さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.26 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和43年(1968)>

(取材・文:

  • [nazo]
  • vol: 26
  • 2020.05.28

好景気の年は「うどん」があまり記事にならない?!

 昭和43年は「いざなぎ景気」に湧く高度経済成長の真っ只中にありましたが、東大をはじめとする全国の大学で猛烈な大学紛争が起こり、全国の新聞等が12月の初めに発表した「今年の10大ニュース」で第1位に「大学紛争」を選んだ矢先、12月10日に「3億円強奪事件」が起こって10大ニュースの発表がちょっとマヌケなことになった…という年でもありました。

 そんな中、新聞で見る昭和43年の讃岐うどんはとてもおとなしく、注目に値するニュースは全く見当たりませんでした。もちろん、巷ではちゃんと製麺所やうどん店が営業し、県民も変わらずうどんを食べていたわけですが、景気がいいと、庶民派の「うどん」の話題はあまり新聞に載らないのかもしれません(笑)。では、讃岐うどんファンにとってあまりワクワクする話題はありませんが、数少ないうどん関連記事を無理やり拾ってみましょう。

榎井の手打ちうどん

(3月27日)

コラム「一日一言」

(前略)…行動美術の小西嘉純氏が高松の「きむら画廊」で開いている「こんぴら道中色紙展」を見て、ひざくりげ時代の昔に帰った思いがした。こばやし、はぜのまた、こやま、ごうとう、えんざ、山さき、すえを経て、たきの宮、あまざけ峠、くりくま、おかだと続く道中絵図は、通行人の風俗や茶店、旅籠などの情景を織り交ぜて、まことに楽しい昔の風物詩だ。はざまでは雲助がむしろの上でツボを振り、街頭トバクの客寄せをしていた。はらい川には「やきもち」の旗、えないは「手打ちうどん」といった案配。馬上の振り分けかっぱ、かごに乗る人、乗せる人、人さまざまの生活がこんぴらデコのように素朴ににじみ出て、実に楽しい。…(以下略)

 小西嘉純氏は大正9年(1920)琴平町榎井生まれの美術家。この「こんぴら道中色紙」はおそらく小西画伯が描かれたものだと思いますが、高松から琴平に向かう「高松街道」の風景の中で、ご自身の出身地でこんぴらさんの直前にある「えない(榎井)」の絵に、「手打ちうどん」が描かれているとのことです。江戸時代に描かれたという「金毘羅祭礼図屏風」には「こんぴらさんの参道にあるうどん屋(?)」の絵がありますが、こちらの色紙の絵は参道までの道中にあるうどん屋のようで、こんぴら参りの道中にも「うどん」が付き物だったことが窺えます。かつて、こんぴら参りの主要道として、高松街道、丸亀街道、多度津街道、阿波街道、伊予・土佐街道の5つが「金毘羅五街道」と呼ばれていましたが、せっかくの素材なので、「こんぴら参り」と「讃岐うどん巡り」をコラボして、店やメニューやイベントやグッズ等々を演出した「令和の金毘羅街道うどん巡り」を復興してはどうでしょう(笑)。

仏生山のドジョウ汁(ドジョウうどん)

(1月8日)

コラム「一日一言」

(前略)…昔の長尾は遍路宿と呉服屋が多かったそうだが、今は「医者と銀行」が栄えているのも時代である。…(中略)…食べ物でも、ドジョウ汁のあるのは仏生山だけかと思ったら、長尾にはちゃんと本格的なドジョウ鍋の店も現在していた。…(以下略)

 当時の「ドジョウ汁」には打ち込みのうどんが入っていたとのことなので、今で言う「ドジョウうどん」と同じようなものだと思いますが(「昭和42年」参照)、昨今では「ドジョウうどんと言えば長尾」というイメージがあります。事実、さぬき市造田(旧長尾町)で開催されている「どじょ輪ピック」でも「ドジョウうどんは造田の伝統料理です」と謳って毎回ドジョウうどんを振る舞っていたりするのですが、当時は「ドジョウうどんと言えば仏生山」だったようで、調べてみると、あの山田竹系さんの著書の中にも「仏生山のドジョウうどん」が出ていました。仏生山、ドジョウうどんをいつの間に長尾に持って行かれちゃったんでしょう。

