さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

清水屋

【清水屋(高松市成合町)】
「讃岐うどん巡りブーム」以降に開業した新世代うどん店の波乱のヒストリー

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 16
  • 2022.01.24

全一話

清水屋

清水屋外観

お話:清水屋・清水睦夫さん(昭和37年琴平町生まれ)
聞き手・文:萬谷純哉

 「清水屋」がオープンしたのは「讃岐うどん巡りブーム」真っ只中の2002年。善通寺市で開業した後、映画『UDON』をはじめ雑誌やテレビにも何度も登場し、その後、高松市成合町に移転して現在に至る人気うどん店の店主に、昭和の先人たちとは違う、ブーム以降に開業した“新世代”の店の「開業ヒストリー」を伺ってきました。

子供の頃は、うどん好きじゃなかった

清水屋店主・清水睦夫さん

清水屋店主・清水睦夫さん

ーーまず、子供の頃のうどんの記憶からお伺いします。

 子供の頃、八百屋にうどん玉を買いに行かされてそれを家で湯がいて食べていたのを覚えていますね。そのうどんは、親父が湯だめが好きやったいうんもあると思いますけど、いっつも「湯だめ」でした。ダシはうちで作ってたと思います。いうても、ヒガシマルのうどんつゆに醤油足したりとかいうレベルやったと思いますけど、結構味はよかったんですよ。ただ、子供だから日曜の昼なんかはハンバーグとかそういうの食べたいじゃないですか。なのに湯だめばっかりだから、子供の頃はあんまりうどん好きじゃなかったんです(笑)。

ーー外でうどんを食べることはありましたか?

 外では満濃の「長田うどん」は親に連れられて行ったことありますけど、そこも「釜揚げ」やったんで(笑)。結局「湯だめ」と「釜あげ」のつけダシで食べるうどんばっかりで、子供の頃は僕、肉が乗ってるうどんとか天ぷらが乗ってるうどんとかをあんま食べてないですね。高校になったら学食に「かけうどん」がありましたけど、おばちゃんが天かすとネギとカマボコを乗せてくれるだけのうどんで、添える物はコロッケしかありませんでした。たぶん天ぷらなんかよりコロッケの方が簡単で管理しやすかったんじゃないですかね。

ーー法事とか風習的な場のうどんの記憶はどうですか?

 法事のうどんも全然記憶にないですね。うちは浄土真宗なんですけど、うどんじゃなくてお膳だったような気がするんですけど。もしかしたらおじゅっさんには来た時にうどん出っしょったかもしれんけど、少なくとも自分らの分はなかったと思います。けど、琴平の参道近くの友達のところは法事はうどんだったみたいで、その友達のお父さんが亡くなった時に、善通寺でやってたうちの店にうどん玉を頼まれたことがありました。

 あと、「うどん風呂」も、琴平で僕の知ってる範囲では聞いたことがなかったですね。だから、ブーム以降、テレビで何回か紹介されているのを見て「ほんま?」と思っていました。高校までのうどんの記憶いうたら、そんなもんかな。

「讃岐うどん巡礼」で“うどん作り”に興味が出て…

ーー大学は県外に出られたんですか?

 大学は京都です。で、卒業して香川県に戻ってきて高松市に本社のあった会社に就職したんですが、すぐに神戸の支社に転勤になって、神戸に住んだり西明石に住んだりしてました。阪神淡路大震災の時も神戸にいたんですけど、無事に生き延びました。それで兵庫県に9年おって、また高松の本社に戻ってきたら、『恐るべきさぬきうどん』いう本がえらい話題になってたんです。1995年頃ですかね。友達に聞いたら「うどんの食べ歩きをしてる」と言われたんですが、正直、最初は「何言ってるんだろう」と思いました。うどん屋をハシゴするって、意味がわからなくて(笑)。

