香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

観音寺市柞田町・昭和7年生まれの女性の証言

戦後の食糧不足時代には、よく家で「切り込み」を作って食べていた

(取材・文: 聞き手:O西由利子)

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  • vol: 166
  • 2016.12.22

※O西ゆりこちゃん(20代のおばあちゃんっ子・笑)が、実のおばあちゃんにインタビューしました。

子供が家の晩ご飯に「切り込み」を作っていた

ばあちゃんが小さい頃は、どんなうどん食べよったん?
 ばあちゃん、小学校の上学年になったら戦争の食糧不足になってな。ほんで観音寺の女学校に行きかけて、その年の8月に終戦になったきん。昭和20年が終戦じゃきんな、ずっと食糧難でな。ほだきん(だから)、「すいとん」いうてな、落とし団子。落とし込み団子を食べよったんやけど。あんなんサラッとしてお腹起きんやろ。ほんで、「切り込み」いうてな、おうどんをちょっとだけ練って、おっきょい(大きい)鍋にダシを炊いて、そこに生のうどんをパラパラッと放り込んで、沸いたらそこに野菜も準備しといて入れて油揚げや何やかい入れてな。今の煮込みうどんを炊く調子で作るん。

 ばあちゃん、学校からもんて(帰って)、親は仕事しよるやろ? ほんだきん学校からもんたらな、ばあちゃんが「今晩切り込みしよかー」いうて、ほんでうどん粉練って、2合なり3合をこやって一生懸命練ってな、こうやって引き延ばしてチョキチョキチョキーって切ってな。

うどんを練って、踏まんと切るん?!
 うん。踏まんし、塩も入れん。お正月とかにするうどんとは違うで。普通のうどんは塩水でな、「温三寒六(うんさんかんろく)」いうて夏は濃い、冬は薄い、そういうのをばあちゃん教えてくれとんやけど、ほんでその割合で塩水で練って踏んでしょうがな(するでしょう)。それとは違うで。細長いおうどんでもなくて、「切り込み」は短い、ちぎれとるみたいな。ほんで子供がしよったんやきん、細にできんで太目なん。

 ほんでみてご(みてごらん)、切ったおうどん、こうパサパサーっと振ってすぐに鍋に入れるきん、まだ粉がついとろがな。ほなきん、汁が粘るんや。それがばあちゃんやは「すいとん」のサラッとしとるんより粘っとる方がお腹が起きるきん言うて喜んで食べよったんやきんど、父さんが「汁が粘るきん嫌や」言うて、ほんでだんだん普通のうどん玉を入れるようになったん。

 ほんだきん、ばあちゃん、子供の時から家の晩ご飯はよう炊っきょった。小学校の上学年になった時はもうしよったんだろかな。学校からもんて、「今日は切り込みしょうか、落とし団子しょうか、ほんだらおかずは何炊こか」いうて、田んぼに行っとる母さんに問いにいって、それから家にもんてしよったんじゃきん。

ふーん。ばあちゃん偉いな。
 親は仕事で忙しきん、何でも子供がせないかんがな。

外でうどんを食べるのは年に数回

店でうどんを食べるのはなかったん?
 外のうどん屋さん? まあお勤めしよる時に「食べに行きますかー?」いうて行くことがあったな。18歳の春に学校を卒業して、お勤めに出て、21の12月に結婚したきん。ほんでも外でうどん食べるんや滅多にないで。この頃みたいに友達と「何食べに行くえー?」じゃのいう時代じゃなかったきんな。家でも何かごとで「ちょっと行くなー?」いうて外に食べに行くのも年にいっぺんあるかないかぐらいやったの。
店の名前とか覚えとん?
 柞田の下野(観音寺市柞田町下野)にな、「まっちゃ」いうて。「まつや」だろと思うんやけど、みんな「まっちゃ、まっちゃ」言いよったん。昔の、あの、家々に置き薬を1年にいっぺんぐらい替えに来る人がちょっと泊まる宿屋をしよったんやがな。そこでな、おうどんをして食べさせてくれよったん。ほんだきん、行くいうたらもうその辺、「まっちゃ」ぐらいやな。ほとんど何かごとの時は皆、家でおうどん作んじょった。

