香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市中山町・昭和18年生まれの女性の証言

“お客”の日、うどん生地の“足踏み”は子どもたちの楽しいお手伝いだった

(取材・文:

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  • vol: 50
  • 2015.07.13

“お客”の日、うどん生地の“足踏み”は子どもたちの楽しいお手伝いだった

物心ついてからうどんを食べた記憶についてお聞かせください。
 父が家でうどんを打っていました。お祭りとか法事とか何かがあるとき、昔はよく“お客”と言って親戚が集まっていて、母の実家へ行ったり、うちへ親戚が来たり、子どもも集まるから、それは楽しみでした。お兄さんやお姉さんや、年上や年下や、みんなで一緒に遊んだ思い出があります。それが、私が幼稚園から小学生頃のことだったと思います。
お客さんが来るゆうたら、打ち込みうどんしたり、団子汁したり。それとうちはニワトリを飼ってたから、土間にニワトリを吊っていたら「お客さんが来るんやな」と思いました。実家は農家、果樹園で、ビワやリンゴやミカンなどをたくさん作っていましたが、父は器用な人で、なんかあるとうどんを打っていましたね。
お母さんじゃなくて、お父さんが打つんですね。
 そう。で、料理を作るのはお母さんやお姉さんや近所の女衆。酢の物とか刺身とか天ぷらね。うどんづくりは力が要るからかお父さんでした。私たち子どもは父がうどんを作るのを手伝っていました。父がうどん粉でお団子を作ってね、それを子どもたちが踏むんですよ。大きなまな板の上で。6つくらいうどん粉のお団子を並べてゴザ敷いて、私たち子どもが上を歩く。それがもう、とても楽しいの。
で、お父さんがそれを丸く延ばして広げて編んだようにしてトントントントンと切って、“もろぶた”の上に並べて置くんです。“もろぶた”は、お餅屋さんなんかにある木で作った容器ね。それにうどんを縦に短冊に並べて置いていく。それから竈(かまど)でお姉さんたちがどんどん火を焚いて、大きな釜で湯がいて、麺棒みたいなのでうどんを出してはザルに乗せて。その光景ははっきり覚えています。小さい頃からずっとそれをしていたから。それに大勢が集まるから印象に残っている。
道具は全部とにかく大きかった。実家には広い土間があって、そこにお米を打つ臼やいろんな道具が置いてあった。縄を綯う機械があったりとかね。時期が来たら、ヒヨコを孵すものがあったり。遊ぶ物がいっぱいあったんですよ。

お客さんに出せない短い端っこの麺は、家族で「延ばし汁」にして食べる

お父さんが打ったうどんはどのように食べていたんですか?
 できたらすぐ丼に入れて、生醤油をかけて食べたり。今だったらぶっかけの温かいというのかな。それとか湯だめとか、ほとんどできだてを食べてたね。作っているときにつまみ食いみたいにして食べてた。お客さんに出すのはかけかしっぽく。しっぽくは、かけうどんと同じダシで具が多い。しっぽくの具は、お揚げ、天ぷら・・・平天を細く切って、人参、大根、里芋。季節にもよるけどだいたいそんな具かな。当時はね、秋祭りとか法事は、寿司にうどんに酢の物にレンコンとかの天ぷら。赤、黄、緑の色粉を入れた揚げもんって決まってました。
赤や緑の揚げもんもあったんですか!?
 あったよ。黄色が芋系で、赤がなんだったかな。だいたい決まってたような気がする。よう集まってた。お祭りとか法事とかなんかの集まり。みんなが集まってきて、近所の人も集まってきた。女の人は料理を作る。男の人はその辺を片付けたりして。お酒とね。最後にはうどんとお寿司が出るわね。
それと、キレイなうどんじゃなくて、小さい端っことか残るでしょ。そんなお客さんには出せない短いうどんは「延ばし汁」ゆうて、明くる朝ご飯の味噌汁の中に入れたり、お揚げとか天ぷらとかと一緒に大きい鉄鍋に入れて延ばし汁にして食べる。それがまたものすごく美味しいんです。