ーー今でこそ普通にいろんな人が「うどん屋のはしご」をやってますけど、当時はおそらく“謎の概念”だったんでしょうね。

 普通に考えたらそうですよね(笑)。だから本が話題になってても僕は別に何も気にはしてなかったんですけど、その『恐るべきさぬきうどん』を出した「タウン情報かがわ」が今度は2000年に「讃岐うどん巡礼八十八カ所」っていうスタンプラリー企画を始めて、「何これ?」と思いながらも、自分も回り始めたんです。そしたら行く店行く店で思ってた以上に驚きがあって、その時に初めて「讃岐うどん」に向き合い始めたような気がします。で、うどん屋を回っているうちに、食べるより作る方がおもしろそうに思えてきたんです。

ーーうどん巡りで一気に「作る」方にまで興味が出てきたんですか。それで、脱サラしてうどん屋に転身することになったと。

 そうですね。ちょうどその頃、勤めていた会社もいろいろあって居心地も悪くなってきてて(笑)。そしたら、たまたま会社の同じ部署にうどん関連業者の息子さんがいて、「会社辞めてうどん屋しませんか?」って言われたんですよ。その頃は残業を毎日10時くらいまでしてたんで、それを聞いて単純に「うどん屋さんは昼に終わるからええな」と思ったんです。後から誤解やってのがわかったんですけど(笑)。それで会社を辞めて、最初は誘われた彼と一緒にやろうと思ってたんです。でも、いろいろ話しているうちに方向性の違いが出てきて、結局一人でやることに決めました。

うどんの講習を受け、箸蔵の「さぬきや」で修業し、「さぬきうどん科」で学ぶ

ーーうどんはどうやって習ったんですか?

 最初はすごく安易に考えてたんで、とりあえず「さぬき麺機」の講習に行きました。5日間くらいの講習で、機械の製麺、ダシのとり方とうどんの作り方の基本くらいは教わったんですけど、さすがにそれだけではいかんやろと思って、友達にも「いくらなんでもそのくらいではうどん屋はできんで」とか「ちゃんとどっかで習った方がええんちゃう」とか言われたんで、そこから修業ができるうどん店を探しました。そしたら、僕の中学校の時の同級生が徳島県三好市の箸蔵山ロープウェイの前で「さぬきや」っていううどん屋をやっていることがわかって、そこへうどんを習いに行くことにしたんです。

ーー徳島のうどん店に修業に行ったんですか。

 はい。徳島といっても琴平出身の同級生だし、他にツテもなかったんで。そしたら、嫌がられると思ったのに彼はとても親切で、すごく丁寧に教えてくれました。一応給料なしで行ったんですけど、うどんも打たせてくれましたし、おにぎりも作ったし、ねぎも切ったし、「一通りやらないかんで」って言われてもう全部やらせてもらいました。その頃、僕は宇多津町に住んでたんですけど、宇多津から三好市まで毎日、片道1時間かけて通いました。三好市だから道中は山道が多くて半年でタイヤが磨り減ってなくなりましたけど(笑)、あの時に教わったことが僕のうどんの基本になってると思います。当時の箸蔵の「さぬきや」はすごく流行ってて、盆の頃は忙しくて死にそうになりましたけど、「繁盛店で仕事をした」という経験も自分のすごい財産になってます。

ーー清水さんは県の職業訓練の「さぬきうどん科」の出身だとお伺いしたんですが。

 そうです。「さぬきや」さんに半年ぐらい通っている時に、県の職業訓練プログラムで「さぬきうどん科」ができたんです。僕は「さぬきや」さんでは無給で働いていたんで失業保険をもらっていたんですが、その間、職安に行くたびに「ちゃんと仕事探っしょんな?」って怒られよったんです。その時に家内が「さぬきうどん科」の募集を見つけてきたんで、それを持って職安で「これどうですか?」って聞いたら、「ああ、いいね。行ってみたらどうですか?」って勧められました。その頃、ちょうど失業保険も切れかけてたんですけど、職業訓練に通ってる間は失業保険が伸びるということで、渡りに船みたいな話で「これは天の導きかもしれん」と思って(笑)、喜んで行きました。

