さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.23 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和40年(1965)>

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

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  • vol: 23
  • 2020.03.12

「川福」「源芳」「さぬき麺業」が広告に登場

 昭和40年は前年から続く「オリンピック景気」に始まり、その後、反動のような小不況を挟んで戦後最長の「いざなぎ景気(昭和45年まで)」を迎える年です。讃岐うどん界もほのぼのとした話題や平和な事件(笑)が新聞に登場し、好景気を背景に「川福」が初めて「うどん店」として新聞広告にお目見え。讃岐うどんのいろんな“ルーツ”が垣間見られる記事もいくつか出てきました。

うどん絡みの事件を2つ

 では、まずはうどん絡みの事件を2つ。といっても、讃岐うどん界はちっとも揺るがされない事件ですが(笑)。

(1月27日)

路上に障害物 単車の職人襲われる(琴平)

 26日午前1時半頃、仲多度郡琴平町内でオートバイに乗って帰宅中の通行人を障害物を作って止め、カナヅチで足を殴りけがをさせる事件が起きた。同町下櫛梨の農業兼うどん職人○○○○さん(35)が高松からオートバイで帰っていたところ、自宅から300メートル南の丸亀原田-琴平線の県道に稲ワラを置き、長さ4メートルの松の木を路上に置き、障害物を作ってあるのを見つけ、車を降りようとしたところ、近くのたばこ乾燥場から覆面の男が現れた。○○さんは12メートルほど逃げ、転んだところを賊は持っていたカナヅチで○○さんの両足下腿部を数回殴り、2週間の打撲傷を負わせ、田んぼの中を南に向かって逃げた。○○さんは近くの公衆電話で110番に連絡。琴平署は全署員を非常招集し、傷害事件として捜査している。

 ○○さんは昨年9月から農閑期に高松市内のうどん製造店に職人として住み込んでいる。毎週火曜日が公休日のため、いつも火曜日の午前1時頃にオートバイで帰宅していた。25日も11時すぎ店を閉め、26日午前零時半頃高松を出て帰宅を急いでいた。19日午前1時半頃にも○○さんが帰宅していて障害物のあった近くに荷車を道路上に置き通行できないようにしてあったことがあり、これで2度目。同署では○○さんに恨みを持つ者の仕業と見て捜査している。○○さんの話では、賊は身長160センチぐらい、面長、ヤセ型で、白布で眼の下を三角形に覆面をしており、服装には黒っぽい背広かジャンパーを着ており、帽子をかぶり、年齢は30歳前後。

 事件の内容はさておき、被害に遭った琴平の○○さん(35歳)は「農業」と「うどん職人」を兼任しているとのこと。農閑期に高松市内のうどん製造店(おそらくどこかの製麺所)に住み込みで働いていて、毎週火曜日にオートバイで高松から琴平まで帰っているそうで、「出稼ぎ」というか「兼業農家」というか、当時の“働き方”の一例が窺えます。

(2月9日)

飲酒の警官、飲食店で客殴る(善通寺)

 善通寺署では、現職の警察官が一般市民に暴行を働いた事件を取り調べている。5日午後11時半頃、善通寺市善通寺町、飲食店「△△」で同市四国管区警察学校に入校中の高松南署外勤巡査A(19)が同僚3人と共にうどんを食べに入ったところで、同店でビールを飲んでいた同市南町、とび職見習い○○さん(23)を同店従業員と勘違い、「うどん焼きをこしらえてくれ」と言ったことから口論になり、酒を飲んでいたA巡査は○○さんを表に呼び出し、アゴを1回殴った。同署では届け出を受けてA巡査を暴行事件として取り調べているが、県警本部は近くこのことについて懲戒審査委員会を開くことにしている。なお、A巡査は38年4月1日に警察官になっている。(県警本部長の話)警察官が酒を飲んだ上で人を殴ったのは非常に不始末で、弁解の余地がない。内外に与える影響も大きいので、今後厳しく処分して不祥事をなくしたい。

 善通寺に夜中の11時半に「うどん焼き」が食べられる飲食店があったようですが、客を店の人と間違って「うどん焼きこしらえてくれ」と言ったらケンカになったって(笑)。これが大阪なら、注文を受けた客が「あいよ、ソースで焼くかい? 醤油で焼くかい? ソースか、醤油の方がうまいんやけどなー…って、俺は客や!」とかで笑っておしまいになったりする気がするけど、残念ながら“ノリツッコミ”は讃岐の文化じゃないですからねえ(笑)。

讃岐うどんの食べ方のルーツは「湯だめうどん」?!