伊吹のイワシ、引田のイワシ

 というわけで、うどんに関する記事は以上2本だけでした。では、うどん周辺の記事を数本。まずは、この年3本も載っていた「イワシ(イリコ)」の話です。

(6月4日)

イワシ漁さっぱり 伊吹島周辺、例年だと最盛期だが…

 イワシの漁場、観音寺市伊吹島周辺でイワシのバッチ網操業が始まっているが、今年は水揚げがほとんどなく、例年にない異常状態。この向きだと不漁は避けられない見通しとなった。燧灘海域では5月10日から12月末までイワシ漁が行われる。伊吹島漁協組では去る5月20日からバッチ網17統(1統は漁船2隻)を繰り出して操業を始めたが、これまでにかかったのはイカナゴばかり。例年だと今頃はイワシが1日3500キロぐらいの水揚げを見せているが、今年はほとんどない。

 同漁協組では「水温が低く、イワシの入り込みが遅れているといった漁況だったので操業開始を10日間日延べしたくらい。漁期が1カ月遅れているのではないかと思えるほどだ。今年のように水揚げゼロは初めてだ」と語っており、さらに「昨年は雨量が少なく、イワシに油が回って不漁だった。その上、今年がこの有様では…」と不漁の追い打ちに漁業者は深刻な表情。県水試ではこの不漁の原因を「今年は水温が低く、赤潮が例年より早く発生したことではないか」と見ている。だが、「イワシ漁は普通だとこの15日から始まるので、現在は言わば走り。これからぼつぼつ入り始めるのではないか。今後の状況を注意している」と楽観的な予測を立てている。

 今は「イリコと言えば伊吹島」ですが、ここまで、新聞では「イワシ漁~イリコ生産」は引田が本場だという記事ばかりでした。それがようやく「伊吹のイワシ漁」が記事になったと思ったら、内容は「イワシ漁さっぱり」です。記事を読む限り、伊吹島周辺でも毎年多くの船が出てイワシ漁(イリコ生産)が行われていたことは確かなようですが、引田のような景気のいい話はまだ新聞には出てきません。

 一方、引田のイワシ漁の記事は相変わらず絶好調です。

(6月15日)

今日、イワシ漁解禁
引田漁協組、3統の漁船が出漁へ

 15日からイワシ漁が解禁になるが、イワシ漁の本場、大川郡引田町の引田漁協組からは、今年も3統の漁船が出漁する。今のところイワシの入り込みが少ないようだが、昨年は豊漁だっただけに漁師たちは「今年も」と張り切っている。イワシの操業期間は6月15日から11月30日まで。出漁前日の14日、同漁協組事務所前では海岸一杯に広げた網の上で漁師たちがウキやオモリの取り付け作業に大わらわだった。

 イワシ漁船は1統に網船2席、手船10~12隻が所属。40~50人の漁師が乗り込む。操業は月夜の頃は朝4時頃から晩の7~8時頃まで。また、月の出ない頃は夕方に出漁、夜たきで一晩中作業し、昼前に帰る。1日の水揚げは多い時で10トン近くもあるという。獲れたイワシは油の少ない良質のものを煮干し加工に回すが、8割までは冷凍にしてハマチのエサにする。平均3.75キログラムあたり60~70円が売り値の相場。最近は海の汚れがひどくなったせいか、イワシに脂が乗りすぎ、煮干しに向くのは少なくなったと漁師たちは嘆いている。

 先の伊吹のイワシ漁の記事と数字を比較してみると、

<伊吹>漁船…34隻、1日の水揚げ…3500キロぐらい
<引田>漁船…36~42隻、1日の水揚げ…多い時で10トン近く

ということで、やはり当時のイワシ漁の本場は引田だったと思われます。ただし、引田のイワシは2割がイリコになって、あとの8割はハマチのエサになるとのこと。野網和三郎さんが安土池でハマチ養殖の事業化に成功したのが昭和3年のことですから、この頃にはハマチのエサもすでに相当量必要だったのでしょう。

(7月29日)

