さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.28 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和45年(1970)>

(取材・文:  記事発掘:岡谷幸子)

  • [nazo]
  • vol: 28
  • 2020.07.23

大阪万博、県産小麦の壊滅、「うどんの庄 かな泉」のオープン等々、話題が満載!

 いよいよ「大阪万博」の年です。昭和45年(1970)3月15日から9月13日まで約半年にわたって大阪の千里で開催された日本万国博覧会は、世界77カ国が参加し、企業や国際機関等々を含めて100近いパビリオンや施設、イベント会場等が集結。来場者数は6400万人を超え、そのうち外国人客は200万人足らずだったそうですから(まだまだインバウンドブームじゃなかったので)、日本人客だけで6000万人超。述べ数字ながら、当時の日本の人口(1億人ちょうどくらい)の何と6割以上が万博会場に足を運んだという、圧巻の超大イベントでした(筆者も中学生の時、香川の田舎から万博会場に行きました)。

 その万博と讃岐うどんの関係といえば、讃岐うどんの歴史を語る書物やサイトの中に「大阪万博で讃岐うどんの店が手打実演を披露して大人気を博し、一気に讃岐うどんの名が全国に広まった」という話が散見されるように、「万博が讃岐うどんを全国に広める一つの大きな契機になった」という捉え方がどうも通説のようです。しかし、万博会場に香川のどこのうどん店が出店していたのか? 誰が手打実演をしていたのか? どれくらい繁昌していたのか? 等々の具体的な話はどこにも載っていないし、誰も語っていない…そこで俄然、この新聞記事発掘作業に期待がかかってきました(笑)。

 加えて、この年は県産小麦が天候不順で再び壊滅的な打撃を受け、以後、そのまま長期低迷時代に入るという大きなターニングポイントになった年。また、昭和の讃岐うどん界の王者に君臨していた「うどんの庄 かな泉」の大工町本店がオープンするなど、なかなかの話題が満載の年です。では、まずは大阪万博に関する香川県関係の記事から拾ってみましょう。

地方自治体館PRステージで「香川県の日」開催!

 

 3月15日に開幕した大阪万博ですが、3月から4月あたりの四国新聞に載っていた万博記事はすべて全国ネタで、香川県関連の記事は見当たりませんでした。それが一気に載り始めたのは、5月13日から4日間開催された「香川県の日」に関するものです。まずは、ほのぼのとした丸亀うちわの記事から(笑)。

(5月8日)

万国博に狙う 「香川県の日」の大うちわ
入場者にプレゼント 宣伝にも一役果たす

 丸亀団扇商工業協同組合では県からの注文で万国博「香川県の日」へ出品する大うちわ4本を作っていたが、このほど完成、県を通じて万国博会場へ送ることになった。この大うちわは、同組合の職人5人が約1週間がかりで作り上げたという超特大級。うちわの高さは1.3メートル、幅1.65メートル、うちわの持ち手だけでも1.2メートルから2メートルもあるという。13日から16日に「地方自治体館」と「いこいの広場」に出品され、香川県の宣伝に一役果たすことになった。このほか、10センチ余りのミニうちわ8000本も作られ、これには香川県の代表的な民踊が紹介されている。このうちわは期間中会場を訪れる人たちにプレゼントされるが、地元ではこれを機会に“丸亀うちわ”を売り出そうと張り切っている。

 大阪万博では会場の一角に「地方自治体館」というパビリオンが設けられていて、そこに併設された「いこいの広場」というイベント広場で、47都道府県が4日ずつ持ち回りで「○○県の日」というご当地PRの催しを行っていました。その一連の日程の中で、5月13日から16日までの4日間にわたって「香川県の日」が開催されたわけですが、「人類の進歩と調和」をスローガンに掲げた万博で、アメリカ館は「月の石」を展示し、会場には日本で初めて「動く歩道」が登場し、さらに数々の企業館で世界の最先端技術が紹介される中、香川は「丸亀うちわでPR」です(笑)。

 しかし、これは香川県に限った話ではなく、地方自治体館の「都道府県の日」ではほとんどの都道府県がご当地の郷土芸能の披露や物産の展示販売といった旧態依然とした催しに終始していたようで、あの大阪万博の中で地方自治体館はちょっとテイストの違う一角になっていました。筆者も万博会場で「地方自治体館」へ行ったことがあるのですが、わざわざ都道府県のイベントを見に行ったのではなく、広い万博会場のどこへ行っても人がごった返していたので少しでも空いているところを探して休もうと思って彷徨っていたら、行列がなくてホッと一息つける場所に出たのが「地方自治体館」だったというわけです(笑)。その日は「香川県の日」ではありませんでしたが、やはり民謡みたいな踊りをやっていた…という遠い記憶があります。

万博会場の「讃岐うどん」は、地方自治体館のレストランでメニューに加えられただけ?!

 そしていよいよ、「香川県の日」が開幕しました。地元四国新聞はここぞとばかりにその様子を連日大きく報道していましたが、まずは開幕日の様子から。

(5月14日)

万国博、「香川県の日」開幕
薫風に県旗高らか 世界に讃岐紹介 「一合まいた」で景気づけ

 世界の人たちに香川県の姿を紹介する万国博・地方自治体館「香川県の日」が13日開幕した。同日は朝からカラリとした“さつき晴れ”に恵まれ、“光あふれる香川”の行事にピッタリするような初夏の太陽が輝き、万国博会場へは午後5時現在で24万人の観客が繰り込んだ。

 午前9時半から地方自治体館中庭の“いこいの広場”で香川県企画部長、地方自治体館副館長、香川県大阪事務所長ら関係者約60人が出席して開会式が行なわれた。まず、自治体館ホステスの○○さん(善通寺市出身)をはじめ、ミス万国博の○○さん(高松市出身)、○○さん(同市出身)ら女性5人が県民歌演奏のうちに5本のポールに県旗を掲揚した。次いで、香川県企画部長が「万国博会場を訪れた内外の人たちを通じて力強く発展する郷土・香川の姿を知ってもらう絶好のチャンス」とあいさつ、地方自治体館副館長が「古い伝統を持ち、新しい産業が芽生えている香川なので、きっと立派な県の日の催しとなるでしょう」と祝辞を述べた。最後に、この日会場に一番乗りの静岡県磐田市の○○ちゃん(4つ)らが紅白のテープにハサミを入れ、開会式を終わった。

 このあと、正午から「いこいの広場」の六角ステージで郷土民謡が披露される予定だったが、観客が早くから詰めかけたため、開演時間を繰り上げ、午前10時、鎌田郷土民踊団長の「芸どころ讃岐の心意気を見せよう!」との合図でこの日のために練習を重ねてきた踊り子40人が繰り出し、高松まつりでおなじみのさぬき踊り「一合まいた」や全国に知られる「こんぴら船々」ら5つの郷土民踊を次々に披露、外人を含めた観客の盛んな拍手を浴びた。また、「栗林公園箱松」の大写真パネルを飾った特別展示室では、キンマ、存清など伝統美術、工芸品、盆栽、カンカン石の民芸品などが展示され、観光映画の上映も行なわれた。いこいの広場では丸亀特産の大うちわを飾り、踊り見物客には県職員らがミニうちわを配った。香川の日は16日までで、地方自治体館のレストランでは讃岐名物の手打ちうどんもメニューに加えるなど、期間中地方自治体館を香川一色に塗りつぶす。