 では気を取り直して、コラムに出てきた讃岐うどんの話を3本。

(7月3日)

コラム「さぬき暮らしの歳時記」…加藤增夫(随筆家)

…(前略)…新粉(その年とれた麦で、ひいたウドン粉)で、ウドンをうった。サンバイ(田の神)さまに供えてから、家族のものが、いただく(ナオライ)。新粉のウドンは、好きだ。家風によって、すこしづつ、うちかたがちがう。まず粉のねりかた、塩の入れかげん、ねった粉を、まるめて、ゴザにはさんで、なん度か、両足でふむ。この足のふみかげんにも、コツがある。メンボウの使い方も、だいじだ。ゆかげん、うちあげて、水でさらす、すべてが、カンである。ウドンは湯だめにして、ダシ(おつゆ)につけ、つるつると、食べる。生(き)じょうゆをかけて、たべる人は、たいていウドン通のようだ。(以下略)

 何だかひらがなが異常に多いですが、掲載されていた原文のままです。「昭和38年」の項に出てきた加藤增夫さんのコラムは読みやすいように編集部で一部漢字に変換しておきましたが(当企画の冒頭でお断りした通り、ここに再掲している新聞記事は基本的に今の仮名遣いに直してあります)、このコラムは特にひらがなが目立ったので、原文のまま載せてみました。ちなみに、戦後しばらくの間(といってもかなり長い間)、占領軍の「漢字追放」の意向に沿ってか、新聞社や学者の間で「漢字をひらがなやカタカナで書くのが“進歩的だ”」という風潮があったそうですが、その影響なのでしょうか。

 さて、うどんに関する記述ですが、コラムにある「うどんの作り方」は基本的に今も同じ。ただし、うどんの食べ方はこの文章を見る限り、今とは違って「湯だめ」がかなりポピュラーだったようなニュアンスがあります。「通は生醤油」というのは、何となく今も言う人(おっさんとか爺さんとか・笑)がいそうです。

金子知事と和田邦坊画伯の肝いりで「讃岐手打ちうどんの会」が結成か?!

 続いて、ガッツリうどんの話題が詰まった「一日一言」のコラムが見つかりましたので、小分けにして見てみましょう。

(7月28日)

コラム「一日一言」

 農家の“行事食”または“接客料理”として発達した議岐の手打ちうどんは、今では観光面にもクローズアップされて、国鉄高松駅構内の手打ちうどんの店などは、庚申堂主人こと佐々木正夫氏のしゃれた口上文とともに、すっかり讃岐名物となっている。東京にも“讃岐屋”という手打ちうどんの店が大繁盛して、味もそっけもない江戸伝来の“うどんかけ”に挑戦しているらしい。元来、うどんといえば関西が本場で、関東はそばが幅をきかしたものだが、純粋の讃岐の味で、関東人もうどんを見直していることだろう。うどんほど、ところによってうまい、まずいの差の激しい食べ物はないのだが、手打ちうどんになると、だいたいうまい。それも通人に言わすと、塩加滅、ゆで加減などで大きく味が支配されるらしい。しかし農家で食べる自家製のうどんがうまいのは、やはり伝統の味が物を言うのだろう。

 東京で「讃岐屋」といううどん店が大繁盛しているという記述がありますが、「昭和38年」の「一日一言」には、
●讃岐の手打ちうどんは東京にまで進出して、「さぬき屋」その他の店が大繁盛している。
●東京の讃岐手打ちうどんの元祖は、高松市出身の鈴木力男さんが始めた「讃岐茶屋」。
と、微妙に違う名前が書かれていました。何となく、全部同じ店のことじゃないかと思いますが(笑)。

