香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

昭和26年生まれの男性の証言

1970年の大阪万博に出店していた『京樽』で「うどん販売」を行っていた髙橋さんの証言

(取材・文:

  • [showa]
  • vol: 304
  • 2021.07.29

「京樽」の大阪万博での「うどん販売」の思い出

すし屋なのに、売上の半分が「うどん」になった

 私は1969年(昭和44年)に「京樽」に入社したのですが、翌年春に大阪万博が開幕して、そこに「京樽」が出店することになったため、入社2年目で万博会場に行くことになりました。「京樽」は名店街と中央広場、木曜広場、金曜広場の4カ所に店を出して、当社オリジナルの「茶きん鮨」や海苔巻き、いなりすしを始め、うどんやかき氷も販売していましたが、とにかくどれも飛ぶように売れました。万博会場には「名店街」や「中央広場」、「月曜広場」、「火曜広場」、「水曜広場」…等々、飲食店が集まる広場がたくさんありましたが、とにかく来場者があふれていたので食事処はとても足りないという状態だったと思います。

 ところが、あまりに売れたせいで、途中ですし類の販売にちょっと問題が出てきました。実は、当社のすし類は紙の使い捨ての容器で売っていたんですが、あまりの売れ行きに食後の容器ゴミが万博会場にあふれてしまって、万博側から「京樽さん、何とかして」とSOSが来たんです。それで、開幕から1カ月ぐらい経った頃に、使い捨て容器を使ったすし商品の販売をストップしたんです。

 そこから、京樽はすし屋なのに、売上の半分くらいがうどんになっていましたか(笑)。いなりは販売を続けていましたが、うどんといなりのセットが大人気でしたね。来場者は圧倒的に日本人が多いのですが、当時の日本人はナイフやフォークで食べる食事より簡易なすしやうどんの方が慣れているし、関西ですから「うどん」が特に売れたんじゃないでしょうか。あれがもし東京開催だったら、そばが人気だったと思います。

「自動ゆで麺機」も使って、1日最高4000杯を売った

 うどんは「金曜広場」をメインに、「自動ゆで麺機」を使ってフル稼働で販売しました。麺は「さぬき麺業」さんから仕入れていたんですが、ゆで麺の袋麺を自動ゆで麺機でどんどん温めて出していたような記憶があります。その他の食材は関東から関西に運びました。エビ天は会場の近くの工場で揚げて、毎日会場に運んでいました。うどんつゆは濃縮ダシを使用し、バケツで希釈して寸胴で温めて提供していました。

 うどんメニューは、かけうどん、きつねうどん、月見うどん、天ぷらうどんの4種類で、単価は100円~150円くらいでした。店の営業時間は9時から21時まででしたが、開店から閉店までずっとお客様が並びっぱなしで、旗を持ったガイドに先導された団体客もひっきりなしに来店されました。万博の会期は3月11日から9月15日までの半年間でしたが、毎日がそんな状態でした。売上は4店舗で1日50万円くらいだったと思いますが、そのうち半分くらいが「うどん」でしたから、1日1500杯は売ったんじゃないでしょうか。最高1日4000杯を記録したこともあったと思いますが、何しろ入社2年目のことなので、そのあたりの数字は正確ではないかもしれません。とにかく、私はテボ振りで腱鞘炎になりそうでした(笑)。

「讃岐うどん」という名前は出していなかった

 私は特に「うどん」に思い入れがあったわけではありませんが、会期中は毎日の食事が店の「うどん」でした。私は東北の生まれで東日本の黒いつゆのうどんで育ったので、最初は店のうどんのつゆの色が薄くてちょっと違和感がありましたが、すぐに慣れてきました。東日本からの来場者の多くも、「関西の薄い色のつゆのうどん」を認知したと思います。ただし、看板には「うどん」とだけ書いてあったので、「讃岐うどん」としてはの名前はあまり知られなかったかもしれません。

 その後、「京樽」は万博が終わった後にダイエーの中にうどん店を出したりしましたが、残念ながら関東には根付きませんでした。今でこそ東京を中心に関東でもうどん店はずいぶん増えましたが、当時はそば店ばかりでうどん店はあまり見かけませんでした。また、つくば万博にも出店しましたが、さすがにあの大阪万博ほどは売れませんでした。いずれにしろ、大阪万博で総勢50人くらいのスタッフが嵐のような勤務をしたことは、今でも忘れられない貴重な体験でした。

●編集部より…「大阪万博と讃岐うどん」と言えば、「万博会場で讃岐うどんの手打ち実演が大人気になって、それが契機となって第一次讃岐うどんブームが巻き起こった」という話が一部で伝わっていましたが、この「讃岐うどん未来遺産プロジェクト」の「新聞で見る昭和の讃岐うどん」の情報収集で、どうも「万博会場に讃岐うどんの手打ち実演の店は出店していなかった」ということがわかってきました(「新聞で見る昭和の讃岐うどん/昭和45年」参照)。一方、「さぬき麺業」さんのHPに「『京樽』からさぬき麺業に“常駐のうどん職人を派遣して欲しい”という依頼があった」、「会場で1日7000~8000玉を売った」等の話が出ていましたが、この「京樽」の高橋さんのお話とは微妙に数字やニュアンスが違ってたりします(笑)。ただし、本稿は「証言のデータベース」であって「正解を出す」ことは第一義ではありませんので(第二義くらい・笑)、一つの貴重な「証言素材」としてお読みいただければ幸いです。

  • TAGS: 
  • 関連URL: 

ページTOPへ