香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

旧三豊郡大野原町下杉林・大正13年生まれの女性の証言

机の端に取り付けて使う「家庭用うどん製造機」があった

(取材・文:

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  • vol: 246
  • 2017.11.09

家では卓上型の機械でうどんを作っていた

 出所(でどこ)はな、大野原(旧三豊郡大野原町・現在は観音寺市に合併)の下杉林(しもすぎばい)いうとこ。杉林で「すぎばい」って読むん。ハイバラの方にな、下杉林と上杉林(かみすぎばい)いうんがあるんやんな。

 うちは農家や。田んぼ5反くらいしよったんかな。うどんは買うたりせんと、全部自分とこで作んりょった。けど麺棒で、こやったりしたりとかはしよらなんだ。うちにはうどんの機械があったけん。そなん大きいことないんで。このぐらいのおっきょさ(大きさ)じゃな(両手を肩幅に広げた位)。机の端っこに取り付けてな、お母さんがこう回っしょった。回すとこは机より外になるん。

 生地を入れて機械で回してな、始めはこのくらいの幅に平とう(平たく)にして。ええ加減の長さになったら、最後に切るとこ押す。ほなら切れてスーッと細いうどんの太さになって出てくるん。機械でこう繰ったら(回したら)、すーっとそういうに細ーになっていくんや。押し出したような丸いんでのうて、平たいわな。キレイなうどん、普通のおうどんと一緒じゃ。機械でするだけでな。そいなんだったんです。私はあんまりせなんだけど。

 あの機械は割とな、早よに買うてな。いつやったやろか。わっせたがな(笑)。使いよったんは私が出所でおった若い頃。娘の時じゃけん。私、大正13年生まれで20歳位の頃じゃけん、昭和19年か20年位?

 自分き(家)も機械買う前は、手で伸ばっしょったと思うんや。細い棒でそれに巻いて、何回もしよったわいな。で、まるーにまるーにならい。ほんで最後に、包丁で切れる範囲の幅に折り曲げてな。ほんでこう切んりょった。他所も機械がないけん、皆手でしよったわな。

 うちの機械はどこばりに(どこにでもは)なかった。ほだけに、皆うどん作る時には「貸してくれ」って言うて来よったわい。机の端々に取り付けてあるけんな。作りに来よったよ。機械はもう残ってないやろな。古いきになあ。戦争の後、どうなったかな。わっせたがな。ははは。

小麦粉も味噌もしょう油も自前で

 うどんに使う小麦は、うちで作ったやつを精米所やそよなとこ持って行て、粉(こー)にしてもらいよったんや。皆、そよにしよった。精米所は近くにあったけど、どんなんだったかはわっせたな。しょう油や味噌やは、そよな商売しよるとこもあるけど、大抵家でしよったわな。私やも20年位前まで赤味噌作んりょった。赤味噌は麦ですんな。白味噌は白米。

月2回の休みの日にうどんを食べていた

 今はどいなんか知らんけど、私や子供時分はな、うどんは割とおごっつお(ご馳走)の方だったんじゃ。祭りやお休みの時には絶えずうどん。何かの時はうどんしよったわな。

 昔は農家だったら、仕事しよんを止めて休む日があったんじゃ。旗が立つん、白い旗。その旗が立ったら「あ、今日はお休みの旗が立っとる」言うて、昼からは休み。昼まで仕事してな。1日(ついたち)とか15日とかな。月に二遍ぐらいだったかな。休む日は大体部落の上の方のし(人)が決める。それ楽しみにしとったん。普段はそなんもう休ましてくれんから(笑)。

 食べよったんは普通のうどんじゃわな。イリコでダシ取った味の付いたお汁。そん中に入れるわけよ。具はやっぱりアゲとかな。細ーにちいそーに切ってな。ほれとネギとかな。大体、今でも一緒じゃわな。他所はどやっりょったか知らんけど。

 夕飯とかご飯が、ちょっとかいなかったり(足りなかったり)何かしたら、打ち込みしてな。そいな時は味の付いたダシの中へ、家でできた大根やら根菜類を入れよったな。ご飯の代わりやった。

法事はうどんをすることになっていた

 うどんは大体こんなんやったけど、法事とか人に出す時には、ちょっとキレイにして出っしょった。ほりゃ法事の時にはうどんするわな。せないかんかったと思う。うどんはもう、歳いた人は皆こしらえよった。うちはあの機械でしよったけどな。

 出すんは前の日だけやったじゃろな。ホントの日(法事の当日)は、おご馳走こしらえるけん。うどんはちょっと温めて、お汁かけて食べよったわいな。ダシを別に炊いといて、うどんができ上がったらそれにかけて。そうか、そのダシをいっぱい作って、そん中へ入れてな。ま、家によって色々な。

大野原には自家製麺のうどん店があった?

 うどんする機械があってうちで食べよったけに、店には行っきょらんかったけど、その頃うどん屋はあったよ。昭和20年前後じゃな。結婚する前の大野原にもあったし。

 どんな店いうたって、うどん屋じゃけん。何か打ち板いうて、こいな四角の大けな台があるん。その上にうどんを置いたらな、細ーい棒に巻きつけてな。こやって伸ばすん。ほんで、薄ーに伸びたら、こよにこうこうして(折り畳んで)小口から包丁で切っていくん。ほんで、シュッとしてはシュッと。棒をここ置いといてな。全部したらそれ取って湯がっきょったん。けどな、名前も場所も知らんわ。結婚してでも、うどん屋は方々(ほうぼ)にあったわいな。もうわっせたけんど。

 結婚したけど、主人が佐世保に兵隊に行っとったけに、ついて行ったんやな。何年ぐらいおったかな。終戦なる前に、家帰ったように思うんじゃけど。あれ、子供ができたりしたけんな。こっちへもんて(帰って)生んだんと違うかな。家は池之尻(観音寺市池之尻町)じゃな。もんてきて小間物の店をちょっとやっりょったんや。着物縫うたり何かしたりな。今、池之尻には「大喜多」があるけど、あれや昭和30何年からやろ。他にうどん屋はあったかなあ。もう昔の事、覚えとらんがな。

●編集部より…謎の「家庭用うどん製造機」登場! 方言全開のおばあちゃんの話をよく読んで、一体どういう機械なのかを推理してください(笑)。「どこばりになかった」というこの機械を詳しく知っている方がいらっしゃいましたら、ぜひご一報を。

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