 このほど、うどん愛好者の金子知事や和田邦坊画伯の肝いりで 「讃岐手打ちうどんの会」の結成準備会が栗林公園で開かれたが、こうした会ができれば、伝統の味を守り、旅の味として讃岐の手打ちうどんをPRするには鬼に金捧といえよう。栗林公園のある売店では、邦坊画伯のデザインによる民芸調豊かなうどん鉢に“あられうどん” という風味ある手打うどんを入れて売っているが、観光客にはこうした神経の行き届いたものが喜ばれるに違いない。

 金子知事は歴代香川県知事の中で最も讃岐うどん愛に溢れた知事(当編集部比・笑)。和田邦坊画伯は琴平出身で、「名物かまど」や「灸まん」や「ひょうげ豆」等々のパッケージのデザインでおなじみの有名な画家。その金子知事と和田画伯が音頭を取ったらしい「讃岐手打ちうどんの会」なるものは、この後順調に結成されていれば、香川の公式な「讃岐うどん応援団」の第1号かもしれません。あと、「あられうどん」はトッピングにアラレあるいはアラレみたいな丸くて固い揚げ玉が乗ったうどんなのでしょうか。いずれにしろ、そのメニュー名は讃岐うどんの歴史に消えてしまったようですが、歴史的背景と一緒に復活させてはどうでしょう。

 うどん、そば、そうめんなどのめん類はどこへ行ってもあるけれど、やはりその土地の伝統と個性に結びついたものが名物となる。国鉄松山駅では高松駅の手打ちうどんに対抗して“五色そうめん”を売り出したそうだが、いい思い付きだ。そうめんといえば、九州地方に多い夏の“そうめん流し”は涼味万点、季節の野外科理として申し分のない演出だが、県下のそうめんどころ小豆島あたりで観光客相手にやってみれば、きっとうけることだろう。野外料理では徳島県土成町の“たらいうどん”が観光の花形となっているが、この名物は「昭和9年、当時の土居知事が同地を視察した時、土地の人が昼食がわりにハンボに手打ちうどんを入れて出したのが事の起こりだ」と山田竹系氏が考証している。讃岐の手打ちうどんも金子知事あたりがPRに一役買うとあっては、もっと全国的に伸びるだろう。

 というわけで、なかなか多くの讃岐うどん情報が詰め込まれたコラムでした。

「親子うどん」はいかが?

 続いて、料理レシピのコラムに「親子うどん」なるものが出ていました。

(10月2日夕刊)

コラム「料理」…親子うどん

●材料(5人分)…うどん玉5玉、卵5個、トリ肉150グラム、ネギ100グラム、ミツバ少々、煮出し汁7.5カップ、塩、砂糖、しょうゆ、化学調味料
●作り方…ゆでうどんは熱湯に通し、ザルにあげて水を切り、ネギは縦に割り、さらに2~3センチの長さに切り、ミツバも同様に切ります。ウドン汁は煮出し汁5カップに、しょうゆ大3、塩小2、砂糖少々、化学調味料を入れて調味します。別に煮出し汁2.5カップにしょうゆ小5、砂糖小5を入れ、親子の鍋にこの汁を1人分1/2カップ入れ、トリ、ネギを入れ、煮えたら卵1個をといて一面に流し、半熟程度に煮ます。どんぶりにうどんを入れ、熱い汁を注ぎ、卵をのせます。

 要するに、「親子丼」の「ご飯」の部分を「ダシのかかったうどん」にしたようなものですね。これ、親子丼が「親子うどん」にできるのなら他人丼を「他人うどん」にできるし、カツ丼もご飯部分をうどんにして「カツうどん」にできるし、天丼は「天うどん」にできる…あ、それは「天ぷらうどん」か。

うどんと小麦粉がまたまた値上げ

 続いて、値上げ関連のニュースを2本。まずは、値上げしても絶好調の「高松駅ホームのうどん」です。

(10月14日夕刊)

高松駅売店のうどん、1日2000杯以上 好評、値上げも関係なし 本場の味に舌つづみ

 「さぬきの味」として名物になっている国鉄高松駅の“さぬきうどん”が食欲の秋ともあってこのところ大繁盛、終日売店の前は乗客の行列が続いている。駅構内に鉄道弘済会と高松駅弁が38年2月「高徳うどん」として店開きしたが、好評で売り上げは年を追ってうなぎのぼり。最近は1日2000杯以上という記録的な売り上げで、金額にして1カ月240万円にもなっている。

