香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市天神前(現・中央町)・昭和11年生まれの男性の証言

昭和30年前後、高松高校の中庭にうどん屋さんがあった

(取材・文:

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  • vol: 51
  • 2015.07.13

昭和30年前後、高松高校の中庭にうどん屋さんがあった

いつ頃からうどんを食べていましたか?
出身は高松なんだけど、生まれは外地なんです。引き揚げで昭和21年、10歳の時に帰ってきました。20年が終戦でしょう。その頃はうどんどころじゃない。全般的に食糧が不足しているときだから、うどんなんて食べてない。サツマイモとかね。今からだったら想像がつかないくらい食糧が不足していた時代です。うどんを食べ始めたのはいつか、どうもはっきりしないんだけどね。昔は田舎の方で、お祭りだとか法事だとか、なんかあったときには家で手打ちしてたんじゃないかと思うんだけどね。そういううどんはあったと思うんですよ。
旧市内は農家がないからお祭りや法事にうどんを食べる習慣がないような気がします。
そうかもしれないね。田舎の方では自分の家で打ってたと思う。打ち込みうどんとかね。色がついた揚げもんだとかお寿司だとか。それはあったと思うけど、僕がうどんを食べるようになったのはいつだろうかと記憶を辿ってみたところ、高校の中にうどん屋さんがあったことを思い出しました。高松高校です。場所は今と同じ。今はすっかりなくなっているけど、当時は校舎がロの字型だったんです。鉄筋だったから焼け残った校舎。4階建ての校舎だったと思います。ロの字だから真ん中が空いている、中庭のような場所。そこに小屋があってね。そこでうどん、要するに素うどんを売っていた。
それは学食ということですか?
学食と言えるかどうかね。僕たちはそれをしょっちゅう食べに行ったかというとそうではなく、昼は弁当を持って行った。だから、部活の後に食べたという記憶はあります。僕は昭和31年の卒業で、そのうどん小屋は入学して卒業するまであったと思います。部活の帰りに先輩なんかにおごってもらったりして食べたのはよく記憶しています。長くあったと思いますよ。それがいくらだったのか、非常に記憶が曖昧なんです。10円だったかなと思ったり、10円もしなかったのかなと思ったり。7円だったか8円だったのか・・・。僕の記憶の中では10円だったような気がするんだけど、素うどんですから。お店におばさんがいて、僕の同級生のお袋さんなんかもいたと思うんだけど、ザルに温めて、今と一緒。トッピングなんかはなかったよ。ネギと鰹節はあった。カマボコはなかったね。ダシはいりこだったんじゃないかな。
祭りの露店みたいな作りだったんですか?
いや違う。バラックだけども木造の建物だった。おばさんが2~3人いたと思う。うどんはおそらく製麺所から買っていたんじゃないかな。そこで打ってはいなかった。いつ頃まであったかはわからない。中にうどんを食べる場所もあった。そんなに広くはないよ。看板はなかったなぁ。パンも売ってたりしたのかな。僕はうどんしか記憶がない。

戦後から高校入学までにうどんを食べたとしたら紺屋町の「あずまや」

それがいちばん古いうどんの記憶ですか?
それは高校の時のことでね。戦後、高校に入る昭和26年までは、うどん屋っていうのはね・・・。今でいう紺屋町かな。あそこに「あずまや」があったんです。うどんとぜんざいがあった。我々の時代にうどんってゆったら「あずまや」くらいの記憶しかない。今みたいにうどん屋や製麺所がいっぱいあってということはなかったと思う。ただね、大学の時かな、もっと後かな・・・帰省したとき、実家で、中野町辺りのうどん屋さんで、スノコみたいなのを敷いてる、蒸籠っていうのかな、それで買ってきたり、鍋を持って買いに行ってたような気がする。僕じゃないけど、家族がね。それがいつ頃だったかな。だけど社会人になっては滅多に帰ってこなかったから、たぶん大学時代だったと思うけどどうだったか。
製麺所に鍋を持って行くんですか?
そう、鍋を持ってうどん玉を買いに行く。入れ物としての鍋。今でもその製麺所は中野町にあるらしい。名前は松下だったかな。僕は行ったことないけど、親か兄嫁が買いに行ってた。だけど、田舎と違って祭りや法事だからといってうどんを食べた記憶はないなぁ。

昭和50年頃、仙台で食べたエセ“讃岐うどん”の思い出

では、ご実家は農家じゃなかったから子ども時代に親が打っていたということはないんですね。
まったくない。だから高校入るまでにうどんを食べた記憶がないんです。ひょっとあるとすると、「あずまや」で食べたかなと思う。その頃、うどんはあまり流通してなかったんじゃないかな。戦後10年くらいは小麦粉を大量に手に入れること自体がどうだったのかなという気がする。食糧難の時代だったからね。もちろんスーパーなんかあった時代じゃないからね。パンもなかったんだから。
僕は小学校から高校まで弁当だった。今の学食みたいにランチがあってという時代じゃないから。商店でうどん玉が売られるようになったのは、僕が大学で東京へ出た後からじゃないかな。だから、うどんの思い出は、高校は学校のうどん屋。それから東京ではうどんとは全く無縁。ラーメンやそば、鴨南蛮はあったけどね。うどんは香川県以外では無名だったと思うよ。ただ、帰省したときはうどんを食べた記憶がある。でもあんまり定かな記憶じゃないですね。
それでね、就職をして社会人になって、広島に13年いて、昭和49年に仙台に転勤したんです。その仙台時代に香川県人会というのがあったんです。仙台の駅前のビルに「讃岐うどん」という看板が立っている店。そこで香川県人会があったので行ったんです。昭和50年頃かな。讃岐うどんのところでやるというので楽しみに行ったんです。うどんだけ食うわけじゃないから、飲んで、うどんが出たんだけども、それを食べてみんなが首をかしげて「ん?」となった。これ讃岐うどんじゃないよな、と。まずいと言うよりも、讃岐うどんとは言えないんじゃないかな、と。コシがないし、僕が思っている讃岐うどんじゃないので店主にどこの出身ですかと聞いたわけです。そしたら名古屋の出身ですと言われた。そうかといって、きしめんに近いかと言えばそうでもなかった。
高校時代に食べていたし、帰省した時にも食べていたから舌が肥えていたんですね。
そうかもしれないね。就職してから広島にいた頃は、うどんはあったんだろうけどあんまり印象に残ってないな。その後、東北時代に時々帰ってきたときに食べたうどんは本当に旨かった。昭和50年代の話だね。県庁の裏の辺りで食べていた。セルフじゃなかったね。松縄に美味しい店があると聞いて行ったりしたなぁ。あの頃は感動していたけど、今はそれほど感動しないね。
おいしさに馴れたんじゃないんですか。
どうかな。僕は並ぶのが嫌いだからね、山越とか善通寺の宮武とか行ったことがない。東京から人が来たらやむなく山田家へ行きます。わら家じゃなくて山田家。わら家は、たらいうどんみたいなやつでしょう。東京の人は天ザルとかを食いたがるからね。うどんのエピソードと言えば、そんな感じだね。
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