香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市屋島西町・昭和19年生まれの男性の証言

高松高校の「金時豆の天ぷらうどん」、大学時代は「連絡船うどん」

(取材・文:

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  • vol: 297
  • 2019.11.18

小学生だけで食堂でおうどんを食べて厳重注意を受けた

 昭和19年生まれ。生まれたのは琴平で、育ちが高松。琴平は幼稚園の頃までかな。だから琴平のことはよく覚えてない。ただ、昔で言う「ちょうさ」に乗せられたりね。榎井のちょうさに乗っとった。その頃はけっこう荒いちょうさでね、四隅の柱に帯紐で縛り付けて乗せられとった。落ちたらいかんからね。けっこう荒い。振り回された。今はどんなか知らんよ。なんかそれだけ覚えとるんやな。怖かったんかな? いや~わからん。

 琴平でうどん食べたのはほとんどないね。記憶がない、そこは。

 小学校から高松の築地。新塩屋町小学校行ってたんやけど、築地小学校いうんが戦後、瓦礫の中から生まれて、まだ一番新しい校舎に入ったんやね。ほなから新塩屋町行きよったんやけど、築地校区として離れたん。校区が変わったから。戦後だいぶん経っとるわの、学校行くくらいやけん。僕は生まれたん戦中やろ。戦後もう7、8年は経っとるよね。

 小学校は給食。脱脂粉乳、クジラの肉…僕は脱脂粉乳やクジラの肉や好かんで好かんでいかなんだ。クジラの角煮がようけ出よったよ。何味かな? 「缶詰味」言うたらええかな(笑)。主食はパン。もうパンだけ。コッペパンいうやつ、給食用の。ほなからそういう嫌いなやつ出てきたら、パンに穴掘ってそん中に詰め込んで、鞄の中に入れて持って帰っじょった。

 給食はうどんの覚えはないね。

 うどんや小学校のころはあんまり食べられなんだな。うちく貧乏したけん、ものすご。「おかずは?」言うたら「今日はないよ。さしすせそがあるからそこらので見つくろって」って。砂糖、塩、酢…なんでもええから。それでもあったらええ方。そんなかったからね。うどんや言うたらとんでもない、お祭りくらいや。ご馳走やったよ。お祭りなんかの時と正月。それがだんだん定着してうどんよく食べるようになったんは、高校も入ってからやろ。

 昔の食糧事情からの、おうどんは食べれんでも団子汁いうん作じょった。メリケン粉を練っての、ほんでしゃもじでこう切るんや。そのまましゃもじをお湯ん中入れて離したらすっと流れ込むやろ。チャッチャッチャいうてこうやって。団子汁しよったで。打ち込みうどんと近いやろ。これが讃岐うどんの始まり違うか~と思う。米の代わりにお腹を満たさないかんいうんで団子汁やらはったい粉の練ったやつやら食べさされた。小学校の頃やの、そんな食糧事情やったんで。

 昔はあちこちに食堂いうんがあってね。丼物したり、それにおうどん添えて出したりしよるところ。うちくの近くに「小比賀食堂」いうんがあったんや。そこは今やめとるけどね。そこへね、小学校6年の時、悪ガキ連中で遊ぶ途中で寄ったんよ。それが学校に知れて、先生から厳重注意受けたことがある。「小学生だけで入るな」とか言うて。食堂でおうどん食べたいうんで怒られるん。「買い食いするな」って。なんでかわからなんだけどな~。いかんことやとも思わんで「腹空いたな」て何の気もなしに行った。それで丼物とかそんなんの中におうどんがあった。でもやっぱりうどんがよかったんやろ。

 小比賀食堂は高校生の頃はまだ残っとったと思うけど、行ってないね。うん。小学校の時一回行って、叱られてそのまま。後にも先にもそこ行ったん一回だけ。一回だけそんなことで叱られて、二度としてないで。

 中学校はどっちかいうたらうどんよりね、ようラーメン食べに行きよった。学校の友だちと。家族とは外食は行ってなかったな。僕、光洋中学校やったけどね。小学校と中学校とひっついとる。あそこ松島町になるんかな? 高商のちょっと横の方。今、生徒が少のになって、学校数も減っとるやろ。光洋中学校も今ないね。中学校は弁当ではなかった気がするけど、弁当だったかな?

