さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

【松下製麺所】
高松市の中心街で50年近くの歴史を刻む“町の製麺屋さん”の歴史がここにある

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 2
  • 2015.11.24

第三話

松下製麺所・後編

<昭和50年頃〜昭和63年頃>

昭和50年にセルフの飲食を開始

ーー さて、昭和50年代です。

右が松下名物の、細雪のようなサラサラの天カス。

右が松下名物の、細雪のようなサラサラの天カス。

大将
40年代の後半あたりから街中にスーパーができ始めて、八百屋とか食料品店がだんだん減り始めたんです。すると、うどん玉を卸す先も減っていくわけで、「じゃあ代わりに製麺に加えて飲食もやろうか」という話が出てきた。でも、うちは飲食店にうどんを卸しよるから、うちがうどんの飲食を始めたらお得意さんの営業の邪魔になると思って、飲食の営業許可はしばらく取らなかったんです。まあ、近所の知った人が台所に入ってきて勝手に食べるいうのはあったけど(笑)。

それでも結局は、時代の流れには逆らえないというやつですかね。昭和50年に飲食許可の申請をして、まあ簡単なカウンターみたいな席を作ってお客さんにもセルフで少しずつ食べてもらえるようにしたんです。その頃はどうですかねえ、うちみたいな製麺屋がついでに食べさせるみたいなのはあったと思うけど、まだ自分の店でうどんを打って出すという、今みたいなうどんの専門店は数えるほどしかなかったと思いますね。

セルフで飲食を始めたら、近くのサラリーマンとか学校帰りの生徒さんがよく食べに来てくれました。うちは割と遅くまで、夕方ぐらいまで店を開けていたから、5時や6時に「今から残業や」言うサラリーマンもよく来てた。最初はかけうどんだけですわ。麵はあるからダシだけ用意して。あ、いなり寿司と丸い天ぷらは最初から置いていましたね。いなりは、知り合いの餅職人がいなりを作り始めてうどん屋やスーパーに卸しよったんですよ。それをうちにも置いてた。

丸い練り物の天ぷらは、西内町の「たばこや蒲鉾店」から仕入れていました。今の先代がやっていた頃ですね。最初はうどんと、そのいなりと丸天だけだった。その後、いなりを置いてくれていた人が亡くなって、別のところから仕入れるようになったら「揚げ物もある」言うんで、揚げ物も置くようになりました。店で揚げ物を作ろうとは思いませんでしたね。自分とこで揚げたら家が油臭くなるから(笑)。

ただ、あのサラサラの天カスだけはうちで作っています。あれを作ったのは、ちょっときっかけがあってね。実は僕は若い時、兵庫町の「丸福」というそば屋の天ぷらそばが大好きだったんです。特に、その天ぷらのコロモが素晴らしかった。混ざり物のないきれいなコロモが、ダシに溶けるんです。それが忘れられなくて、うどんの飲食をやる時に、あれと同じような天カスを出そうと思ったんです。見よう見まねでいろいろやってね、純粋なサラダ油だけで試行錯誤して、あのサラサラの天カスができたんです。

ーー じゃあ、昭和50年代になって、今の玉の卸しとうどんを食べさせる店の形になったというわけですね。

大将
そういう感じやね。50年代は卸しも飲食の方もまあ順調だった。けどやっぱり玉売りの方が利益が大きいんよ。飲食は手間がかかる。ダシもネギも天カスも作らないかんし、お客さんが来たらそれがどんどん減っていくから補充せないかんし。一般店なら当たり前のことやけど、玉の卸しをしよったら、卸しの方がずっと効率がよかった。それで、当時は今みたいに外食チェーンやら何やらいうて飲食店がいっぱいあったわけやないから、卸し先の飲食店も景気が良くて、その分、うちの売上も順調だった。そんな時代やね、昭和50年代から60年代、それから平成に入った頃までは。

<平成〜>

「昔のほのぼのとした雰囲気が懐かしく思うような歳になってきましたね(笑)」

ーー そこからまたちょっと状況が変わるんですか?

生地を延ばすのも全て、昔ながらの手作業。

生地を延ばすのも全て、昔ながらの手作業。

大将
1988年(昭和63年)に瀬戸大橋ができた頃から、だいぶ様子が変わり始めた。うどん玉の卸しのピークはその頃だったような気がします。その頃から、うどんの専門店やいろんな飲食店がどんどん増え始めたからね。そんなにしよるうちに、うどん巡りのブームが来たんや。

1995年(平成7年)頃から食べに来るお客さんがものすごく増え始めて、それからずっと。卸しのピークが過ぎたら、今度は食べに来るお客さんのピークが来てね。2000年(平成12年)頃は、午前11時から午後1時までで、食べに来るお客さんだけで600玉ぐらい出よった。

映画『UDON』がいつでした? 2006年ですか。それから高速の1000円が2009年ですか。あれでもう一回ワーッとなって、もうその頃には、卸しの販路は以前の半分ぐらいになっとったん違うかな。そやから、卸しだけをしよる製麺屋さんは売上が減るから跡継ぎもできんで、だんだん辞めていった。その後はもうね、政権交代してから景気も露骨に悪くなってきて、玉の卸しはそこからずーっと悪いままです。ゆで麺の製造卸は、いわゆる構造的不況業種になってしまったから、どうしようもないと思います。

まあ振り返ったら、昭和40年代、50年代はええ時代でしたね。個人商店がいっぱいあって、そこで近所の人の寄り合いみたいなコミュニケーションがいっぱいあってね。八百屋にうどん玉を卸しに行っても、おばちゃんが寄って暑いの寒いの言うて、あれがどうしたこうしたという話をして。けど今はどこの店に行っても「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」だけでしょ。しまいに、よその国の言葉まで出てきてるし(笑)。昔のほのぼのとした雰囲気が町からなくなってきたという感じがありますね。うどんもロボットが作ったようなのがいっぱい出回ってきたし…。

でも、うちは店もうどんもほとんど昔のままやから。最初始めた頃(昭和40年代)は「太いのが讃岐のうどんや」言う人が多かったけど、山田竹系いう人が「よく延ばして少々細くなるぐらいがうまいうどんだ」とか言い始めたように記憶しています。アズマヤのうどんも割と細かったから、あの頃にもちょっと細くしていきよった時代があった。そうやって時代時代でうどんも変わって行きよんやろと思うけど、うちはずーっと昔のままやね。

だから、昔、学生時代にうちに食べに来よって都会に就職した人が帰ってきて「懐かしいなあ」言うて、時々寄ってきてくれたりするんよ。うどんブームはそれはそれでおもしろかったけど、この歳になったらそういうコミュニケーションがホッとするところはありますね(笑)。うちは今も昔も変わらんですし、これからも変わらんですわ。そやね、あと20年は現役ですわ(笑)。

高松市

松下製麺所

まつしたせいめんしょ

〒760-0008

高松市中野町2-2

開業日 昭和41年

営業中

現在の形態 製麺所

http://www.matsushita-seimen.jp/information.html

(2015年7月現在)

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