 乗客の中には2、3杯のおかわりはざらで、7、8杯平らげる“猛者”もあって、準備した玉が間に合わないこともあるらしい。特に本土からの連絡船が到着する頃には満員になり、売店からはみ出してホームで立ち食いする人でいっぱい。さる1日からうどん40円、そば60円とそれぞれ10円値上がりしているが、そんなことには関係なく、なかなかの好評だ。

 前年2月にオープンして話題沸騰の「高松駅ホームのうどん」ですが、今度は「高徳うどん」という新しい名称が出てきました。「昭和38年」の記事では、
・2月1日、国鉄高松駅3番ホームに讃岐手打ちうどんの売店がお目見え。
・2月1日、高松駅5、6番ホームに新名物「さぬきうどん」がお目見え。
・10月4日、高松駅構内、高徳線のホーム入り口に「さぬきうどん」「生そば」を売るコーナーが新しくお目見え。
とあり、ホームの番号は錯乱していますが、要するに、

①2月に予讃線ホーム(記事からは3番ホームなのか5、6番ホームなのか両方なのかがわからない)に立ち食いうどんの売店ができた。
②10月に高徳線ホームにも立ち食いうどんの売店ができた。

という話でした。ところが、今回の記事では「駅構内に鉄道弘済会と高松駅弁が38年2月『高徳うどん』として店開きした」とあります。「高徳うどん」という名称も初出ですが、この「高徳うどん」が「高徳線ホームの立ち食いうどん」なら、「2月に店開き」というのがおかしい。というわけで記事の内容が少々混乱していますが、とりあえず「駅のホームのうどん」は値上げしてもどんどん売れているようです。ちなみに、記事中に「本土からの連絡船が到着する頃には満員になり」とありますが、この頃はまだ宇髙連絡船に「連絡船うどん」がなかったからです。

 一方、11月1日からは「うどん玉」の卸し価格と小売価格が値上げになりました。

(10月21日)

“食欲の秋”にまた赤信号 高松市内の生うどん、来月1日から1玉2円の値上げ

 高松市内で売られている生うどん、生中華そばが11月1日から一斉に値上がりする。値上がり幅は卸し、小売価格ともに1玉当たりそれぞれ2円。物価の値上がりでネを上げている主婦、消費者にとっては頭の痛い食欲の秋になる。

 高松製麺協同組合(中原伊八理事長、組合員70業者)はこのほど開いた理事会で、来月1日から生うどん、生中華そばの卸し、小売価格をそれぞれ2円ずつ値上げすることを決めた。値上げされると、うどんは現在の卸し8円が10円に、小売りは10円が12円となり、生中華そばは卸し9円が11円、小売り11円が13円となる。値上げの理由として同組合は、
①36年から値上げをしておらず、一時同じ値段だったパンが大幅に値上げしている。
②最近の材料費、人件費などの値上がり。
などをあげている。新市内の一部では今年3月から値上げを実施しているところもあるが、これで高松市内はすべて足並みをそろえることになる。県製麺組合連合会の話によると、坂出はすでに4月1日から値上げに踏み切り実施しているが、これによって琴平を除く観音寺、多度津、善通寺、丹生、池戸の5組合も足並みをそろえ値上げするとの見方が強い。

 組合の“談合値上げ”ですね。ちなみに、駅のホームのうどんは10月14日の夕刊に「去る1日(10月1日)から値上がりしている」とありますから、「生うどんの値上げ(11月1日)」より1カ月早く値上げしたようです。

うどんの「こね鉢」と「うどん鉢」のコラムが2本

 「讃岐の民具」という連載コラムに、うどん粉を練る「木地鉢」と、うどんを食べる時に使う「うどん鉢」の説明と写真が載っていました。

(11月17日夕刊)

連載「さぬきの民具」…木地はち 独特の大きさ

 さぬき名物のうどんを作る時、うどん粉を練ったり、また寿司を混ぜ合わせたりするのに多く使われたのが、この「木地はち」。内側のふちの角度がなめらかに丸味を帯びているので、混ぜ物が外にこぼれない上、シャモジで下からすくい上げる時、ふちのところまでくると中の物がうまくシャモジに乗るようになっている。ここにも庶民の智恵を見ることができる。