高松高校の購買部の「金時豆の天ぷらうどん」

 高校時代はもちろん弁当やったんやけどね、高松高校は購買部がおうどんやっとったんよ。確か安うに出しとったと思う。素うどんみたいな簡単なおうどんでね。乗せても天ぷら、あの甘い豆の天ぷら、金時豆の。香川の人って「餡餅雑煮」食べるやろ。だからうどんにその金時豆の甘いんが乗っとってもおいしいんよ、けっこう。天ぷらは別売りやったと思うね。わざわざ言うて出してもらったと思う。昼行ったら混んどるから、3時間目の後、そっと行ってぱっと食べて帰って来る。早弁~。けっこうスリルもあったな。15分くらいでさ~と食べないかんの。その頃からうどん食べだしたな。

 家の食卓で出よったんは生醤油うどん。うどん玉を買って来るん。玉はどこのか覚えてない。醤油は家にあるやつ。たいがい昔はキッコーマンよく使いよったな。今んなってみたら薄口やら濃口やらわからんけど。 

 ダシの温かいおうどんは、家ではめったになかったな。温かいおうどんは正月とか祭りとかね。ああいう何か行事がある時には、ちょいちょいしてくれよったと思うけどね。正月はお雑煮とかおせちがメインやわの。うどんも食べよったと思うけど、いつのタイミングで出てきよったか…それがわからん。

 とにかくお祭りの時はよううどんしよったな。秋やわの。八幡さんの祭りやいうたら、祭りのうちにうどんが出よったいう感じやね。かけのうどんにチクワのひとつぐらい入っとったかの。

 とにかく昔は食に関してが貧相な感じやね。そなにええもん食べたいう気がせん。おうどんが一番ご馳走やったんちがう? でも、昔はもっとおうどん麺の色が濃かったんちがう? 黒かったやろ。今のみたいに白くなかったで。麦の処理が違うんかな? 粉の匂いがして美味しかったで。

郷愁がダシに溶け込む「連絡船うどん」

 そうこうしてるうちに大学で東京に出たから。どうしても東京行きとうて。何かきらびやかな感じしたんやな。今の感じと違うて、滅多に行けないいう感じするでしょ。

 東京はうどん食べる文化がないね。ほなからその頃はもう「うどん結構ええな」と思いよった頃やから、高松出る時、連絡船乗るやろ。それでまず駆け上がるのがブリッジ。後甲板(こうかんぱん)に店開きしとるおうどん屋さんで立ち食いうどんしよった。「連絡船うどん」な。具はわずかやけど乗っとったと思うよ。多分、今のかけうどんぐらいの。なると巻き、かまぼこ? あれが二、三枚乗っとった思う。とにかく素うどんに近かったな。ほなけど「あ~今からうどん食べられんようなる」と思うてね、しみじみ食べたり。今から出て行かないかんのやいうてね、郷愁を感じながら食べる。で、今度向こうから帰ってきた時、一番に駆け込むんもそこ。「やっと帰ってきた~」いうん。岡山の宇野で連絡船乗る時に「あ~これでうどん食べられるぞ」と思て乗り込むやろ。で、混雑してもうわんわんしとるから、もう一番にそこ駆け上がって頼むん。で、それを食べて家帰って来よったの。値段は全然覚えてない。でも僕の小遣いくらいで食べられるんやけん、大した値段ではなかったと思う。

 こないだまで、「連絡船うどん」いうんがJR高松駅の横にあったやろ? エースワンっていうスーパーとの間。あれがまたスーパー共々新しく開発し直す言うて、今なくなっとる。昨日行って見たら無しなっとった。また出すんやろけどね。あれ、「連絡船うどん」いうんはあの船ん中の、あの後ろ甲板で高松離れる時に高松の方に背を向けてな、ずっと食べながら行くんでよかったんや。今度帰って来たら帰って来たでね、もう安心感。「これ渡ったら高松着く」そいな気持ちで行きよったからよかったんや。駅の横の店では雰囲気とか自分の気持ちとかが溶け込んでないから、「ダシが少ない」という感じ。気分のダシ、そういうダシが出てないね。「今から東京行く!」とか「帰って来た~」とかね、その気持ちが折り重なっとるから、そのおうどんに味がひとつ余計に加わる感じだったんや。

「きつね」と「ざる」で店の腕がわかる

 東京ではもっぱら日本蕎麦かラーメン。中でもラーメンが一番やったね。東京では美味しいラーメンが食べられた。中華やから量があるんね。若い時の食はラーメンの方がメインだったね。でも、今考えると麺類の中ではおうどんが一番安いね。どこへ旅行してでもお蕎麦、日本蕎麦がまず高い。やっぱり700円前後。中間としてはラーメン。だいたい安ても500~600円やろ。おうどんやったら100円からある。今の値段でね。昔の金額はよく覚えてないけど、比率はそんな感じやな。

