香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市屋島西町・昭和5年生まれの男性の証言

戦前の屋島の遍路宿で、手回し式の製麺機で作ったうどんが出ていた

(取材・文:

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  • vol: 177
  • 2017.02.13

屋島の浦生の最初の製麺屋は森さん

 屋島西町の出身いうても、浦生(うろ)の方。マンションがよっけ建っとるエリアやのうて、やしま第一健康ランドを北に進んだ、古くから人が住んどるとこな。今では考えられんかも知れんけど、昔の浦生はそれはそれは栄えとったで。あの辺りは製塩業が盛んやったけん、塩を運び出す港もあってな。働いとる人が大勢おった。

 だから店も商店や醤油屋、米屋と色々あって、中でも酒屋は結構あった。働いとった人間が酒が好きやったゆうんもあったけど、実は浦生は水が良うてな。村井戸が6つか7つほどあったんや。その水を使って酒屋も酒を仕込んどったんやけど、井戸によって水の味も微妙に違った。当然、酒屋で売っとる酒の飲み口も変わるから、それぞれに味を贔屓にしている客がおったり、日によって立ち飲み先を変える客もおったりしとったから、かなり繁盛しとったで。うちの親父もその一人やった。

 でも、親父は塩の関係の仕事をしよったんとちゃう。屋島の北嶺で石を掘っとった。洞窟んとこな。あの洞窟は石を掘ってできたもんや。採れた石は豊島石ゆう粗い目の石で、たわしを掛けたらボロボロ崩れるようなやつなんやけど、水はけがエエから、家の束石とかおくどさんとか、灯籠とかに使われとった。

 うちの家は先祖代々、屋島の洞窟でその豊島石を掘り出しとった。父が最後の代の職人になったんやけど、それは石がのう(なく)なったんやのうて、石を納めとった問屋が戦争で店を畳んだからや。最後に洞窟で石を切り出したんは昭和16年(1941年)の2月。それはハッキリ憶えとる。

 ほいで、うどんの話になるんやけど、戦前に浦生でうどんを食べさせてくれる店はなかった。商店でうどんの玉は売られとったけど、その玉は商店で作っとったもんやない。浦生以外の場所にある製麺所が商店に納めとったもんや。

 浦生に初めて製麺所ができたんは、戦後しばらくして。戦前、栗林公園の辺りで旨い夜鳴きうどんを食べさせて結構評判やった人の息子さんが、浦生に引っ込んで店を始めた。名前は森さんゆう人やったかな。店では食べることができんかったけど、麺を売り歩いとった。

戦前の遍路宿で、手回し式の製麺機で作ったうどんが出ていた

 浦生ではないけど、隣町の屋島東町の壇ノ浦には戦前からうどんを食べさせとった店があった。それは、おばさんが商売しとった遍路宿や。四国八十八ヶ所85番札所の八栗寺に向かう古い遍路道沿いにあって、84番札所の屋島寺(標高約300メートル)から東へと降りる坂の途中にあった。宿泊せん(しない)遍路客や一般の人もうどんを食べられたんやけど、うどんの値段がなんぼやったかは憶えとらん。

 麺はおばさんが自分で作っとった。たまに遊びに行ったら生地を打っていたり、手回しのローラーで生地を押し出して麺にしている姿を見たことがある。ローラーを手回しするのを子供の頃に自分も手伝ったことがあるで。幅50センチくらいの大きさの機械にローラーが2つあって、そのローラーが噛み合って麺が出てくるんやけど、ええ加減、出てきたらハサミで切るんや。今でいうたら、スパゲッティの麺を作るような機械に似とったかな。

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