香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

旧香川郡塩江町安原・昭和17年生まれの男性の証言

挽き立ての小麦粉は熱くて運ぶのが大変だった

(取材・文:

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  • vol: 250
  • 2017.11.23

家には中学まで電気が来てなかった

 僕は塩江(旧塩江町・現在は高松市に合併)の安原ですね。昔、塩江にガソリンカー(塩江温泉鉄道・1929年から41年まで仏生山と塩江の間で運航されていた)いうガソリンで走る鉄道が走んりょったんやけど、戦争で燃料が足らんようになって廃止されたんですよ。生まれたんはその翌年の昭和17年です。

 家は農家で、中学校の3年(昭和31年頃)までランプ生活やった。山やから電気が来てなかったんです。燃料は山で木を切って来るし、風呂もご飯も全部それやからね。そういう中でおったから、当然家では肉なんか年何回やし、その肉もニワトリや獲れたイノシシやったし、魚もまあね。

 おうどんは、ほとんど家で踏んでました。6割は打ち込みうどんやの。ほんで4割は玉にして、つけて食べたりおかけ(かけうどん)にしたり。打ち込みはやっぱり冬やね。自分とこで採れた野菜、里芋とか大根やらニンジンやらゴボウやネギや入れてね。それからおアゲも入れよったかねえ。そんなんで食べよった。味噌味でね。

 辛味噌も甘味噌(白味噌)も完全に自家製でしよったけんのう。ほんで、大根とかニンジンとかゴボウなんかを辛味噌の中に入れておいて。色が変わったら出してね。大体は自分とこでしよった。蕎麦も挽き臼で挽っきょったわい。けど、アゲは作りよる豆腐屋さん行て買うて来よったね。他のお店も、塩江街道までちょっと出るとあったんですけどね。

水車のある製粉所で小麦を挽いてもらっていた

 安原には最明寺の近くに水車があって、家で作った小麦を持って行って挽いてもらってました。「山下」の水車(『讃岐の水車』P65に記載がある高松市塩江町安原下の「山下水車」・昭和37年に廃止)。

 ギリギリいいながら挽いてもらって。メリケン粉をこう、一斗缶に入れて背負うんで。そしたらね、挽いてすぐは熱持っとるから熱いん。「熱ーう」言いもって持つんや。山に上がらないかんけん。今でもまだ、あそこへの水車見たら思い出す。

 そこはうどんはやってませんでした。精米や精麦だけ。粉は、お盆なんかの団子なんかする時もいったからね。お米やお麦持って行って「なんぼ」言うたら、その分、挽き代は小麦やお米で取られるんやね。菜種絞ってもらうんもそれでしよった。すぐ使わん分は帳面に書いてもろといて、いるようになったらもらいに来る。全部そうじゃ。帳面は向こうが書いて、自分では持ってないから、ちゃんとしとったかどうかは分からんけどね。

 そらもう、日用品売ってるお店行っても一緒だった。「○○なんぼ」とか書いてあって、盆と暮れに全部お金を返すとか。それと「今月の給料が入ったから」ってだけやね。ツケや。大福帳みたいなもんや。けど豆腐だけは現金だったと思う。竹でこう編んだフタができるようなカゴに、お豆腐とおアゲと買うて帰んりょったね。店で豆を挽っきょりましたよ。あの豆腐は美味しかったなあ。

 水車はなしんなってしもたけど、今でもその跡が残ってる。最明寺行くとこの橋から見ると、水車のあったお宅のところから使った水が出る口、水がこう通ったとこの石の格好が今でも残ってますね。

高校の食堂には具の少ないうどんがあった

 高校は高松やけど、どこの学校かわっせた。場所もわっせたわ、その程度でええでしょ(笑)。自転車で行きは下りやから1時間ちょっと、帰りは登りになるから1時間20分かそこらかかったなあ。

 高校の食堂は昼だけで、パンとうどんぐらいしかなかったもんなあ。うどんはすうどんみたいなやつで、チクワとカマボコやは乗ってなかったような気がする。ネギぐらいは一応あったな。そんなんでも美味かった。値段はもう忘れたけど、小遣いがないから、なかなかみんなのようにはしょっ中食べんかったわなあ。