ーー「さぬきうどん科」の第1期生になったわけですね。

 そうですね。第1期は「さぬき麺業」さんが教えてくれてました。「さぬき麺業」さんは県のイベントとかにいつも参加したり、県と共同でいろいろされてましたので、たぶんその頃、県は何かあったらとりあえず「さぬき麺業」さんに声かけよったんやと思うんですよ。それで行ってみたら、「さぬき麺業」さんでいろいろ指導されている専任のリーダーみたいな人が講師で、その人が3ヵ月間、うどん作りをみっちり教えてくれました。

 内容は、「さぬき麺業」さんのうどん作りのスタイルですね。工場でその日使うダンゴを作ったり、こねてうどんの生地を作ったり、ダシをとったり、そういうのを手作業で毎日やって、日曜日は「さぬき麺業」さんの店舗に入ってお手伝いをするという日々が3ヵ月間続きました。「さぬきうどん科」は後に製麺機メーカーさんが指導を担当するようになって訓練期間も少し短くなったみたいですけど、僕の時はそれこそ普通に店を任せるぐらいまで指導をしてくれて、あれは本当に勉強になりました。

善通寺市で「清水屋」を開店

清水屋旧店舗

清水屋旧店舗

善通寺にあった旧店舗

ーーそして、「さぬきうどん科」の職業訓練を終えて「清水屋」を開店するわけですね。

 平成14年(2002)の3月に「うどん科」を卒業したんですけど、1期生の同期で卒業してすぐにうどん屋始めた人が1人いましてね。その人は、JR本山駅の中にあったパン屋さんがなくなって空いたところを借りてうどん屋を始めたんですけど、高齢やったんで、年齢の近いうどん科の卒業生の友達数人に手伝ってもらっていました。そしたら、その手伝いの1人が家庭の事情で行けなくなって、僕に「代わりに来てくれ」って言われて、しばらくその店に手伝いに行ってました。

 そこはけっこう流行りましたね。あの辺はあんまりうどん屋がなかったし、駅なんで周りに車を停めるところがいっぱいあって、しかも駅だから店ができたらすぐに近隣の人に知れ渡って、オープンした日からずっと満員御礼状態になってました。むっちゃ羨ましかったですよ(笑)。それを見て「こんなにすぐできるんや」って思って、「自分も早く店を出してこうなりたいなあ」っていう気持ちが湧いてきました。

 そんでしばらくそのお店を手伝っていたある日、僕に「善通寺でうどん屋をしないか?」という話が来たんです。うちの父が当時の百十四銀行善通寺支店の支店長さんの知り合いで、その人が「百十四銀行善通寺支店の向かいにある喫茶店が廃業して場所が空くんやけど、息子さんがうどん屋するんやったらどうな?」って言ってきてくれた。その支店長さんは大らかな人で、いろいろお世話になりながら、2002年の8月に善通寺のその場所で「清水屋」を開業したんです。

ーー2002年と言えば「讃岐うどん巡りブーム」の真っ只中だったと思いますが、オープン当初はどんな感じでしたか?

 それがですね、開店準備と家内の臨月が重なってしまって。僕は家と病院と店を毎日ぐるぐる走り回ってたんですけど、開店直前に子供が生まれて、それも双子だったんで、最初は家内が店を手伝ってくれる予定だったんですけど家内は手伝いも何もできなくなって、急いで2人雇って3人でスタートしたんです。1人は「さぬきうどん科」の同期の仲のいい人が「実地経験を積みたいからちょうどいい」ということで来てくれて、もう1人はパートさんを入れて。

 それで何とかオープンしたんですけど、やっぱ店舗のキャパが少なかったんで、昼はすぐに満杯になって人数が捌けなくて。その上、僕がうどんの出来たてにこだわり過ぎて、言い変えたら段取りが悪かったんで、玉を切らしまくったんです。お客さんが来ても「ちょっと待ってください」って。あれは大分お客さんにストレスをかけたと思います。

 けど、それでもすぐ近くに銀行や商店街や四国学院大学や善通寺市役所があったんで、最初からお客さんが結構来てくれてまあまあ順調に行ってたんです。ところが、1年後くらいに四国学院大学を挟んで向こう側に「こがね製麺所」ができて、大学も市役所も向こうの方が近くなったんで、一気にお客さんを持って行かれて(笑)。