「格調高い展示」と自画自賛の金子知事

 “エー 一合まいたモミの種”…地方自治体館「いこいの広場」は13日、終日にぎやかな讃岐民謡のお囃子が流れ、華やいだ雰囲気。演し物は「こんぴら船々」「こんぴら船々ばやし」さぬき踊り「一合まいた」「正調一合まいた」「讃岐ばやし」の5曲。踊り子40人は香川民踊連合会讃岐囃保存会、こんぴら民謡保存会、観音寺民俗芸能協会から選抜の連合チーム。およそ1年前に人選、毎週1回の割で練習を重ねてきたという。六角ステージのまわりは厚い人垣が作られたが、中でも「さぬきばやし」のコミックな踊りが人気を集め、外人も“コミックフォークダンス”に見とれていた。また、福井から来たある団体客は「こんぴら船々」の踊りに「金刀比羅宮は参拝したこともあるが、一度正調こんぴら船々の踊りを見たかった」と喜んでいた。

 舞台構成に当たった島田・島田芸能舞踊学校長は「舞台効果も予想通り、観客の評判もよい。1日3回の公演だが、ゆくゆくは観客にも踊りの手ほどきをして踊りの輪に加わってもらう」と話していた。金子知事は忠子夫人とともに午後4時前、会場を訪れ、特設展示室では「格調高い展示」と自画自賛、ステージの踊りに拍手を送っていた。

 「県民歌の演奏」で始まった「香川県の日」の出し物は、大きく「踊り」と「特産品展示」の2本立てでした。そのうち、新聞記事は明らかに「踊り」の紹介がメインで、次いで物産紹介が少し。そして、讃岐うどんに関しては「地方自治体館の中にあるレストランがメニューに加えた」とあるだけです。物産コーナーで「手打ちうどんの実演販売」でもやっていれば大きな新聞記事になったと思われますが、どうも何もやっていないようです。

 では続いて、「香川県の日」2日目の様子を書いた記事。

(5月15日)

万国博香川県の日
「讃岐の踊りはえーのぅー」「生きる喜びがある」 ミニうちわもPRに一役

 万国博・地方自治体館「香川県の日」2日目の14日は、初日以上の“さつき晴れ”で観客の足を誘った。香川県関係者は、観客にPRのマッチやミニうちわをサービス、郷土芸能の踊り子も一段と張り切るなど、香川県の日の盛り上げに一生懸命だった。

 開幕以来5回目の万国博見物という中川以良万博香川県推進運動協議会会長(四国電力会長)が昼前地方自治体館を訪れ、特設展示場を見たあと、同館中庭のいこいの広場のステージ脇の郷土芸能に見入っていた。「高松まつり・一合まいた」などなじみのお囃子が流れ出すと手拍子を打つ熱の入れようで、「お天気に恵まれたのは何よりだ。特設展示場は香川の伝統美術工芸の粋を見るようだし、踊りも讃岐の風土をよく表して面白い。他の県の日の催しに絶対負けないものだ」と印象を語っていた。

 ステージを取り巻く観客の中には外人の姿も目立ち、踊りの輪にカメラを向ける人や浴衣姿の踊り子と一緒に写真を写す一コマも見られた。アメリカ・テキサス州から来たというインテリアデザイナーのユージン・フレッシャーさん(40)は、「動きがとても美しく、生きる喜びが踊りににじみ出ているようだ。それに年をとった人がうまく踊るのに驚かされた」と褒めていた。

 午後2時前、坂出農協(本部・坂出市元町一丁目)の団体45人がいこいの広場に現われた。一行は、この朝9時の開門と同時に入場、アメリカ館、みどり館、三菱未来館を見物して地方自治体館に着いたものだった。いこいの広場に着くなり「ああ歩き疲れた…」といすや地面にどっかと腰を据えた。ちょうどこの日二回目の郷土芸能が始まったところで、郷土の踊りに「やっぱり讃岐の踊りはえーのぅ…」と語り合っていたが、一行の坂出市宮下町、本丸太洋さんは「香川県の日に万博見物が出来たのはラッキーだった。みやげ話が一つ増えました」と喜んでいた。踊り子も郷土勢の声援を得て猛ハッスル。屋島ダヌキのぬいぐるみも浮かれ出て「さぬきばやし」をおどけた身ぶり、手ぶりでひと踊りして人気を集めていた。

 特設展示場の入り口には、黒松、錦松、五葉松、盆栽がずらりと並べられ、同展示場を訪れる観客の人目をひいている。産地の高松市鬼無町からわざわざ取り寄せたもので、即売もしている。値段は300円程度の錦松の苗から最高は40万円の錦松のハチ植え。値段や栽培方法を聞く人が多いが、会場は大きいものを持ち切れないのか、売れ行きはあまり芳しくないようだ。また五色台特産のカンカン石でつくった木琴ならぬ“石琴”が人気を集め、叩いて独特の音色に聞き入る人が多かった。

 2日目も、記事の中心はやはり「踊り」と「物産」。物産は漆と盆栽がメインだったようですが、盆栽の売れ行きは「あまり芳しくない」とのことです。「讃岐うどん」に関する記述は、一言もありませんでした。ちなみに、記事中に「坂出農協の団体がいこいの広場に着いて“ああ歩き疲れた…”と言ってイスや地面に座り込んだ」とありますが、あの万博会場の中であそこはまさに、そういう場所(要するに、あまり人気のないパビリオン)になっていたと思います(笑)。

 そして、3日目を終えた5月16日朝刊に、ようやく「讃岐うどん」に関する記事が一行見つかりました。しかし、その内容は衝撃的です(笑)。

「すべて好調の中にあって、讃岐うどんの評判は高くてまずい」という最悪の評判?!

