しいな、行けるで」いう人もおった。まあお客さんはいろんなのがおるけど、あれはすぐに置くのをやめたな(笑)。

露の新次さん(後の新治さん)のラジオでお客さんが増え始めた?!

ーー 最初の頃(昭和50年代後半)、食べに来るお客さんはどれくらいいたんですか?

大将
最初はそなにようけおらん。外まで行列ができることなんかなかったな。クチコミで何人かずつ、来てくれる常連さんが増えて来たいう感じやな。
奥さん
安藤さん(麺通団・知将A藤)が早よから来てくれよった。その頃はパートさんもいなくて、私ら夫婦と姉さんの3人でしよったんやけど、洗い物が溜まってたら安藤さんが「間に合わんのやなあ」言うて洗い物を手伝ってくれたりしよった。

ーー えらいやつやなあ(笑)。

大将
そのうち、落語家の露の新次さん(現在は露の新治さん)が来てくれて、西日本放送のラジオでしゃべったんかな。それから一般のお客さんがぼちぼち来始めた。そういう感じで順々に増えて、1980年代はまあまあ食べていけるぐらいにお客さんは来てくれよったな。母さん(奥さん)がダシを作りよったんやけど、起きてくるのが遅いからダシが間に合わんようになったりしよったから。
長谷川
またそういうことを言うたら…
奥さん
言わしてあげといて(笑)。

後編に続きます

仲多度郡琴平町

純手打うどん 宮武うどん店

みやたけうどんてん

〒766-0006

仲多度郡琴平町上櫛梨1050-3

開業日 昭和27年頃

閉店

現在の形態 セルフ

(2015年7月現在)

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