ーーそれなりに順調なスタートを切ったのに、いきなり試練が来たわけですね。

 そうですね。でもちょうどその頃、店に麺通団の切り込み隊長の長谷川さんが来てくれて、さらに団長の田尾さんも来てくれて「おいしいやん、これ」って言っていろんなメディアに紹介する橋渡しをしてくれたんです。さらに「讃岐うどん巡礼88カ所」の第何弾かにも入れてくれたり、四国学院の大学祭のうどんイベントに出させてもらったり、田尾さんがプロデュースした大手通販会社の企画のラインナップに入れてくれたり。あと、豊浜町の「上戸うどん」の上戸君と三豊市の「SIRAKAWAうどん」の白川君と善通寺の「白川うどん」の山下君の4人を「若手四天王」って呼んでくれて、いろんなイベントに出してもらったりしました。僕はその中でも年齢がだいぶ上だったんで「若手四天王の長老」って呼ばれてましたけど(笑)。

 そうこうしているうちに、今度は本広監督が四国学院を舞台にした映画『サマータイムマシンブルース』のロケでうちの店に来てくれて、続いて2006年公開の映画『UDON』でもうちの店に何度も来てくれて、さらに「若手四天王」のみんなをはじめ、映画にも出させてもらったんです。そんなこんなで、あの頃ずいぶんメディアに出させてもらったおかげで店の知名度も上がって、それで県外からも結構お客さんがいらっしゃって、「これはこのままお客さんついてくれたらいけるんちゃうか」みたいに思いよったんです。

高松市成合町に移転する

移転後(現在)の店舗

移転後(現在)の店舗

ーー確かに、あの頃の清水屋さんは讃岐うどん巡りブームの“第二世代”の人気店で知られていましたね。

 メディアに出て名前が知れてきたこともあって、自分の中で「俺、やれてるやん」みたいに思ってる部分が少なからずあったんです。けど、今思えば、あの頃はちょっと勘違いしてたんですね。商売がうまくいくかどうかにはいろんな要因が関わってくるんですけど、いろいろ注目されていたことで、そこにちゃんと問題意識を持っていなかったというか。それで、そこからちょっと伸び悩みというか、低迷し始めたんです。

 原因の一番はたぶん、駐車場がなかったことだと思います。ちょっと先に市営の有料駐車場はあったんですけど、店の前の道路にちょっと車を停めて来る人が多くて、ちょうどその頃、駐車違反の取り締まりが厳しくなったこともあって、お客さんが減り始めたんです。あと、日曜日が定休日だったのもマイナスだったみたいで。要するに、マーケティングの基本的な要素の部分で、もともといくつか難があったわけですね。その上に、その頃うどんの作り方にもちょっと行き詰まったところもあって、田尾さんに「ちょっと今日の固いな」ってダメ出しされたりしたこともあって。

 それでも何とか頑張って10年ぐらいやってたんですけど、なかなか明るい未来が見えてこないんで、「このままここで細々とやっていくんでええんやろか。どうしたもんかな」と悩み始めたんです。そしたら家内に「善通寺にこだわらんと、人の多い高松とかで移転先探したほうがええんちゃうか」って勧められて。僕は琴平出身なんでできたら西でやりたかったんですけど、結局、高松で物件を探すことにしたんです。

ーー絶好調で高松に出てきたというわけではなかったんですね。

 全然違います。それこそ必死に、すがる思いで(笑)。でも最初のうちはなかなかいい物件が見つからなくて、自前で店を建てようかとも思ったんですけど、お金を借りようと思って銀行に行って決算書を見せたらきっぱりと「無理です」って言われて(笑)。一時は「借りてくれ、借りてくれ」って言うてきてたのに、ちょうど渋い時期やったんですかね。それで途方に暮れていた時に、ある人からのツテで「ここ(今の場所)が空いたけど、する?」って声を掛けていただいたんです。それで、「もうここしかない」と思って、2012年に高松市成合町の今の場所に移転しました。