 写真の木地はちは、直径55センチ、深さ14センチの大きなもの。内側は朱色、外側は黒色の漆で仕上げている。年代を経た漆が見事なほどの深みのある光沢を持っている。物を入れる道具として古くから木彫りが用いられ、全国どこででも作られているが、このような大きな木地はちは讃岐独特のものらしい。木地はちはケヤキ、トチ、クリなど粘りのある木を手で荒彫りした上、最後にロクロで仕上げる。明治前に盛んに作られたが、写真のものは明治初期の作。今は作られないが、県下の一部では今なお重宝して用いている家庭があるといわれる。

木地鉢

 古い新聞からなので写真が鮮明ではありませんが、外観はおわかりかと思います。記事に「庶民の知恵」と書かれていますが、「開業ヒストリー」や「昭和の証言」では「金だらいで粉を練っていた」という話が結構出てきますので、この漆塗りの大きな鉢はそうそうどこでも使われていたものではないかもしれません。

(11月19日夕刊)

連載「さぬきの民具」…うどんばち 図柄は木版

 さぬきうどんといえば、うどんばちにうどんを入れ、その上から汁をかけて食べるものとされているが、明治以前まではうどんと汁は別々の容器に入れて、汁をつけながら食べていた。今で言う「湯だめ、冷やしうどん」のようなものだったらしい。従って、うどんを食べるにはうどんばちと汁入れが用いられた。またうどんばちは汁を入れる必要がないので今のものよりずっと底が浅く、深い皿のようなものだった。

 写真のものは、こんぴらさんで知られる琴平町内の参拝客相手の飯屋で使っていた。江戸中期の作らしく、絵は木版で押されたもの。アイ色の単純な図柄が食欲を誘う。長い間、旅人の食を満たしてきたものだろうが、今でも古さを感じさせず、十分実用に耐えることができよう。昔からさぬきうどんは各家庭での手打ちが一番おいしいと言われ、この器はどこの家庭にも欠くことのできない食器だった。それがだんだん手打ちうどんを作らなくなると同時に、うどんに汁をかけて食べるようになって、使われなくなった。

うどん鉢

「明治以前まではうどんと汁は別々の容器に入れて、汁をつけながら食べていた」そうで、写真の大小のうどん鉢はいずれも中には麺と湯(水)を入れるだけの、「湯だめうどん」か「冷やしうどん」の器のようです。先の加藤增夫先生のコラムの中にも「うどんは湯だめにして食べる」と書かれていたことから考えると、昔の讃岐うどんは「湯だめ」と「冷やしうどん」が主流だったことが改めて窺えます。「昭和の証言」で「法事のうどんは湯だめだった」という話が何度も出てきましたが、「それこそが讃岐うどんの本来の食べ方だった」と言えるのかもしれません。

「源平なべ」は昭和40年時点でまだ健在

 さて、今日ではほとんど消えてしまった讃岐の郷土料理「源平なべ」について、前年に「一日一言子」が「(地元で)あまり知られていない」とお嘆きでしたが、再び“源平なべ推し”のコラムが出てきました。

(11月26日)

コラム「一日一言」

 鍋物、特にカキ船やフグの宿の灯の恋しい季節であるが、戦後、讃岐路の観光料理として売り出されてきた「源平なべ」というものに初めて接した。大ざらに盛られた山海の珍味は土佐の伝統料理“さわち”を思わせるが、“さわち”のようにそのまま食べるのではなく、一度目を楽しませてから鍋に入れて煮ながら食べるところに特色がある。魚や野菜の材料の下に、波に見立てて讃岐の手打ちうどんが敷いてあり、最後にこれを食べる。ちょうど “うどんすき”と“沖すき”(いずれも大阪名物)を一緒にしたようなところがこの鍋の狙いで、いかにも観光客が飛びつきそうな趣向だ。

 海の幸からは源平合戦にゆかりの平家ガニはもちろん、瀬戸内名物の車エビやイイダコ、ハマグリをはじめ、タイ、ヒラメ、オコゼなど白身の魚が登場。ギンナン、クワイなど季節の山菜や野菜が目を楽しませた。アクセサリーとして、扇の的を立てた平家の船と、それを射止めようとする那須与一の作りものが飾ってあるのも、料理の名前にふさわしい興味をそそり、「特に外人客に喜ばれる」という板場さんの話もうなずけた。外人の中にはこの扇を欲しがる客もいるらしいが、これはお子様ランチに飾られた日の丸の旗を子供が喜ぶのと同じ心理だろう。すき焼きや天ぷらに続く日本の味として「源平なべ」が外人客を喜ばすとすれば、観光香川としては大出来である。

