さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

【松下製麺所】
高松市の中心街で50年近くの歴史を刻む“町の製麺屋さん”の歴史がここにある

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 2
  • 2015.11.20

第一話

松下製麺所・前編

<昭和21年〜昭和40年頃>

松下製麺所の店頭。右が入り口、左は名物の立ち食いスペースです。

松下製麺所の店頭。右が入り口、左は名物の立ち食いスペースです。

 昭和30〜40年代、高松市の中心街には「食堂」がたくさんありました。食堂にはたいてい「うどん」のメニューがありましたが、そのうどんは自家製ではなく、製麺屋さんから茹でたうどん玉を仕入れて、ダシや具だけをお店で用意してうどんメニューを作って出していました。そのため、そういう食堂にうどん玉の卸しをする“街の製麺屋さん”がたくさんあったようです。しかし、平成15年現在、高松市の中心部から“製麺屋さん”はほとんど消えてしまいました。今、わずかに残った高松市街地の製麺屋さん、中野町の「松下製麺所」の大将に、その歴史を振り返っていただきました。

20歳の頃(昭和40年頃)、近くの製麺所に手伝いに行ったのが「うどん」を始めたきっかけ

ーー 大将がうどんを始めたきっかけあたりからお聞かせください。

客席の奥の厨房です。突き当たりを左折すると製麺スペースがあります。右手前は客がテボで湯煎するところ。

客席の奥の厨房です。突き当たりを左折すると製麺スペースがあります。右手前は客がテボで湯煎するところ。

大将
僕は昭和21年生まれなんですけど、生まれてすぐに家が峰山の上に引っ越してね。親父に聞いたら、ちょうど峰山の上が開拓され始めた頃だったらしくて。親父はもともとはブリキ職人で、当時の馬淵金属(後のマブチモーター)の創業者の馬淵健一さんと板金の師弟関係にあったそうです。それから、僕が生まれた頃からは朝日金網(現朝日スチール)の春日工場で工場長になって、倉庫の上の換気に使うベンチレーターなんかを作ったりしていました。

とにかく僕が子供の頃(昭和20年代)は、うどんを食べたという記憶はほとんどないですね。親父は残業、残業で毎日帰ってくるのが遅かったから、家でうどんを作って食べることはまずなかったし、たまに親が家で小麦粉を練っていましたけど、それは細長いうどんではなくて、団子汁のようにして食べていました。外食も、峰山の上に住んでるから街中に出て行くことがあまりなくて、食堂でうどんを食べたという記憶もないですね。当時はうちだけでなくて、うどんに全然縁がない家も結構あったと思いますよ。

僕はその頃、ドラ息子でねえ(笑)。昭和39年に高校を出て1年くらい、仕事もせずにブラブラしていた。早くから車の免許は取ってたんで、朝は峰山の上から親父を乗せて春日の工場まで送って、夜は8時、9時になって親父を迎えに行くみたいなことをしていました。そしたら「東京科学(後のマブチモーター)に就職するか?」いう話が来て、とりあえず東京に行ってみたけど、僕は工業系の技術も能力もないから絶対にやっていけんだろうということで、結局就職するのはやめたんです。

そしたら今度、僕が19か20歳の頃だったかな、栗林町の今のポッポ藤塚とパークサイドホテルの間の路地にあった親父の知り合いの「伊賀製麺所」といううどん屋さんのご主人が亡くなって、そこで「手伝いをしてくれないか?」という話が来たんです。手伝いと言ってもうどんを打つんじゃなくて、配達とか雑用やね。それで、とりあえず伊賀製麺所の手伝いに入ることにした。昭和40年頃でしたね。それが、僕がうどん屋を始めることになった最初のきっかけですね。

伊賀製麺所は市街地の中堅規模の製麺所だった

開業当初に頂いた、優良ゆでめんの賞状です。

開業当初に頂いた、優良ゆでめんの賞状です。

大将
僕が手伝いに行ってた頃の伊賀製麺所は卸しと小売のうどん屋さんで、ご主人が亡くなってからは奥さんがほとんど一人で切り盛りしていました。機械が入っていましたからね。今の讃岐麺機の前身の岡原農機さんとこの、粗いのと細かいのとローラーが2つついていて、奥さんがうどんの生地をそこに何回か通したら練った状態になっていくという、まあ踏む代わりの機械やね。数をこなさないかんから、伊賀さんのところは結構機械が入っていましたね。

当時は他の小さい製麺所のほとんどは、生地を足で踏んでいたと思います。切るところは道具が入っているところもありました。今の包丁切りは、上の包丁が動いて行って麺を切るでしょ? けど昔(昭和30〜40年代)のは下の台が動くやつを使いよるところが結構あった。当時はあれが、小さい製麺所の麺切り機の定番だったんじゃないですかね。でも、ある程度の量を捌く製麺所は、あれで全部作りよったら間に合いませんから、それなりの機械が入っていたと思いますね。

伊賀製麺所の一番大きな卸先は、県庁生協でした。それから八百屋さんに卸すのが12〜13軒。あとは病院の給食用とかレストランとか、いろんなところに何軒も卸していましたね。小売は、近所の人がカゴを持って茹でたうどん玉を買いに来ていました。

当時、高松の街中には製麺所がいっぱいあってね。覚えているのは、中新町の「丸川製麺」、田町の「わたや製麺」、番町の「源芳」、「久保」。久保さんはセルフうどんの走りやったと思う。それから栗林に「上原」、「谷本」、宮脇町の「丸山」…。駅の方に行ったら「井筒」、「かな泉」。今県庁のそばにある森製麺所も、その頃は扇町にありました。

その中でも大きかったのが、井筒と源芳と金泉(のちの「かな泉」)。この3つが高松の大手製麺三大メーカーでした。僕が知ってるのは、それぞれ今の先代のおやっさんの時代です。でも、みんな昭和40年頃は元気だったけど、今は3つともやめてしまいましたね。当時のあのあたりにあった製麺所で今もやっているのは、森製麺所さんと上原さんとうちぐらいじゃないかな。森さんと上原さんは今はお店の方が主体になってるから、製麺所主体のままの形でやっているのは、もううちぐらいしかないかもしれん。

中編に続きます

高松市

松下製麺所

まつしたせいめんしょ

〒760-0008

高松市中野町2-2

開業日 昭和41年

営業中

現在の形態 製麺所

http://www.matsushita-seimen.jp/information.html

(2015年7月現在)

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