 香川はね、食堂でおうどん食べられるし、それから喫茶店でおうどん出すとこあったやろ? 喫茶寄っじょったんは高校の学校帰りやけど、そん中でも美味しかったんは「AZUMAYA」さん。あすこのはかけにもいろいろ入っとったと思うよ。レモンの皮かなんかがちょこっと入っとる、柑橘類がちょこっと匂い取りか…レモンじゃないな、あれ。ユズ? ユズの皮をちょっとスライスして、ちょこっと入れとる。爪切ったみたいな切れ端を。で、東京行って「喫茶でおうどん出しよる」いうたら、不思議がられる。「へ~」言うてな。

 就職は1年目は東京でした。でも香川に呼び戻された。香川で社会人になったらもう、お昼はすべておうどん。弁当はほとんど持って行ってないからね。会社の近回りのおうどん屋さん。行く場所はだいたい決まっとる。いつも流行っとったとこは「うどん市場めんくい」。塩屋町の交番の先にあったんや。もう長いんちゃう? 僕が会社勤めよって、しばらくしてここ行きだしたんや。僕はたいてい肉うどん頼みよった。そんな上等な肉ではなかったと思うけど、いっぱい入ってるんや。僕は甘辛い、どっちかって言うたらちょっと甘めのおうどんのダシが好きなんや。肉はほら、甘辛く煮とる。それ入れるやろ。けっこうダシが最後まで美味しいてね。だからたいてい肉うどん食べよった。

 今は嗜好が変わって、きつねうどんになっとる。きつねうどん食べたら、そこの味付けが上手か下手かわかるような気がするんで。きつねうどんが美味しいとこは他のも美味しい。きつねの炊き方やな。ダシの取り方。うどんが多少器量が悪うても、ダシでもっとるとこもあるしな。

 それとか「ざる」ね。本当のざる出すとこが美味しいね。忙しい時は湯がいたやつを一玉一玉わけてセイロに置いとるやろ。ざる頼んだらそれを水でさばいて、ポンと乗せて出してくるところはまずいね。うん、釜揚げをすぐ冷水で洗うて、ほんで盛ってくれたやつはすべりがいい。食べてわかる。

 うどん屋は体力やね。立ちっぱなしの作業やろ。大変やろうな。ラーメン、日本蕎麦みたいに値段が取れんのね。香川県なんかでは絶対。そう思う。サラリーマンが毎日食べても別に懐具合にこたえるゆうわけでないもんね。だけどラーメンや日本蕎麦なんかは毎日行くと小遣いが足らなくなる。

 今はね。人が来たら連れて行くんは「郷屋敷」。「わ~、こんな立派なとこ連れて来てくれてありがとう」とか言われる。家族でちょっと美味しいおうどん食べようかいうたら「山田家」行って。あそこの麺はできたて。いつも混んどるからね。いつもできたて。釜揚げも。湯だめと釜揚げの差がわからん人がおるやろ。おうどん屋さんでも釜揚げ頼んだら、なんか茹で汁に玉入れて出してきただけじゃないかな~と思うようなんがある。こうツルッといかんのね。引っかかるん。一回玉にして表面が乾燥したやつは、元に戻らんの。あの、ざるにしてもそう。「ざる、釜揚げ」言うからにはね、釜からザアッと入ったところで、ちょっとぬめりがあるやろ。まわりがちょっとふわぁとしとる。あれがええんや。

 うどん一回打ったことあるけどね。友達に教えてもろて。水180ccに塩が何グラムとか言うて教わったことあるけど。それで手でこねる時いうたら、ほら、陶芸の菊練り(きくねり)とよう似とるね。菊練りしたらええんや。机の上で。この頃ビニールの中で振るやり方があるみたいなん。最初水と粉から全部入れて、ビニール袋でこう振って、それで外から押し込んでいくん、練って。そら衛生の問題かなんか知らんけどね。うどん打ったんはまだ会社に行きよった頃やわ。やっぱり自分で打ったら美味しいと思うの。できたては美味しいの。でも小さい時は家で打ったりはなかったな。

●編集部より…「高松高校購買部のうどん」の話が出てきました。証言を頂いた方の年齢からすると、おそらく昭和30年代初頭に高松高校の購買部でかけうどんと金時豆の天ぷらが出ていたという記憶です。高松高校のうどんに関する最も古い証言は、昭和11年生まれの男性による「昭和31年まで、校舎の中庭に“うどん小屋”みたいな建物があって、そこでネギとカツオ節だけが乗った素うどんを売っていた」という話(vol.51参照)ですが、昭和30年代の高校の食堂のうどんはこれまで高松高校の話しか出てきていませんので、ライターの皆さん、ぜひ他の高校の当時のうどんの話の発掘をよろしくお願いします(笑)。加えて、「『連絡船うどん』には“気分のダシ”が入っていた」という言葉も頂きました。昨今の讃岐うどんの“無機質化”に対する警鐘として、店も客も今こそ心に留めておきたい名言です。

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