(5月16日)

うっとり世界の目 万国博香川県の日

 13日から始まった万国博・地方自治体館の「香川県の日」は今日16日で4日間の行事を終える。期間中、好天に恵まれて観客の出足も上々だった。これまでの「県の日」が寒かったり雨にたたられたりの連続だっただけに、関係者は「全くついていた。“光りあふれる香川”を地でいったようなものだ」と手放しの喜びようだった。

 特設展示場は栗林公園「箱松」の大写真パネルをバックに香川県在住一流作家の手による漆芸を中心に展示、讃岐美術館の開館を思わせたが、1日約3000人の同展示場入場者の中には「どうも高級すぎてわからない…」ともらす人もかなりあった。この中にあって、民芸品の一つとして出品したカンカン石は同種のものが他にないためか人気を集め、即売場でもかなり売れていた。

 さらに人気を集めたのが、郷土芸能の曲目を刷り込んだ丸亀特産の“ミニうちわ”。いこいの広場での郷土芸能公演のたびに踊り子がステージの回りで配って歩いたが、奪い合いになるほどの人気ぶり。このうちわで“風を切り”ながらパビリオン回りをする観客が会場のあちこちで見られ、「帽子、タスキ、ガイドブック」の“万国博見学三種の神器”に新しく仲間入りし、“四種の神器”。

 郷土芸能の中で全国に名を知られているといえば「こんぴら船々」一つだけに、「どれだけの人が関心を持って見てくれるか…」とフタをあけるまで関係者は気をもんでいたが、「さぬきばやし」を中心に人気は上々。1回40分の公演の間、ステージ周辺の観客はほとんど動かなかった。地方自治体館職員も「こんなに踊りが熱心に見られる県は珍しい」と驚いていた。リーダー格の円尾清子さんは「晴れの舞台で踊れたことは踊り子冥利に尽きます。今後の励みにもなります」と感激の表情だったのが印象的。

 すべて好調の中にあって、同館レストランの讃岐手打ちうどんは「高くてまずい」とあまり評判は芳しくなかったようだ。総指揮に当たった香川県企画部長は「小さな県ながら“よくやる”と印象を内外に示せたと思う成果は十分にあった」と胸を張っていた。

 わずか1行だけ触れられた讃岐うどんの記事が「すべて好調の中にあって、讃岐うどんの評判は高くてまずい」って(笑)。一体、その「讃岐うどん」は誰がどのように作っていたのか? そして、誰がメニューや値段を決めてたのか? そのあたりには全く言及されていないので真相は闇の中ですが、これでは讃岐うどんの名声を全国、世界に轟かせるどころか、「悪い評判を広めただけの最悪の結果をもたらしたのではないか?」という疑いすら出てきました。ということで、そんな評判の悪い状態をも放置していた香川県は、どうも大阪万博で讃岐うどんのPRにあまり力を入れていなかったとしか思えないのですが…。

 続いて、「香川県の日」最終日の様子。

(5月17日)

「ミニうちわ」を贈る スウェーデン皇太子もご覧

 万国博地方自治体館「香川県の日」最終日の16日、万国博会場を訪問中のカール・グスタフ・スウェーデン皇太子が同館に立ち寄り、香川県の郷土芸能をご覧になった。「香川県の日」は好天に恵まれ連日内外から多数の観客が詰めかけ、これまでの「県の日」には見られない盛り上がりを見せていた上、さらに北欧の若きプリンスの来訪に県関係者は「さすが万国博、香川県の日は国際色豊か」と大喜びだった。

 グスタフ皇太子は15日の「スウェーデン・ナショナルデー」に出席のため日本を訪れているもので、16日はスカンジナビア館、ソ連館、みどり館、アメリカ館などを訪問したのに続いて午後2時過ぎ、地方自治体館においでになった。同館の館長やホステスの案内で館内をご覧になったあと、いこいの広場に立ち寄られた。ちょうどステージでは「さぬきばやし」の始まるところ。円尾清子さん(高松市福岡町)らさぬきばやし保存会のメンバー25人がコミックな踊りを披露、縫いぐるみのタヌキからグスタフ皇子に「ミニうちわ」をプレゼントした。若きプリンスがおいでになるというのでステージ周辺にはこれまで最高のおよそ4000人の観客が詰めかけたが、香川県議会議長をはじめ議員23人の姿も見られた。円尾さんは「踊る手も思わず力が入りました。県の日の最後を飾れてうれしい」と話していた。

 最終日のレポートも「さぬきばやし」の踊りに触れただけで、讃岐うどんの記事は全くなく、万博地方自治体館の「香川県の日」に関する報道は、これをもって終了しました。そして、最後は万博終了直前の9月11日、「香川と万博」の総括的な記事が掲載されました。

「万博で讃岐うどんがブームになった」という通説は間違い?!

(9月11日)

万国博あと2日 香川県を見る
郷土の姿浮き彫り 格調高い伝統工芸

 3月15日に幕を開けた万国博は、あと2日で183日の会期を終える。「人類の進歩と調和」のテーマのもと、参加77カ国が技術と文化の粋を集めた“世紀の祭典”だったが、内外から万国博史上最高の6000万人を超える観客が詰めかけ、数々の話題を生んだ。会場に比較的近いという好条件に恵まれた県下からは推定延べ60万人が千里丘陵に足を運んだとみられ、数字だけでいえば県民の3分の2がパビリオンを駆けめぐり、催し物を楽しんだことになる。また、県関係では特産品の展示や郷土民踊などの催しで郷土の姿を浮き彫りにするなど、国際交流を果たした。

 県と万国博の結びつきは地方自治体会館。同館は県をはじめ全国47都道府県、市町村、各議会など地方公共団体が約15億円を出し合った。「躍進する地方自治 開けゆく日本列島」がテーマだったが、県関係は県花のオリーブとともに番の州工業地帯、香川用水、坂出人工土地などを紹介するスライド上映があった他、「彫り抜き漆器」の原型といわれる「松角切り盆」や、約300年前こんぴら参拝者のみやげ用として作られた「元黒うちわ」の展示にとどまり、観客に拍子抜けの感を与えた。

 同館の呼び物としてローカルカラーを競い合う「県の日」が催されたが、香川県は5月13日から4日間、特設展示場で彫漆パネル、キンマ香盆、存清飾り盆など伝統工芸美術品を並べ、同館中庭の「いこいの広場」で郷土民踊を披露した。特設展示では多くの県が観光を主に華やかさを競い合った中にあって、県はいわば「渋さ」を見せたものだったが、観客の中には「どうも高級すぎてわからない…」ともらす人もかなりあった。しかし、異色ということでは一応の成功といえたようで、格調高い県の印象を観客に植え付けた。四国では徳島、愛媛県もそれぞれのお国自慢を出し合ったが、高知県は台風10号で大きな被害を受け、復旧に全力を上げるため9月6日からの「高知県の日」を取りやめ、各方面の同情を呼んだ。

 世界の催しを一堂に集めたお祭り広場は、万国博の主役だった。ここでは、7月から8月にかけて全国の伝統的な祭りを紹介する「日本のまつり」が開かれたが、県からはさぬきばやしが登場した。さぬきばやしは、すでに「香川県の日」でお目見えしていたが、数少ないオリジナルもの。八木節(群馬県)、佐渡おけさ(新潟県)、ねぶたまつり(青森県)など他県の伝統行事に比べ観客にはなじみの薄いものだったが、コミックな踊りは好評だった。こんぴら船々の他に全国に知られる民踊が見当たらないところから、「万国博出演で評判がよかったのを機会にさぬきばやしを全国に通じる民踊に育てる」と関係者は売り出しに自信を強めたようだ。また、「世界の市」に出演した大川郡大川町の南川太鼓も話題の一つだった。