 名物を食べ、風景を食べ、古人を食べることは「“旅を食べる”三要素」だとよく言われるが、源平鍋は期せずしてこの三要素を備えている。戦後版の観光料理が、唯一の郷土料理と言われるしょうゆ豆などと同様、歴史の年輪を重ねているように見えるのも、その優れた着想が旅人の心を捉えたためであろう。季節感を重んじ、季節季節の郷土の材料を見事に生かしてこそ、観光料理としての生命があるのだが、これにはやはり料理人の良心と愛情が物を言う。“一期一会”(いちごいちえ)の心構えは茶の湯の世界だけの一枚看板ではなく、旅人を楽しませる料理の道にも通じる。“名物にうまいもんあり”の旗を掲げて、旅館や料亭がこの観光料理を大切に育ててほしい。

 「源平なべ」は「戦後、讃岐路の観光料理として売り出されてきた」そうですが、昭和40年時点では新聞記者も「初めて接した」というくらい衰退していたようです。しかしとりあえず、昭和40年時点で源平なべを出している店がまだ存在していたことはわかりました。さらに、そのメニューの内容も想像以上に豪華であることが判明。前年の記事の解説で、wikiレベルの情報をもとに「源平なべは源平合戦にちなんで源氏の白旗に見立てたダイコンと、平氏の赤旗に見立てたニンジンと、源義経の進軍ルートにちなんだナルトが入っていた」と書きましたが、ここには源氏の白は「タイ、ヒラメ、オコゼなどの白身魚」、平家の赤は「平家ガニ」という豪華食材が並んでいます。こちらは一言子が実際に食べた「源平なべ」ですから、ほぼ間違いないと思われます(やっぱりwiki情報を鵜呑みにしちゃダメです・笑)。しかし、この食材の内容を見るとますます「復活させたい」という気持ちが募ってきますが、どうでしょう。

 ちなみに、「源平鍋」を売りにしたレストランの広告も見つかりました。

広告・橘

ついに「うどん店」の広告が登場!

 さて、うどん関連の広告はこれまで、求人広告を除けば製粉会社や食堂の協賛広告がほとんどでしたが、ついに「讃岐の手打ちうどん」を掲げたうどん店の広告が初めて登場しました。記念すべきその店は、「川福」です。

広告・川福

 10月16日の協賛広告に載っていた「川福」の頭のコピーは「サヌキ名物手打ちうどん」で、横に大きく「煮込うどん寿㐂」というメニュー名が載っています。「うどん寿喜(すき)」です。「うどん寿喜」は今はなき「かな泉」の代名詞だと言われてきましたが、少なくとも新聞に出た「うどん寿喜」は「川福」が最初であることが判明しました。

 そして、店のキャッチコピーは「ざるうどんの家元」。昭和40年の川福は、すでに「ざるうどん」の名前を掲げていました。時系列を確認すると、川福は昭和25年の創業で、昭和27年に「ざるうどん」を正式メニューにしたとのこと。ちなみに、川福の「ざるうどん」というメニュー名は大平正芳元首相が命名したと言われていますが、昭和27年の大平先生は衆議院に初当選したばかりの42歳ですから(首相になったのは昭和53年)、もしそのエピソードが本当であれば、「ざるうどん」は厳密に言えば「大平首相」が命名したのではなく、「大平議員」が命名したことになります。あと、広告の下段に小さく「ご家族連れ、小宴会にお座敷をご利用下さい」とありますので、川福は当時からお座敷のある立派な一般店だったようです。場所は「高松ライオンカン前」ですから、今と同じです。

 続いて、12月8日に「源芳」の単独広告が載っていました。

広告・源芳

 大きく「讃岐名物手打うどん」とありますが、広告の内容は「お歳暮・土産品に最適」「手打ちうどんの味そのままを長期保存することに成功」「少量からでも地方発送」とあるように、これは飲食できるうどん店の広告ではなく、いわゆる「お土産うどん」の広告です。しかし残念ながら、「手打ちうどんの味そのままを長期保存する」というのが「半生うどん」なのか「茹でうどんのパック保存」なのかがわかりません。