ーーここという時にいろんな人が助けてくれたんですね。

 本当にありがたいことです。善通寺の最初の店もいい人が紹介してくれましたし、ライバル店ができて苦しかった時には田尾さんや長谷川さんをはじめ麺通団の皆さんや本広監督とかが応援してくれたし、この場所も困っていた時に“救いの神”みたいなタイミングで紹介されて。善通寺時代の10年は今から考えたら至らんところばっかりだったんで、正直、そういういろんな人の応援がなかったら早いうちにやめてたと思います。ほんまに恐縮です。

「人と運に恵まれて、ここまでやってこられました」

ーー移転してからは順調ですか?

 最初からお客さんがたくさん来てくれたわけではなかったんですけど、今の店は「中野うどん学校」さんに隣接していて大きな駐車場があるんで、バスが入ってくるんです。観光バスや、うどん巡りをする「うどんバス」が入ってきて、そこからうちにもお客さんが流れてくるようになりました。「うどんバス」は最初の頃は大きなバスに2人や3人しか乗ってないこともよくありましたけど、ある時期から韓国や台湾や中国とかの海外から団体客が来るようになって、おかげで何年間はそれで潤いました。

 それとやっぱり、店が広くなったというのは大きいですね。善通寺でやってた時は20席ぐらいだったんですけど、こっちに来て50席ぐらいになったらお客さんをあまり待たせることがなくなって、そしたら今まで「混んでるからやめよう」となっていたお客さんを拾えるようになったんです。お客さんの方も待ち時間を心配せずに「とりあえずあそこ行こか」みたいになるらしくて、そういうのもだんだん集客につながってきたように思います。

 あと、今度の新型コロナでどうしようもなくなった時にも、すぐ近くで中学校の校舎の建て替え工事が始まって工事現場の人が来てくれるようになって、もちろんコロナ禍のマイナスをカバーするほどではないですけど、かなり助かりました。何か、そういうのは“運”ですね。改めて振り返ったら、本当に人にも運にも恵まれてここまでやってこられたように思います。

「柔らかくてコシのある麺」を目指して

清水屋・かけうどん

ーー「うどん作り」の話になりますが、粉についてはどんなこだわりをお持ちですか?

 まだ偉そうなことは言えないんですけど、粉の状態はいつも気にしています。粉は基本オーストラリア産を使ってるんですが、船に乗ってくるコンテナが変わると小麦の品質も違ってくるんですね。極端な時には別の小麦粉みたいになってることがあるんです。粉を触ったぐらいではなかなか違いがわからんのですけど、うどんにしてみたら「あれ?」っていうぐらい違ってることがあるんです。一度「測り間違えたんかな」と思って調べてみたらやっぱりコンテナが変わっとったことがあって、それからうちは納品されるたびにコンテナが変わったかどうか教えてもらってます。ま、教えてもらっても「変わった」ということしかわからないんですけど(笑)、作ってみたら明らかに違うんで、変わり目の時には必ず確認しよります。でも、オーストラリア産の小麦粉は昔とは明らかに違ってきてますね。あと、「さぬきの夢」も不安定ですね。生産量も少ないですし、気候もここ数年むちゃくちゃですからね。

ーー麺作りについてはどうですか?

 自分の好みとしては、柔らかくてコシのあるうどんが好きなんですよ。しっかり茹でて、単に柔らかいだけじゃなくて弾力もあるうどん。それを目指して粉から麺線を作っていって、最後の「茹で」で決める、というイメージで作っています。

 ただ、やっぱり県外の人の多くは「固いのが讃岐うどんだ」と思っているみたいですね。以前、僕がちょうど店の移転前で体が空いている時に「吉原食糧」の社長さんに誘われて東京の麺類関係企業のフェアみたいなところに行って、広い会場の一角で手打ち実演でうどんを出したことがあるんです。そこで僕がいつも作っている柔らかくてコシのあるうどんを出したら、社長をはじめ香川の関係者がみんな「これはおいしい」と言ってくれたんですけど、県外の人から「柔らかすぎる」って言われたんですよ。それで仕方なく茹で時間を短くして、ラーメンで言えば「バリ固」みたいなうどんを出したら、「これやこれや」言われて評価がガラッと変わって、急に商談が増えました(笑)。「いや、それ、ちょっと固いんやけどな…」と思ったんですけど、その時はそれがすごく喜ばれたんです。