 県から“千里もうで”の主役は、やはり農協と修学旅行生。農協団体はほぼ連日、姿を見せた。米・ソ館に集中というスケジュールに無理があったためか、比較的観客が少なかった4月ごろでさえ疲労を訴える人が多かった。夏休みに入っては家族連れが増え、宇高連絡船や関西汽船は子供を連れた万国博見物客でいっぱい。万国博に入る前から行列と忍耐を強いられていた。

 万国博会場ではミス万国博ホステス、地方自治体館ホステスなどでも県人が活躍したが、あるホステスは「日本人の観客の多くは“いくつ回った”と見物したパビリオンの数ばかり気にして、エキスポそのものを楽しんでいなかった。行列の連続で、パビリオンにはいるのに精いっぱい。“進歩”はともかく“調和”は感じられなかった」と言っていた。

 万博終了2日前の9月11日に「万博と香川県」を総括する記事が掲載されましたが、その内容はやはり物産展示と郷土民踊のことばかりで、「讃岐うどん」には一言も触れていません。結局、新聞で確認できた「大阪万博と讃岐うどん」の関係は、

 「香川県の日」の期間中に地方自治体館のレストランのメニューに「讃岐手打うどん」が加えられたが、「高くてまずい」とあまり評判は芳しくなかった。

という情けない話だけでした。そして、県は大阪万博で単独の讃岐うどん店を出しておらず、地方自治体館のレストランで「まずくて高い讃岐うどん」が出ていてもそれを改善した形跡はなく、さらにそのレストランで讃岐うどんが出ていても、東京等の物産展であれほど人気を博していた「手打うどんの実演」をやった形跡も見つかりません。結局、冒頭に挙げた「大阪万博で讃岐うどんの店が手打実演を披露して大人気を博し、一気に讃岐うどんの名が全国に広まった」という通説については、新聞を見る限り「そういう事実は確認できない」という結果になりました。

讃岐うどんの“万博神話”は幻想?!

 ちなみに、新聞以外で「万博と讃岐うどん」の関係を調べていたところ、「さぬき麺業」のホームページで同社三代目社長の香川政明さんがさぬき麺業の歴史を語っている中に、こんな記述がありました。

(前略)…私の卒業の年、昭和45年大阪万博が開催され、東京のすし屋「京樽」が万博に出店することになり、「うどん」常駐の職人1人をと依頼されました。私は就職も決まっていたのですが、会社には人もなく白羽の矢が私に当たりました。これが最後と出店したもののなんと1日に7千玉から8千玉も売れる大繁盛でした。…(以下略)(「さぬき麺業」HPより)

 また、「ビジネス香川」のサイト内の「さぬき麺業」の歴史を書いた記事の中にも同じような文章がありました。

(前略)…「もうアカン。いまなら家の土地建物を売ったら、組合員に迷惑を掛けんですむ」。政義さんは廃業を決意した。その直後、東京のすし屋「京樽」から、万博に出す店でさぬき麺業の「さぬきうどん」を売りたいという話が舞い込んだ。職人の常駐が条件だった。…(以下略) (「ビジネス香川」サイトより)

 これによると、東京の寿司屋の「京樽」が万博会場に出店することになり、そこに「さぬき麺業」の香川政明さんが常駐のうどん職人として入っていたとのことです。ただ、「さぬき麺業HP」の文中にある「これが最後と出店したものの…」という表現には「さぬき麺業が出店した」というニュアンスがあり、また「ビジネス香川」のサイトでは「さぬき麺業の讃岐うどんを売りたいというオファーがあった」となっていたりして情報がちょっと錯綜気味なので、具体的な出店形態はよくわかりません。

 しかし、四国新聞に広告を出した実績のある「さぬき麺業」(「昭和40年」参照)が万博に単独出店していたのなら四国新聞も必ず紹介したはずですから、やはりこれは「京樽が万博に出店し、そこでうどんも売っていた。そこにさぬき麺業の香川さんが入っていた」ということではないかと思われます(ちなみに、ここでも「手打ち実演」については言及されていません)。すると、そこに来た客が京樽で出ていたうどんを「讃岐うどん」と認識してくれたかどうかが微妙になってきます。つまり、京樽のうどんがいくら売れても讃岐うどんの名声を大きく高めることにはならなかったかもしれない。従って、これも「大阪万博で讃岐うどんの店が手打実演を披露して大人気を博し、一気に讃岐うどんの名が全国に広まった」という通説を裏付ける情報にはならないと思われます。

 それにしても、なぜそんな通説が流布しているのでしょうか? その背景については、香川のほぼ全てのうどん店の基礎情報をまとめた『讃岐うどん全店制覇』(ホットカプセル刊)が2000年に発表した「うどん店の創業年データ」に原因があるのではないか? という仮説を挙げておきます。そのデータは2000年時点で営業していたほぼ全ての讃岐うどん店の創業年を聞き取ったものですが(筆者が指揮を取った調査です)、調査の結果、香川では1971年(万博の翌年)以降にうどん店の開店数が増加傾向を見せ、1988年(瀬戸大橋開通の年)と1989年にもう一度開店数が増え、1997年(全国的な讃岐うどん巡りブームが始まった頃)からさらに爆発的に開店数が増えていることが判明しました。そこで同誌が、

1971年~「第一次開店ブーム」(大阪万博以降)
1988年~「第二次開店ブーム」(瀬戸大橋開通以降)
1997年~「第三次開店ブーム」(讃岐うどん巡りブーム以降)

と名付けたのですが、後にこれを引用した情報発信者たちが「開店ブーム」の「開店」の言葉を見落として、

1970年~「第一次讃岐うどんブーム」(大阪万博以降)
1988年~「第二次讃岐うどんブーム」(瀬戸大橋開通以降)
1997年~「第三次讃岐うどんブーム」(讃岐うどん巡りブーム以降)

という“意味の違う表現”で情報発信してしまったのではないか? その結果、「第一次讃岐うどんブーム」という間違った決めつけに引きずられて「讃岐うどん店が万博に出店した」「そこで手打ち実演が大人気を博した」「全国に讃岐うどんの名声が轟いた」…等々の“ありそうな装飾”が施されてきたのではないか? という仮説ですが、これ、かなり有力な説かもしれません(笑)。

 以上、讃岐うどん界にとっての昭和45年の大阪万博を新聞記事だけで総括してみますと、

①県は万博で讃岐うどんのPRにそれほど力を入れていなかった。
②万博が「(第一次)讃岐うどんブーム」を巻き起こしたという気配はない。
③翌年以降の香川県内におけるうどん店の増加について、万博が何らかのきっかけになったかもしれないが、万博以外の要因もいろいろ考えられるので、一概に「万博効果」とは言えない。

という、「万博=第一次さぬきうどんブーム説」を唱える方にはちょっとテンションが下がりそうな、もっと大げさに言えば、讃岐うどん界の「万博神話」が崩れそうな結果になりました。しかしとにかくファクト(事実)がこれだけしか出てこないので、これ以外の説を構築しようがないのですが、どうでしょう(笑)。