冬場は鶏肉と野菜で水炊きにして、締めに手打ちうどん

ニワトリはどうやって食べるんですか? うどんの具にするんですか?
 ニワトリは水炊きにする。大きなお鍋の中に入れて、ニワトリと野菜を入れて、最後におうどん入れるんですよ。それはたいてい冬やわね。真ん中に七輪をもってきて大きなお鍋を置いて、炊いて、団子汁にしたりとかも。締めにうどんやわね。それは法事とかではなくて、みんなが寄ったときやわね。鶏卵用のニワトリを食べるから、若鶏じゃなくて親鳥になるわね。年寄りから順番に絞めるの。お客のときにはたいてい2羽ずつ絞めて食べてたわ。ずっと忘れていたのに、話していると恥ずかしいくらい昔のことをいろいろと思い出すものね。
子どもの頃、外へうどんを食べに行くということはなかったんですか?
 それはないね。家で打たなくなってから・・・あ、そう言えば製麺所に頼んでいたわ。ザルか蒸籠に何個とか買ってたわ。私がいくつくらいのことかしら。嫁ぐ前やろうね、子どもの頃の記憶は父が打ってたから。高校生くらいだったかな。「南原」っていう製麺所があった。ウッチャンナンチャンのナンチャンの実家の近く。南原姓は多いけど、その製麺所はナンチャンとは関係ない。そこは今もあるような気がする。最近、私は全然行ってないけど。値段は覚えてないわぁ。私は買いにいってないから。家族が買ってきたと思う。
そこが中山町界隈ではいちばん古い製麺所ですか?
 一番古いかどうかはわからないけど、もう1軒あったような気がする。もう1軒の名前は・・・覚えていないけど、2軒くらいはあった。だんだんお父さんが年いってくるから、買うようになった。私はお父さんの遅い子やから、高校生になったらお父さんはもう打ってなかったと思う。
普段はうどんを食べてなかったんですか?
 普通の日はあんまりうどんは食べてなかった。人が来たり、なんかあるゆうたらうどんを打ってた。普通のときは、「ちょっと延ばし汁しようか」ってお父さんがゆうて、ちゃちゃちゃっと作って食べることはあった。お客さんがくるとなったら大きな玉を何個も作るけど、家族だけなら1つくらい。

5歳上と10歳上の姉たちは父のうどんづくりを伝授

高校の頃や就職してから帰りにうどんを食べて帰るということはなかったですか?
 高校は明善、今の英明ね。バスで通っていました。当時はバスが全盛期で、いっぱいバスが走ってた。
高校を出てからは五番町の幼稚園に就職しました。幼稚園が済んだら夜は瓦町の洋裁学校に通ってた。お腹は空くけど外でご飯食べるということはなかった。よう行かんかったんよ。今でも独りでうどん屋へ入るのは抵抗がある。洋裁学校の友達と学校近くでたこ焼きを買って食べた記憶はあるけど、外食をした記憶は一切ないわね。うどん屋さんはあったかなぁ。バス停にお菓子屋さんやパン屋さんはあったけど。今でも下笠居の辺りはうどん屋さんはないね。銀行もないし病院もないって同級生が嘆いてたわ。
ご自身はうどんを打ったりはしないんですか?
 5つ上と10上の姉たちは父のうどんづくりを伝授されてるんですよ。うどんでもそばでも、全部できる。うどんの粉と塩加減と水加減は夏と冬とでは違うんです。それをお姉さんたちはできるんです。私は昭和42年に24歳で結婚したんですけど、その当初はお姉さんに分量を教えてもらってちょっとしてたけど、お兄さんやお姉さんが「今日うどん打ったから取りにおいで」とか言ってくれて、夫婦ふたりだったし、やっぱり作るより早いから、つい自分ではしなくなった。お姉さんたちは親がおるところに嫁いだから、ちゃんと自分でうどんづくりができるけど、私はそこまでしなくてもよかったんですね。主人の本家は番町にあるけど、居を構えたのはここ(中央町)。農家じゃないから、実家とは全然違いましたね。

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