海岸にイワシの波 引田、煮干し作り最盛期に

 大川郡引田町で煮干し作りが最盛期。海岸のあちこちにゆで上げたカタクチイワシが一面に干され、真夏らしい風景を描いている。ムラをなくすため、1日に2度くらい、おばさんたちがガンジキで手を入れる。沖合のイワシ漁が豊漁の日は、業者は一日中休む間もないくらい忙しい。まず、カタクチイワシを大釜でゆで、一晩乾燥機に入れたあと、木の台の上に敷いた“カヤ”一面に広げ、天日で乾かす。晴天だと一日で干し上がる。出来上がった煮干しは3キロ入りの紙袋に詰め、主に高松、徳島方面へ出荷する。値段は1袋400~700円で昨年並み。引田町には5軒の業者があるが、海が汚れたため良質のイワシが少なくなったという。

 イリコ作りの風景も、新聞記事になるのは引田です。ただし、「海が汚れて良質のイワシが少なくなった」という暗雲も…。ここから、いつ「イリコは伊吹」に局面が変わっていくのか、続報を待ちましょう。

うどん用小麦は米国産が主流

 日本人の食生活に関する評論記事の中に、輸入小麦の話題が載っていました。

(1月18日)

日本人の食生活 「粉食」大きく食い込む 増える米国産小麦輸入

(前略)…ここ数年間に主食用小麦の輸入が激増し、41年度は302万トンと36年度の6割以上も増えた。輸入の大半は米国、カナダで、あとはオーストラリア、アルゼンチンなど。パン用のハード(硬質)系小麦は主としてカナダから、麺類用のソフト(軟質)系小麦は主として米国から入れている。…(以下略)

 全国レベルの輸入小麦の状況として、「麺類用の小麦は主として米国産」とあります。そしてさらに、記事には「カナダ産小麦が米国産にさらにシフトしつつある」とありました。前項でも触れましたが、讃岐うどん界でオーストラリア産のASWが主流になっていくのはもう少し先のことなので、当時の讃岐うどん用の「外国産の白い小麦粉」も米国産が主だったと思われます。

値上げの年、再び

 続いて、この年は再び「値上げラッシュ」がやってきたようで、うどん関連の値上げ記事も2本見つかりました。

(8月27日)

また値上げ 乾麺類、1束(300グラム)当たり4~5円

 食欲の秋を控えて、うどんとそうめんなどの乾麺類が値上げの気配を強めている。…(中略)…県下の乾麺業者は個人企業を含めて約70業者ほどいるが、36業者が加入している県製粉製麺協同組合(景山薫理事長)の話によると、現在の干しうどんはキロ当たり平均、特級品で82円、普通品で72円程度と見られ、これらの製品については300グラムの一束当たり4~5円ぐらい値上がりしそうだと見ている。…(中略)…県下の乾麺業者の年間製造高は約6000トンと言われ、このうち、そうめんや冷や麦に約40%、うどん類に約20%が当てられている。これらの約半分は四国4県内と大阪、東京方面などに出荷されている。(以下略)

 値上げ幅の話はさておき、

・県下の乾麺業者は個人企業を含めて約70業者ほど。
・そのうち、県製粉製麺協同組合に加入しているのは36業者。
・県下の乾麺製造は、そうめんや冷や麦が約40%、うどん類が約20%。

という基礎数字が出てきました。比率の記事は「素麺と冷や麦がそれぞれ40%」ではないかと思いますが、いずれにしろ、当時は乾麺の20%が「うどん」だったとのこと。戦後の昭和20年代から“ヤミ物資”の記事等で「讃岐うどん界は乾麺文化がかなり強かった」という事実がわかりましたが、以後の推移の数字が出てこないので、この「20%」は増えてきたのか、横ばいなのか、減ってきたのか、正確なところはわかりません。しかし、今日の讃岐うどんにおける「乾麺」の量的衰退からすると、ここからどんどん減って行くことは間違いありません。理由はたぶん、半生麺や冷凍うどんや店で食べるうどんの隆盛に駆逐されていったのだと思います。

(10月30日)

うどん玉15円に 高松、観音寺、来月1日から値上げ

 高松市内の八百屋、食料品店などで小売りしているうどん玉が、11月1日から値上がりする。同市内の大手製麺業者の金泉食糧商会、源芳製麺、井筒製麺は、原材料、人件費の高騰と水道料金の値上がりを見越して、うどん卸値を1玉につき2円値上げして12円にすることになった。小売価格は1玉14~15円になる模様。市内には約130のうどん製造業者があるが、大手3業者の値上げにより、他の業者もこれに追随するものと見られている。今回の値上げは2年ぶり。観音寺市内でも11月1日からうどん玉の小売値が1玉現行の12円から15円に値上げされる予定。これは卸値の値上げに伴うもの。