県産小麦が死んだ年…

 続いて万博と並ぶ昭和45年の大きなトピックスは、「県産小麦の壊滅」です。まず、「昭和38年」の項で紹介した「香川県の小麦収穫量の推移」を再掲しますので、再度ご確認ください。

グラフ香川の小麦収穫量推移

 ご覧のように、香川県産小麦は昭和38(1963)年に長雨と冷害で大被害を受け、それから一次回復したものの、昭和45(1970)年に再び天候不順で壊滅的な打撃を受け、以後、増減はあるものの、二度とかつての収穫量を取り戻すことなく今日に至っています。つまり、香川県産小麦にとって、昭和45年は「ほぼ死んだ年」と言っても過言ではないほどのターニングポイントなのです。

 では、この年の麦作に何が起こったのか、新聞記事で確認してみましょう。

(6月17日)

麦40%減収か 赤カビ・根ぐされ 品質も悪い(県農林部)

 梅雨に入っての降雨続きで県下の農家では麦の取り入れが遅れ、刈り取った麦穂から芽が出たり立ち腐れとなっており、被害は予想外に大きく、38年の長雨被害に次ぐものとなりそう。農家の人たちは「天災だから、国として特別融資の処置を講ずるなど、何らかの麦被害対策を考えてほしい」と訴えている。

 県農林部は16日、県内の長雨に伴う麦類の推定被害状況をまとめた。15日現在で県内の各農業改良普及所別に調査した結果で、被害を及ぼした長雨は4月から5月上旬までと今月10日以降に降ったものとされ、いずれも麦類の4割に湿害から来る根ぐされや赤カビの被害を生じている。それによると、本年産の麦類は、小麦と裸麦合わせて作付け面積1万6085ヘクタールから平年収量予測で計5万820トンを見込んでいたが、長雨によって予測収量のうち40.1%に当たる2万346トンの減収を予想している。このため作況指数は平年対比の59.9%に落ちそう。また品質低下もひどく、結実不良や病害による等外麦が相当出るものと見られ、被害量に品質を考え合わせると平年を大幅に下回ることになる。現在、県内で刈り取りずみの麦類は、裸麦が85%、小麦が50%程度。刈り取りの終わっていないものに被害が集中、刈り取りずみについても結実不十分などで収量減が大きい。

 被害農家に対する対策としては、
①農業共済から共済金の支払いを早く行なう。
②等外麦を政府の買い上げ対象に含めるよう陳情する。
などが考慮されており、被害額は等外麦の買い上げがあったとしても、10アール当たりで約6000円になるとみられている。郡市別で作付け面積に対する被害状況をみると、最高が約7割の被害を受けた三豊と仲多度。次いで綾歌と5市全体の6割といったところが目立つ。一番被害の軽かったとみられる小豆でも3割見当に被害を生じ、全般に政府買い上げの等外麦上も増える半面、買い上げられない等外麦下が今年は多くなる見込み。

仲南の被害 4000万円に

 被害の大きい仲多度郡では仲南が作付け320ヘクタールのうち3分の1の100ヘクタールは一応取り入れを終わっているが、特に山間の追上、佐文、宮田などでは成熟が遅れていたために全滅。裸麦200ヘクタールが刈り取ったばかりで水びたしとなり、穂から5~10センチほどの芽が出ているほか、小麦は刈り取り前で立ち腐れとなり、収穫皆無。この分だと約4000万円の被害となりそう。

 満濃町では麦の作付5548ヘクタールの5分の1の1140ヘクタールが被害を受け、琴南町も1780ヘクタールの90%に当たる1610ヘクタールが穂から発芽したり、立ち腐れで収穫できない状態。特に山間部が多い同町中通地区は麦の成熟が遅くて田植えが早いため、刈り取った麦を束ねてハゼかけにしてあるが、これらの麦も芽が出て収穫できなくなっている。このため、丸亀、善通寺市と仲多度郡内5町では麦被害対策協議会を15日に結成。16日、農林省の作物総計画調査事務所へ「麦の現作況を見てほしい」と陳情した。

小豆島でも

 小豆農業改良普及所の調べによると、島内での未収穫の裸麦は190ヘクタール、小麦は56ヘクタールだが、長雨によって裸麦や小麦が倒れて腐ったり、芽が出るなどの被害が出ている。今年は4、5月の低温で生育が悪い上、今度の長雨が追い打ちをかけ、現在の収穫予想は昨年(10アール当たりの平均収量308キロ)より25~30%の減収とみており、品質もかなり悪い見込み。さらに雨が続くようなことになれば、被害はますます増大しそう。

 記事中には「平年対比の59.9%」とか「6割、7割が被害」とか「30~40%の減収」等の予測数字が出てきますが、後の確定数字では前年比93%減収のわずか1090トンという壊滅的な減収となったことがわかりました。そして、以後10年にわたって極度の低迷が続き、1980年代後半に1万トン台に増えたものの(新種「セトコムギ」の栽培奨励によるもののようです)、その後再び年産1万トンに満たない年が30年近く続いているという状況です。こうした流れの背景をメンタル的に推測するなら、

(1)昭和38年の長雨被害で、農家の小麦栽培への意欲が一気に減退し始めた。
(2)昭和45年の長雨被害で、農家の小麦栽培への意欲が折れてしまった。

ということでしょうか。ちなみに、長雨による小麦の被害はこんなところにもありました。

(7月18日)

肉うどんで慰労会 農経高生徒、夏の収穫祭

 県立農業経営高校は16日、講堂と寮で夏の収穫祭を行なった。実習田の田植えも終わり、慰労を兼ねて全生徒が肉うどんで会食をした。ことしは長雨で実習田120アールの小麦が収穫ゼロとなり、80アールの裸麦が240キロとれただけで、30~40万円の損害だった。石塚校長も、「お祝いをする夏の収穫ではないが、慰労の気持ちでみんなが会食する」とあいさつ。職員もそろって参加した。同校では夏と秋の年2回、収穫祝いと慰労を兼ねて収穫祭を行なっている。

 農経高校の実習田の小麦(120アール)は「収穫ゼロ」です。120アールは1万2000平方メートルだから、350メートル四方ぐらいの小麦畑が全滅したということです。それでも何とか「肉うどんで会食」はできたようで何よりです。

うどん玉の値上げサイクルが短くなってきた?!