 食堂のうどんは、どこの高校でもあったでしょう。うどん玉はそこでは作ってなかったから、どっかから持って来よったと思う。玉はちょっと固まっとるようなんやったけど、それしかないから美味かったん。

 それからかりんとう。町で切って揚げて売っとった。大きいやつで、あれ美味かったな。買い食いはそれぐらいで、あとはお茶とか何かは売っとるとこないし、喉も渇いたけどどうしたんかは覚えてないなあ。

ビフテキがある食堂にもうどんがあった

 高校出てからは就職しました。まあ方々で色々したねえ。その頃に食べたうどんいうたら、花園町(高松市花園町)の角っこに、日産(自動車)いうんはまだあるんかな? その東っかわに「佐野屋(廃業)」っていう食堂があった。今はもうないな。

 そこはうどんと蕎麦とねえ、ハヤシにビフテキやトンカツもあった。大体のもんをしよったんやろねえ。うどんはかけうどんみたいなやつで、おアゲの三角を2つ、それと後はカマボコも入っとったと思うな。でも私はほとんどが生蕎麦だった。店はそう大きくないけど、残業したり何かした時も時々食べに行ったりなあ。あそこも「掛け(ツケ)」で食べよったな。

 その近くの会社へ勤めとったんやけど、僕なんか弁当持って行って食べよるのに、社長や専務はそこのビフテキを食べるんや。注文したらバーンと箱に入れて持ってくるんやけど、突然お客さんが来て接待があったり、急に用事があって交渉に行ったりしたら、社長はどっか行くわね。ほなら食べんと残るわけよ。会社で「まだ今日食べてないなあ」と思いよったら「あれ、君食べや」言われて。固とうなったけども、ビフテキなんか食べれんし初めてやから、まあ美味かった。そんなんで何回か食べたわ(笑)。

 それとうどんは「丸福」で食べたかね。片原町になるんかな。今でもあるやろ。うどんの話でアレやけど、あそこの蕎麦が美味かったと思うんや。あとは連絡船で食べたぐらいかねえ。あんまりうもなかったけど、帰りの船でなんか美味さよりも懐かしさで食ったわなあ。

法事のうどんは1人5玉が普通だった

 それ以外でうどんいうたら、法事や何かの時はほとんど食べてましたね。僕の場合は、法事とかの時は食べましたけど、お葬式の時は食べんかったねえ。法事のうどんはかけ」でね。大体、皿に2玉入れるんが普通かな。僕は子供やけん少なかったけど。「イリコで取ったダシにしょう油で味付けて、上に色んなもん乗せて。

 皿は、丼よりずっと浅い皿。最近使いよるとこは少のうなったけど、うちやまだ上手に使ってる。あれは煮物入れたり、おかず入れるんにええんね。今、私もお寺へ行っきょって、冬はお蕎麦、夏とか春とかはおうどんが出るんだけど、もうあの皿だけですよ。丼なんかめんどくさい。丼は新しいなあ。私らの時はそんなんなかった。でもなんであの皿なのかは分からん。

 うちは浄土真宗やから三部経いうて、休み入れながら3回お経する。だから最初の中休みにおうどんして、次はお茶とお菓子。次はもう本膳。ほんでうどんを「どうぞ」言うて「お代わりどうぞ」言うたら「ほなら」って食べるけん、これで2玉2杯で4玉。食べたら「次どうですか」て言われる。「どうしょうかなあ、こっちに料理があるから」て言うたら「ひとつでもどうですか」「ほならひとつにしょうか」で、大体普通の人が5玉やな。

 僕の知り合いは最高でね、22玉食べたんよ。ひとセイロ、食べてしもたな。競争して食べるけん。それから飲みながら色んなもん食べるんやから。ほんで一の膳、二の膳、三の膳から、お土産なんかするからね。

 うどんは家で打ったのもあるし、まあ機械で打ったんを製麺屋さんかどっかで買うて来てたんもある。生麺で買うて来て湯がいてしまうんや。そやけど改めて思い出してみたら、覚えてないなあ。なかなか記憶は途切れるもんやね。

●編集部より…昭和20年代頃の塩江の山の中の生活…映画かドラマになりそうな話です。過去の証言でも1~2度出てきた「お皿で食べるかけうどん」は、今は普通のうどん店ではまず見かけませんが、お寺さんでまだ出てくるところがあるようですね。

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