 お正月、お盆、何かごとの時にはいつでも。年末年始もな。年越しの、まあうちはそばも食べよったな。お正月が来たら、お雑煮食べるわな。お年始いうて、親戚の人がこうがな(来るでしょうが)。その時に、お寿司やなにかい(いろいろ)するけど、おうどんは必ずする。

 それから、お祭りじゃーな。百手(ももて)じゃーな。ほいから「半夏(はんげ)」いうてな、半夏生の時はおうどんは必ず。

法事の時は?
 法事は、近い法事はうどんせんの。おうどんはお祝いで親戚が寄る時は全部するけど、死んだらな、えーと…四十九日、1年、3年はおうどんはせんの。7年の法事が来たらおうどんをする。ばあちゃんがここにお嫁に来る前も、実家ではお母さんがそやってしよった。

 結婚式の時のお祝いもな。今頃でも式場で結婚式するやろ? ほんだきんど(だけど)、近い親戚の人はまた一旦家に帰ってこうがな。式場ですぐ「はいさようなら」言うてすぐ解散するところもあるけど、お嫁さんをもろたとこは、親戚の人やご近所も式場にいとろがな(行ってるでしょうが)、その親戚やご近所の人は、式場から一旦家までもんてくる(帰ってくる)きんな。式場でおご馳走食べてもんてくるけど、家でまたおうどん食べてな。「幸せに続きますように」いうておうどんするん。

うどんもおやつも家で自分で作っていた

うどんはばあちゃんが打つん?
 ああ。うちんきは、ばあちゃんがここに嫁に来た頃やったら、植田のおじさんじゃー、おばさんじゃー、三谷じゃー、ヒメヤじゃーて、お正月やきん親戚がこうがな(来るでしょうが)。ほなきん、お寿司やなにかいおご馳走して、ほんで帰り際にはおうどんを食べて帰るきん、朝早うから起きておうどんしよった。

 年寄りばあちゃんがな、「あんたがおうどん上手にしてくれるきんええわー。ヒサノ(姑さん)はなんぼ教えてもけっこできんかってなー。もうあんたがしてくれるきん、私、楽ができるわー」って言いよったん。そう言うきん、もうばあちゃんやお盆やってお正月やって、もうみんなが来る時やか、朝4時から起きてしよった。

 その頃はあんた、何でも家で作んじょったがな。「今日は何それじゃきん、お寿司するか? うどんするか? 赤飯するか?」いうてな。日曜が来たら、おやつも作っじょった。おはぎやら、アメやら。小麦粉を練って型で抜いてドーナツこっさえたり(作ったり)、瓦餅、今で言うたら焼き餅じゃあな。そいなもんこっさえたり。

ばあちゃん、お菓子作るの好きやもんな。
 ばあちゃん、娘の頃は食糧難やったきに、配給でかんころのお粉をくれたらそれで蒸しパンみたいにしてな。空豆を、小豆が少なかった時代じゃきん空豆を沸かして、皮を除けて漉してこしあんみたいにして、砂糖で味付けて、それをあんにしてな。まあ、今で言うあんパンみたいな調子やな。

 はったい粉でアメもこしらえたで。おうどんの棒を柱にくっつけて、それに打ち掛けよった。こうやってな、粘りを付けてアメをこしらえよったん。

ふーん。何かどんな作業か想像できんけど、うどんの話でないきんもうええわ(笑)。

製麺屋ができ始めてから家でうどんを打たなくなった

今はもう家でうどん打っちょらんやろ?
 打たんなー、もう。うどん玉買うてきて、ダシ炊いて食べるぐらいやな。うどんしよった打ち板から何から、もう焼いてしもたきに。
いつ頃からうどん玉を買うようになったん?
 もう、うどん玉が出だしてから(製麺屋ができ始めてから)皆、ほうぼ(あちこち)買いよったやろな。うちは遅まで、ばあちゃん50になるぐらい(昭和57年)まではしよったけどな。それから、十三塚に黒田(製麺屋)ができて、近いきん黒田でうどん玉を買いだしたな。それからあとは、もうええやろ。
はいはい。ありがとうございますー。
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