 当時の高松市内の製麺大手として、「金泉食糧商会」「源芳製麺」「井筒製麺」の3社が挙げられています。広告の数ではここに「川福」が入ってきますが、おそらく「川福」はうどん店、「金泉」「源芳」「井筒」はうどん店ではなく製麺会社という位置づけだったと思われます。

香川の観光みやげ(食品)のイチオシは「タイの浜焼き」

 記事の最後は、香川の観光みやげの話。一日一言子が「高松の食べ物のお土産」のおすすめを並べていました。

(4月27日)

コラム「一日一言」

 このほど東京のある料理雑誌からお菓子以外の高松の観光みやげ品(食べ物)についてアンケートが来たが、いろいろ考えた末、タイの浜焼き、サワラのカラスミ、手打ちうどんの玉、しょうゆ豆(缶詰)、さつまあげ(地元では「天ぷら」)などを列記した。このうち、王様格は何と言ってもタイの浜焼きであろう。浜焼きも瀬戸内地方では四季を選ばず売り出されるようになったが、八十八夜を中心とした、いわゆる魚島(うおじま)の頃の旬の味がとどめを刺す。(以下略)

 「王様格」として挙げられたのは「タイの浜焼き」。昭和20年代からここまで、物産展や観光記事の中で郷土料理の筆頭にいつも「タイの浜焼き」が挙げられているのですが、何度も言うまでもなく、今日ではほとんど消えかけています。「タイの浜焼き」というのは鯛を塩の中で蒸し焼きにしたもので、江戸時代に塩田の周辺で作られ始めたと言われる地域料理ですが、ポピュラーな鯛のシンプルな料理ということで、マーケティング的には差別化された付加価値に少々乏しかったのが衰退の大きな原因だったのではないかと思います。ちなみに、文中の「魚島の頃」というのは、瀬戸内海などに鯛が産卵のために集まってくる春の豊漁の時期(魚島時)のこと。「八十八夜」は立春から88日目で、大体5月2日前後になります。

 以上、昭和43年のうどん関連記事でした。では最後に、うどん関連の広告を拾ってみましょう。

うどん店の広告は「うどん坊」と「丸ふく」の2店

S43広告・うどん坊

 まず、高松市民会館西隣に「うどん坊」という店がオープンしました。「マスコットのうどんコーナー」というのがよくわかりませんが、この店、大工町に本社工場を置く「金泉」のうどん店のようです。「手打ちうどんの製造実演」もやっています。ただし、後に讃岐うどんの代名詞にまでのし上がる「うどんの庄 かな泉」の名前はまだ出てきません。ちなみに、前年に広告が出ていた源芳製麺の2階のうどん店の名前が「うどん房」。高松市内の三大大手製麺会社のうちの2社が出したうどん店の名前がいずれも「うどんぼう」なのは、何か申し合わせでもあったのでしょうか(笑)。

S43広告・丸ふく

 続いて、この年も女木島の「丸ふく」の協賛広告が見つかりました。協賛広告はたいてい店の自発的な広告ではなく、広告代理店の営業が無理を言って広告を出してもらっている場合が多いので、営業が「いつも無理ばっかり言うてすんません」と言って頼み込んだのかもしれません(笑)。

製麺会社の広告は「金泉」と「源芳」

S43広告・金泉商会
S43広告・源芳製麺

 続いて製麺会社は、「金泉食糧商会」と「源芳製麺」の2社。あと、「冨田製粉製麺工場」(高松市観光通)が運転手の求人広告を出していました。初任給は30000円~35000円。給与水準はずいぶん上がってきました。

乾麺の広告は「下河製粉」と「日清製粉」

S43広告・下河製粉
S43広告・日清製粉

 続いて、「下河製粉」と「日清製粉」が乾麺の広告を出していました。いずれも冷や麦です。日清製粉は「彼を歓待する方法」「どうぞ、とさし出すあなたの手つきに、にっこりほほえむ彼」と、ずいぶん色っぽいコピーがついています(笑)。

(昭和44年に続く)

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