 続いては、数年に1回出てくる「うどん玉の値上げ」の話題。

(8月11日)

うどん玉など値上げ “食欲の秋”にさきがけて

 暦の上ではすでに立秋だが、今年も涼風とともに値上げの秋が静かに忍び寄ってきている。8月に入ってからこれまでに県下でうどん玉やソバ、みそなど食料品の値上げが相次いでおり、業界の大手メーカーを中心に中小メーカーへの波及が懸念されており、物価高騰の秋となりそうだ。

 これまでにめん類が1個あたり2~3円程度値上がりしている。10日までにうどん玉が高松製めん協組(丸川精一理事長、加盟123社)のうち約半数の業者が平均2円ほど値上げに踏み切っており、1玉当たりの卸し値がこれまでの12円から14円、小売り値が14円から17円になっている。また、日本ソバも卸し値が12円から15円、小売り値が15円から18円に値上げしている業者も出ている。値上げの理由として、ある製造卸し業者は「日清製粉など大手メーカー4社の業務用小麦粉が約3%値上がりしている他、人件費や製造過程での諸経費も高くなっている」と話しており、市中の飲食店でもめん類の販売価格を5~10円値上げする気配が強くなっている。

 これまで新聞に出てきた「うどん玉の値上げ」の記事をまとめると、

昭和36年…1玉8円に値上げ
昭和40年…1玉10円に値上げ
昭和43年…1玉12円に値上げ
昭和45年…1玉14円に値上げ

という経過です。よく見ると、昭和36年~40年にかけて「4年で2円の値上げ」から、「3年で2円」、「2年で2円」とだんだんサイクルが短くなってきています。ちなみに、昭和45年は高度経済成長期の終盤にあたる「いざなぎ景気」の最後の年。言わば景気のピークの年です。

またまた「たらいうどん」の記事が

「徳島の行楽情報」というコラムに、「土柱」と一緒にまたまた徳島の「たらいうどん」が出てきました。

(8月21日)

土柱とたらいうどん<徳島の行楽情報>

 世界で3カ所といわれる「土柱」見学を兼ねて、岩の間を縫うように走る清流を眼下に、緑に囲まれてツルツルと野趣味満点の「御所のたらいうどん」を楽しむのもよい。この土柱は徳島県阿波郡阿波町にある。イタリアのチロルにあるボーツエンやアメリカ・ロッキー山脈のそれに劣らない、文字どおりの土柱群。地質学上にも貴重なもので、国の天然記念物に指定されている。川岸の段丘が雨水に浸食され、柔らかい部分が崩れ流され、堅い部分が土の柱として残った。遊歩道があり、夜は頂上から投光に映える土柱群を望める。数十メートルの直角の崖下から吹き上げる涼風で暑さ知らず。

 たらいうどんどころは、香川県大川郡三本松に通じる徳島県板野郡土成町の山間にさらさら音をたてて流れる谷間。その昔、木こりたちが川原でかまどを築き、手打ちうどんを釜でゆでて食べた「野立ての食事」が始まりという。川原に設けられた「さじき」で、シンゾク(川魚)で味つけした“だし”で食べるゆがきたての手打ちうどんの味は格別。高松から国道193号線を徳島県脇町へ車で約1時間半、脇町から土柱へ15分、土柱から土成町へ40分のところ。バス便もある。

 「たらいうどん」の記事は昭和42年あたりから四国新聞に頻繁に載り始め、同時に「たらいうどん」を売りにする飲食店も香川県内に数軒できて新聞広告まで打っていたわけですが(「昭和42年」「昭和44年」参照)、こうも頻繁に出てくるということは、当時の「徳島のたらいうどん」の香川県内における存在感は今以上に大きかったのかもしれません。

讃岐うどんに「科学」が入ってきた

 続いて、県の農業試験場が「うまい讃岐うどん作り」について科学的アプローチをした、というニュース。

(11月7日)

うまい“讃岐うどん” 県農試が科学的に立証

 県農試では41年から品質がよいとして全国的に有名な“讃岐うどん”の製法を科学的に究明していたが、このほどその成果がまとまり、6日、同農試に全国の関係業者、食品関係試験研究機関からおよそ200人を集めて発表した。同日発表されたのは「製麺法の近代化、品質向上技術に関する研究」が中心だった。この中で、「手打ちうどんは機械打ちうどんに比べてタンパク質(グルテン)が交錯し水分の量が多い」、「食塩も普通の場合4%程度だが、手打ちの場合は6%と粘弾性に富んで美味の要因となっている」など、カンと口伝えだけで製造されている“讃岐うどん”が科学的データに近いことが発表され注目された。

 多田正敏農試主任技師(42)は「県下の食品における特産品というまでに有名な“讃岐うどん”も、今後産業として発展させるためにはどうしても科学的なデータに基づいて製造しなければいけない。そのためにも、この研究に力を入れたい。製法工程管理面に細心の注意を払うことがおいしいうどんにつながる。食塩は8%程度で、粉をねった後、3時間熟成(寝かし)させること。この熟成が粘りを出すポイントになる。これ以上時間をかけても無意味」と話している。香川県は年間うどん用小麦粉2万5000トンを消費しており製造は中四国でトップ。このうち乾めん、生めんが半々となっている。

 讃岐うどんの世界に「科学」の話が出てきたのは、新聞ではこれが初めてです。「産業として発展させるためには科学的データが必要」とは、まさにビジネスの一面の真理を突いた言葉ですが、「(生地は)3時間以上熟成させても無意味」と言い切りました(笑)。今日の讃岐うどん界の麺のバリエーションの豊富さとおもしろさから見れば、この「讃岐うどんの麺には正解がある」と言わんばかりの断言は「科学の驕(おご)り」と言われるかもしれませんが、新聞がこの技師の方のコメントを過激に装飾したのかもしれません(だいたい新聞のコメントは当人の発言通りには載りませんから・笑)。いずれにしろ、今日の讃岐うどんは、「職人技」と「科学」が融合して花開いたとも言えますから、ま、仲良くやっていきましょう(笑)。

佐々木正夫先生、さぬきうどんを語る

 讃岐を代表する郷土作家の一人、佐々木正夫先生が、「讃岐の手打ちうどん」についてガッツリと語っておられました。とてもたくさんの話題が盛り込まれていますので、向学のために小分けにしてじっくりと味わってみましょう。

(4月13日)

讃岐の手打ちうどん 
佐々木正夫

うどんの由来

 うどんの歴史は古い。遠く奈良時代に中国から渡来した唐団子だといわれ、最初はアンコ入りだった。名前も、餛飩(こんとん)、饂飩(うんどん)、饂飩(うどん)となり、江戸時代から「うどん」と呼ばれるようになった。アンコ入り時代も、材料は小麦粉。いまのように線状になってからは、切麦(きりむぎ)と呼ばれ、熱したものを熱麦(あつむぎ)、冷やしたものを冷麦(ひやむぎ)と名づけられ、いまでも、地方によっては、そう呼ばれている。東京では、「ひもかわ」、「いもかわ」とむかし流にいう人もいるが、これは、東海道の芋川宿場の名物うどんの名残りである。芋川うどんは、うすく切り、名古屋の「きしめん」の元祖ともいわれている。

 まず最初に「讃岐うどんの歴史」について言及されています。「奈良時代に中国から渡来した唐団子がうどんの由来」とか「こんとん~うんどん~うどん」という名称の変遷、また「芋川うどんの話」などは、基本的に山田竹系さんの著書(「昭和44年」参照)にある話と同じです。山田竹系さんと佐々木正夫先生の重鎮お二人が同じようなお話をされているのですから、この頃の話が、後の「讃岐うどんの発祥に関する定説」を形作ってきたことは間違いないでしょう。

