香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市片原町・昭和4年生まれの女性の証言

戦前~戦後の片原町のうどんの想い出

(取材・文:

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  • vol: 306
  • 2022.07.28

大きな釜の「おかか」といううどん屋さんが有名だった

戦前の片原町界隈はずいぶん華やかだったそうですね。
 片原町の古天神さん、あそこらへんが一番賑やかやった。
ご近所にうどん屋さんはありましたか?
 戦争で焼ける前の話やけど、御坊さんいうお寺はご存知かな? 片原町のこの商店街の筋に大きなお寺があったん。その御坊さんの入り口に「おかか」いう狭いうどん屋さんがあってな。いつも大きな釜にトックリに入れたダシをつけて温めとんや。それでカツオブシや置いてあるけん、セルフみたいに勝手に乗せての。ほんでいつも店頭には、がいなおばあちゃんが座っとった。そのおばあちゃんは店の仕事はせんで、見とるだけ(笑)。子供の時、よう食べにいっきょったけん、よう覚えとる。そこは有名やったわ。
その「おかか」は自家製麺でしたか?
 子供やけん、そこまではわからんかった。行きやすいけんみんながよう食べに行っきょったんやけど、昔は昔でそれがまたおいしかったんや。もうモノがなんちゃない時代やけんの。
他にうどんを食べられる店はありましたか?
 今の通町いうか、清光寺さんからちょっと行った角に食堂があった。「おかだ」さんって音楽しよったやろ。あそこのお里やと思うんや。そこがいろんな食べもんをしよったと思うんや。うどんにばら寿司とかいなりとかがあって、ガラスのショーケースみたいなのにおかずが入っとって、食堂みたいなのでしよったんや。それは記憶にある。あと、終戦直後は「おかか」の隣の「びっくり屋」で、朝50人やら100人やらが券もろうて並んで、雑炊みたいなんを食べよった。
配給ですね。
 配給いうんかな。まあそんな時代やったけん、私らの世代は少々のことではへこたれんのや。空襲で焼け出されてなんちゃないところからみんな一所懸命働いてきとる。

うどんの屋台は見なかったが、ラーメンの屋台は出ていた

うどんの屋台は出てましたか?
 うどんは見たことがないな。けど、ラーメンの屋台は来よった。晩がきたら、うちの前のパチンコ屋の横にラーメン屋のおっさんが来るんや。「おたこう」言いよったかな。そこでいつも晩に始めて、夜通し商売しよった。パチンコする人がよう食べよった。

 あと、ここら辺で当時有名だった話は、「みかん」の屋台やの。終戦後、商店街の倉庫のあった前に鬼無のみかん屋さんがみかんを持ってきての、戸板並べてその上にみかんをいっぱい置いて売っりょったんやけど、終戦後のなんちゃない時やけん、それがまたよう売れて。そこのご主人は床几を持ってきてそこで寝るんや。それで一代で財産こっしゃえたそうや。

うどんを「出前」で食べていた

ところで、ご自宅ではうどんは食べましたか?
 家ではほとんど食べんかったな。うちは商店街で店しよったけん、親は商売で忙しいて、なかなかごはん作れんやろ。今の琴電の片原町駅のところに学校があって、私は子供の時は学校と家が近いから、お昼に家に帰ってきてあるもんでお昼を食べよった。あとはお店に食べに行ったり、出前を取ったり。家から近い店は電話かけたらハイハイいうて持ってきてくれよったけん。昔はどの店でも出前で持ってきてくれよったと思う。うどんも出前してくれよった。
「戦後すぐ」と言ったら何となく“悲惨で無法状態”みたいなイメージを勝手に持ってたんですけど、片原町あたりではそうでもなかったんでしょうか。
 まあ、終戦後すぐは闇市みたいな、茶碗やそんなんを藁に包んで束にしたやつをくくったままで持ってきて道端で広げよったわの。そんなことはあったけど、この辺は割り方、そんな変なんはなかったで。

 けど、うちの裏にあった木造の郵便局が火事になった時は「火事場泥棒」が出たわ。私はその時に家でご飯食べよったんやけど、窓を開けたら裏の郵便局が燃えよんや。ほしたら、うちの窓のガラスが、普通のガラスやのに熱でこななって、おもっしょげにいがんでくるんや。ほんで消防やそんなんが来たんやけど、消防車がうちの店の中に遠慮なしに放水してやってくれる。ほんで火が消えたら、知らん人が身内みたいな調子で来ての。持って行けるもんを勝手に取って逃げるん。「火事場泥棒」や。まあ、物がない時代やったから、そらもういろんなことがあったんで。

 
●編集部より…戦前の片原町にあった「おかか」といううどん屋の名前が出てきました。あと、うどんやばら寿司やいなり寿司やおかずを出す「おかだ」さんという食堂と。ちなみに、その「音楽をしよったおかださん」というのは、RNCラジオの『タンゴアルバム』で人気パーソナリティを長年務めていた岡田寛さんでしょうか。岡田寛さんはお会いした限りではとても上品でユーモアのあるおじさんでして、一度テレビ番組でご一緒させていただいた時に「讃岐弁はフランス語と通じるところがありましてね。ナンション~?、ナンガデッキョン~? いうてね」とおっしゃっていたのが今も忘れられません(笑)。いや、「音楽をしよったおかださん」が岡田寛さんじゃないかもしれませんが。

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