 そして、もう一つ見つかったのが1月1日に載っていた「さぬき麺業」の年賀広告ですが、こちらは何と、「うどん」ではなくて「さぬきスパゲッティー製造元」となっていました。

広告・さぬき麺業

 さぬき麺業は、同社ホームページによると「昭和39年2月に高松市周辺の製麺業者30数店の共同出資で設立された」そうですから、これは設立翌年の広告。それが「さぬきスパゲッティー製造元」とはどういうことなんでしょう。「30数店の製麺業者」はそれぞれ自社の製麺業をやっていて、新設した「さぬき麺業」はスパゲッティーからスタートしたということなのでしょうか。あるいは、うどんの製麺は当然やっていて、新発売の「さぬきスパゲッティー」を売り出すためにあえてそう書いたのでしょうか(でも、それなら「うどん製造」も併記しててもよさそうなものだし)…そのあたりの事情は、残念ながら新聞からはわかりません。

 その他、この年の協賛広告で名前だけ出ていた会社は以下の通り。

(4月17日)協賛広告
●日清製粉株式会社(坂出市東浜町)
●香川県製粉製麺協同組合・学校給食製粉委託加工工場(高松市天神前)

(5月17日)協賛広告
●日の出製麺所(坂出市富士見町)

(5月31日)協賛広告
●製麺商/株式会社合田照一商店(三豊郡豊浜町)

(6月30日)協賛広告
●乾麺製造販売/日本製粉KK特約店・株式会社合田照一商店(三豊郡豊浜町)

(11月6日)協賛広告
●製麺/株式会社合田照一商店(三豊郡豊浜町)

 「日の出製麺所」と「合田照一商店」が初めて登場しました。

小豆島手延べそうめんが「お中元贈答用」の商品を売り始める

 続いて恒例のそうめん記事を2本。

(7月9日)

好感持たれる県物産(大阪)

 大阪・福島区の中央卸売市場は7月に入って夏野菜と夏果物の入荷が本格化しており、香川県からもスイカをはじめ、夏の味覚がどっと売り込まれている。…(中略)…一方、香川産の夏の味覚で小豆島の手延べそうめんがこれまた好感を集めている。香川県物産協会大阪支所を通じて、今、懸命の売り込みに入っている。昨年から始めている「そうめんを中元贈答品に」というキャッチフレーズで、「郷土の味を」と県人向けに売り込んでいる。今までは、そうめんといえば容器は「そうめん箱」と決まっていたが、中元贈答用品向けとなると包装が肝心とあって、1.6キロから8.2キロ入りまでの5段階に分けた美しい化粧箱でお目見えしている。荷造り包装、サービス、価格はもちろん県人特別価格(1.6キロ500円、8.2キロ1800円)。

 小豆島の手延べそうめんが「お中元贈答用」の商品を売り始めました。加えて、「1.6キロから8.2キロ入りまでの5段階に分けた美しい化粧箱」も初めて登場したということは、これまでそういうものがなかったということです。

(11月12日)

白滝の“寒そうめん”

 小豆島で特産の「手延べそうめん」の本格的生産が始まった。これから冬季にかけて生産されるのは「寒そうめん」とも言われ、最もよい味の製品ができる。主産地、池田町内の業者は120軒で、ほとんどが農業と兼業。来年3月末までの生産目標は5万5000~6万箱。箱は18キロ入りと9キロ入り。値段は大箱で2000円見当とみられ、九州、中国、四国、阪神方面などへ出荷される。

 池田町内の業者が出荷するそうめんも、これまで「1箱18キロ入り」しか出てこなかったものに「9キロ入り」が初めて登場しました。先の化粧箱と併せて、小豆島のそうめんはここに来てようやくマーケティング的な動きを見せ始めたようです。

 ちなみに、「四国の観光と物産展」は1月9日から13日まで5日間にわたって名古屋市内丸栄デパート8階で開催。また、県下の麦作はさらに減反が進み、「人手不足と災害で生産意欲が減退している」という記述が見られました。

(昭和41年に続く)

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