 ただし、佐々木先生も「奈良時代に中国から渡来した」と書かれていて、今日語られている「空海が中国から持って帰ってきた」という話はどこにも出てきません。「昭和44年」の項でも触れたように、どこかで誰かが「空海」をくっつけちゃったのだと思われますが(香川では「何か由来のわからないことがあると、空海のせいにしておけば安心する」という話がありますので・笑)、空海は平安時代の人なので、そこは決定的に整合性がとれません。よって、讃岐うどんの「空海発祥説」を唱える方は、説を修正するか、あるいは「山田・佐々木説」をきっぱり否定するかして整合性をとるべきですが…まあそれほどの大層な話じゃないですか(笑)。

 どちらにしても、うどんの本場は讃岐である。太くて、長くて、コシのあるうどんを食べる図は、讃岐のお家芸でもある。江戸時代から、明治時代までのこんぴら街道の古絵図を見ても、宿場うどんが描かれている。武士も、町人も、遊女も、みんな同じ食べ方でうどんをすすっている。士農工商、いろいろ階層があったらしいが、うどんだけは、みんな肩を並べてすすった。天下泰平、庶民の食べものとして、うどんの果してきた役割は大きい。

 「江戸時代から明治時代までのこんぴら街道の古絵図」に「宿場うどん」が描かれていて、「武士も町人も遊女も、みんな同じ食べ方でうどんをすすっている」とありますが、今、讃岐うどんの歴史を語る時に資料として必ず取り上げられる「金毘羅祭礼図屏風」には、「うどんを捏ねているような絵」と「うどんを延ばしているような絵」と「うどんを切っているような絵」は描かれているものの、「武士や町人や遊女がうどんをすすっている絵」は描かれていません。はたして、この佐々木先生がご覧になった「武士や町人や遊女が同じようにうどんをすすっている絵が描かれたこんぴら街道の古絵図」は、一体何なのでしょうか。もしそんな決定的な絵が現存するなら「金毘羅祭礼図屏風」以上に知られているはずですが、そんな絵の話は今はどこも取り上げていないということは、行政も組合も識者も忘れてしまっているのでしょうか。あるいはまさか、佐々木先生が勢い余って“ない話”を書いてしまったんでしょうか(笑)。

 続いて、うどんのメニューについて言及されています。

うどんいろいろ

 讃岐の手打うどんといえば、なんといっても、かけうどんである。ダシはたっぷり。東京と違うのは、小豆島産のしょう油をウス口にして、ザンブとかけ、そのうえに、少量のネギ、カマボコ3枚くらい、それにショウガをふりかけるのが代表的食べ方。ザルうどん、かまあげうどん、ナベ焼きうどん、スキヤキうどん、かやくうどん、キツネうどん、タマゴうどん、肉うどん、カレーうどん、カモなんば、天ぷらうどん、うどんスキ、ちり鍋うどん、タライうどん、源平焼きなどいろいろ。島外の客人が出張や観光見物にこられたら高級料理もいいが、何よりのサービスは讃岐の手打うどんである。旅には、風景も大切だが、讃岐独自の食べものが旅情満喫の秘訣なのである。

 「讃岐うどんは何と言っても“かけうどん”」だそうで、トッピングはネギ、カマボコにショウガだとおっしゃっています。「昭和40年」の新聞で随筆家の加藤增夫さんが「家で食べるうどんは“湯だめうどん”」という内容のコラムを書かれていたり、うどん鉢の紹介記事でも湯だめうどんが主流だったことを想像させる内容でしたが、佐々木先生は「店で食べるうどん」のことだけを書かれているようです。「スキヤキうどん」「ちり鍋うどん」「源平焼き」など、今はあまり見ないメニューも気になりますが、「かまあげうどん」と「たらいうどん」が別物として並べられているのにも注目です。

秘訣は“土三寒六”

 文句なしにうまい讃岐うどんの秘訣は、小麦粉と製法にあるといってよい。気候温暖、瀬戸内沿岸で収穫した小麦は、雨量が多く、カンカン照りつける太陽と潮風のおかげで、コクのある小麦が穫れる。

 製法の秘訣は“土三寒六”である。夏季は塩水1に対して、水が3、冬季は塩水1、水6の割り合いで粉をこねる。ゴザを巻いて踏む。踏めば踏むほど麩(ふ)がつながる。めん棒でうすくのばしてから、手切り包丁で切る。沸騰しているカマに13分くらい入れて水洗いする…といった製法である。簡単なようだが、粉のこねぐあいや、沸騰させる時間が大切。コシコシしたうどんができるかどうかの決定的瞬間なのである。

 佐々木先生も麺を「コシコシ」と表現しています! ここまで、四国新聞の記事とグルメコラムと「一日一言」に「コシコシ」が3回出てきて、「しこしこ」と表現していたのは東京に記者の書いた記事の中だけでしたが、佐々木先生の「コシコシ」で、もう讃岐うどんの麺の表現は「コシコシ」がオリジナルだと断言してもよさそうです(笑)。「昭和44年」の中で「これはますます、一体誰がいつ讃岐うどんの麺の感触を「しこしこ」と言い始めたのかが気になり始めました」と書きましたが、気になるどころか、こうなると何としても「しこしこ犯」を見つけなければなりません(笑)。

うどん好きの弁

 讃岐には、ひとりで、一せいろも食ったという文化財級のうどん好きがいるが、これらは、日々是饂飩(にちにちこれうどん)という年中行事が育てたといってよい。“讃岐の坊主は、うどん食いでないとつとまらぬ”といわれるが、仏事や命日で、1日に7、8軒も回るが、どこの家でもうどんが出させる。7月2日のはんげの田休みもうどん、10月の秋祭りもうどん、新嫁はうどんを持って里帰りに行く等々、風習そのものがうどんなのだから、うどん好きがワンサといるのも不思議ではない。

 讃岐うどん好きの自薦他薦では、ヘタに書くと、異議申し立てがあるくらい多士斉々がそろっているが、なんといっても、金子正則知事、宮脇朝男農協中央会長はナンバーワン。「うどんは熱いうちに食べるに限るよ」と、誰がいようと、知事さんの前に置かれたうどんは、ただちに平らげてしまう。折詰べんとうのように、一度に全員の前に配られるというわけにはいかぬ。宮脇会長は、西讃のうどんの本場で育っただけに、食べ方、そのものが堂に入っている。ツルッ、ツルッ、気色のよい食べ方である。「うどんはノドで味わうんじゃ。嚙んだらいかん」と連発する。つまり、ノドを通過する瞬間に味わうのである。

 まず、「讃岐の坊さんはうどん食いでないと務まらない」という言い回しが初めて出てきました。言われてみれば確かにそうで、「昭和の証言」であれだけ「法事にうどん」の話が出てくるのですから、「お坊さんのうどん食い」というのはヒザをポンと打つ話です。そしてもう一つ、讃岐のうどん食いのレジェンド・ツートップは「金子知事と農協の宮脇会長だ」と佐々木先生が断言されています。ちなみに、「うどんは嚙まずに飲んで食べる」という話は、ここまで書かれると「宮脇会長が発祥」ということにしてもよさそうです(笑)。