 そこでいろいろ話を聞いてみたら、県外のたいていの人は「コシ」と「固さ」を勘違いしているみたいですね。それと、「この粉を使ったらこういう固さのうどんができる」というふうに、粉の種類で固さが決まると思っている人が多いみたいです。僕はその場で、同じ粉で茹で時間を変えるだけで柔らかいのと固いのを出したんですけどね(笑)。でも、味は人の好みですから、ところ変わればお客さんの求めるものも変わってくるんやなと思いました。
 
ーー香川のうどん屋さんで、好みのうどんはありますか?

 今までで一番記憶に残っているのは、さっき言った「若手四天王」の一人の「上戸」のうどんですね。上戸君の作ったうどんを最初に食べた時、「なんておいしいんや!」って思いました。麺もダシも。それでたまらず「かけ」をお代わりしたら、奥さんが「ありがとう」って言うてくれたんですけど、3杯目を頼んだら「アホちゃうん」って(笑)。けど、とにかくあの味を焼き付けておこうと思って必死で食べたのを覚えています。あの「上戸」のうどんは今も頭のどこかにちゃんと残っていて、ちょっと迷った時なんかには必ず甦ってきますね。

“運”を引き寄せながら、“運”に応えられる実力を付けていきたい

ーーいろいろお伺いしてきましたが、改めて振り返ると波瀾万丈というか、すごくいろんな状況を経験されてきたことがわかりました。

 そうですねえ。僕は「讃岐うどん巡りブーム」に乗って開店した世代ですから、戦前や戦後間もない頃に開業したうどん店とはだいぶ様相の違う経緯を持っていると思いますが、波瀾万丈の中で本当にいろんな勉強をさせてもらいました。あの時代はブームに乗って全国の雑誌やテレビが讃岐うどんの店をどんどん紹介してくれたんで、うちに限らず、何かの拍子に急にお客さんが増える店がよくあったと思うんですけど、その時に店としてどう対応するかというのは結構大事ですね。やっぱり味やサービスを落とさずに、浮き足立ったり驕ったりせずに乗り切れたお店が、ちゃんと残っていくんだと思います。

 それと、“運”もやっぱりあると思います。僕はいろんな節目節目で、本当に運に恵まれていたと思います。善通寺で店を始めた時も、たまたまちょうど同じ頃に麺通団の田尾さんが四国学院大学の教授として来られて、うちの店がすぐ近くだったんでよく来てくれるようになって、ラジオや雑誌でいじってくれるようになったんですけど、あれなんか本当に“運”ですね。

ーーでも、清水屋さんは長年手打ち職人をやられていますけど、職人にありがちな取っ付きにくさがなくてとても温和で柔軟で、そういう人柄が“運”を引き寄せているんだと思いますよ。

 いやいや、僕も若い頃は結構勘違いしてましたから(笑)。だから、高松に移転してからは「敗者復活戦」のつもりで頑張っています。ブーム以降、香川のうどん店のレベルは間違いなく上がってきていますし、お客さんも昔は「安く食べられたらいい」くらいの人も多かったと思うんですが、今は舌も肥えてきて「どうせならおいしいところに行こう」という気持ちが強くなってきていますから、ちょっと油断したらすぐにお客さんから選ばれなくなる。そうと思うと、とても余裕を持てる状況ではないですよ。新型コロナによる外食産業不況もまだ先が見えませんし、何とか“運”を引き寄せて、その“運”に応えられるようにまだまだ実力を付けていかないと。

ーーどうもありがとうございました。お話をお伺いしてますます清水屋さんのファンになりましたので(笑)、これからも応援しています。

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