うどん鉢のこと

 うどん玉よし、ダシよし、もう一つ大切なのはうどん鉢である。うどん鉢が気にいって、その店に通ってくる客人もいるほど、鉢そのものも讃岐の味なのである。うどん鉢は、分厚くて、できるだけ大きいのがよい。鉢をぬくめてからうどんを入れても冷えないのが第一。最上のコンディション持続のためにも大きいのに限る。既製品にもなかなかいいものがあるし、民芸讃岐の伝統を生かした“特製うどん鉢”を注文するのもおもしろい。

 年のはいった家庭では、わざわざ愛媛県の砥部窯へ出かけて、自分で絵つけをしたり、文字を書き込んで焼かせる民芸愛好家もいる。四国には砥部焼のほか、大谷焼、富田焼、尾戸焼があるし、岡山には、羽島焼、酒津焼などもあり、手近な陶器店に注文するもよし、民芸散歩をかねて窯元訪問もよい。

 「うどん鉢に砥部焼」の話が出てきました。今、「おか泉」をはじめとする県内の有名人気一般店で「砥部焼の丼」がよく使われていますが、讃岐うどんと砥部焼の関係は実はそれなりの歴史があるのかもしれません。この際、香川県は全国初(たぶん)の「県と町の姉妹提携」で愛媛の砥部町と姉妹提携して、いろんなプロモーションを始めてはどうでしょう(笑)。

うどんと美容

 美容と健康のために、家庭でも、お勤めの昼食にも、手打うどんが大流行である。これはいいこと。日本人の食生活の欠点は、米食と、ふんだんに砂糖を使う。カサカサの肌、成長がとまって身体がずんぐりする。ロイマチスの患者が多い。その点、うどん食は血液の循環をよくするし、よごれた血液がなくなり、肌のキメがよくなる。グレース美容室でも、うどん食をすすめている。「美というものは、うわべだけでなくまず身体づくりが大切。健康体プラス美容はホンモノの美しさです」と話している。玄米のごはんやうどんには糖分はないし、色白の第1条件でもある。

 最後は勢い余って「米と砂糖ばかりじゃ、肌はカサカサ、成長が止まって身体はずんぐり、ロイマチス(リューマチ)にも罹りやすい」と、今なら炎上間違いなしの“うどん賛歌”で締めておられましたが、佐々木正夫先生だから何でも許されちゃいます(笑)。以上、当時の地元の著名な郷土作家が讃岐うどんをどう見ていたかが窺える貴重な資料につき、改めて後世に残すために長々と引用してみました。

やっぱりお坊さんはうどん好き?!

 「讃岐の坊さんはうどん食いでないと務まらない」という話を受けてかどうか、「一日一言」が住職さんの「手打うどんの会」に触れていました。

(6月6日)

コラム「一日一言」

(前略)…高松市林町のS寺では、風流な住職のはからいで、毎年麦秋のころ、寺を取り巻く小川のホタル狩りを楽しませてもらってきたが、ことしは肝心のホタルがいないということで、白昼、手打ちうどんの会に変わった。住職自らうどん打ちの実演をしてくれたが、「借耕牛」(かりこうし)の著者小野蒙古風氏などは、いっぺんうどんが踏みたいといって、持参の豆しぼりの手ぬぐいでほおかむりして、権兵衛よろしく、うしろ手組んで、ビニールで包んだうどん粉玉の上を踏んだ。…(以下略)

 ホタル狩りを催し、ホタルがいなければ「手打うどんの会」に切り替えて客人をもてなす“風流な住職”さんのところに一日一言子や小野蒙古風氏(高瀬町出身の俳人)など文化人の方々が集まってくるという、これまた風流な会があったんですね。

うどん店の広告が増えてきました

 では最後にうどん関連の広告から。うどん関連広告は昭和30年代は製粉・製麺会社の広告や求人広告が目立っていたのですが、ここに来て「うどん店の営業広告」がかなり増えてきました。まずは、前出の佐々木正夫先生のコラムのページにうどん店の協賛広告がたくさん載っていたので並べてみました。

S45年うどん店6店広告

 うどん店が一挙に6店も出てきました。中でも注目は、紺屋町の「直営セルフサービスの店 金泉」の広告。上の黒い枠の中に、うどんのメニューが書かれています。文字が潰れて判読が困難ですが、図書館のマイクロフィルムを拡大鏡で凝視しながら必死で解読したところ、

舌代
しんぐるうどん 三十円
だぶるうどん  五十円
てんぷら   一本五円
讃州名代
釜あげうどん  七十円
ざるうどん   七十円

 と書かれていました。うどんの量は「大小」や「1玉、2玉」という表記ではなく、「しんぐる、だぶる」という、まさかの表記です。てんぷらが「一本五円」ということは、今日全盛の“揚げ物”ではなく、練り物の細天とか平天みたいなものだったのでしょうか。また、釜あげうどんとざるうどんの前に小さく「讃州名代」とわざわざ書かれ、値段も倍以上ということで、釜あげうどんとざるうどんはワンランク上のメニューだったことが窺えます。

 その他では、「源芳」の頭に付いている「名代うどん○」の崩した文字が判読しづらい…。昭和42年の広告に「源芳ビル2階・名代うどん房」というのがありましたが、この崩し文字は「房」とは読みにくいし、昭和42年の広告には「源芳」という店名がなかったのにここには「源芳」と書かれているので、何か店名表記を変えたのかもしれません。

 「讃州名代手打うどん うどん坊」は、昭和43年の開店広告には「本社工場 うどんの金泉」とありましたが、この年の広告はその表記がありません。そのあたりの資本関係の推移はわかりませんが、繁華街の古馬場に支店もできて、ご発展のようです。

 続いて、前年にも登場した「さぬきうどん」とだけ書かれた広告ですが、新情報が出てきました。

S45年讃岐製粉広告

 香川町の「讃岐製粉」という会社が出していた広告の中に、前出の協賛広告にあったのと同じマークの「さぬきうどん」という店が載っていましたので、讃岐製粉が「さぬきうどん」という店を出していたのだと思われます。しかも、高松だけでなく徳島と岡山にも出店していたようです。

「うどんの庄 かな泉」がついに登場!

 さて、昭和45年の暮れの12月14日の四国新聞に、「うどんの庄 かな泉」のオープン広告が載っていました。

S45年かな泉広告

 のちに「かな泉」の代表的店頭ビジュアルとなる大工町の店は、この日が出発点です。丼をはじめとする各種食器は、ご覧のようなラインナップ(前出の砥部焼も入っています)。オープン当初から民芸調を強く意識した店作りで、ここから讃岐うどん界を代表する名店にのし上がっていきます。

(昭和46年に続く)

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