香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市香川町東谷・昭和10年生まれの女性の証言

消え行くホタルの里の雑貨屋うどん(雑貨屋「青木商店」の女将さんのお話)

(取材・文:

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  • vol: 176
  • 2017.02.09

最初はうどん玉の仕入れ販売、それから自分で打ち始めた

 今はもうなくなったんやけど、近所にあった農協の職員さんが毎日昼ごはんにうちの雑貨屋にうどん玉を買いに来てくれよったんよ。その頃は香川町川東の「ヨシモト」といううどん屋さんが、セイロでうちにうどん玉を配達してくれよった。注文があったら一日にセイロが5つも6つも来よったけど、常には3つくらいだったかなあ。

 それが後に、ヨシモトさんが病気になって持って来られんようになったんや。ほいでもう、その人亡くなってしもうたん。そしたら、農協の人らが「昼ごはんがなしんなったらお弁当もってこないかんし困る」言うんで、そしたら農協さんが食べるくらい私が作ってみようかって、自己流で私がうどんを打ち始めたんよ。農協の人らいうてもいつも来てたのは3人くらいやけん、食べる量もしれとるし、農協さんの分だけぐらい揃うと思うての。踏むんはできんわと思うたけど。

女将さんが店の奥をがさごそと探して、取り出してきた大きな打ち台。裏に昭和54年10月と日付けが書いてありました。

女将さんが店の奥をがさごそと探して、取り出してきた大きな打ち台。裏に昭和54年10月と日付けが書いてありました。

 ここらの人が、仕入れた玉のうどんを買いだしたんは最近いうんかな。それまでは、自分とこで法事とかなんとかがあるやろ、ほいでその時には近所の人が寄ってきてな、表や角へゴトクさん据えて、平口の大きい鍋をして。近所には割り木くれるおっさんがおるし、うどんを打つ人がおりしてな、そなしてみんなもう家でうどん作んりょった。ほんで、でけたら塩梅(あんばい)じゃゆうて、その作っりょる人らが先に食べてお腹おこす(いっぱいにする)ようにしよったんよ。みんな作りよった。ここらの人男の人も女の人も。それを子供の時から見よう見まねいうかな。ほいで自分でうどん打ちをやってみたらま、ちょっとできた。

 これがな、初めて私が作りだした時にな、大工の知った人に作ってもろうた打ち台や。これはちっこい分で、その次はがいに売れかけてから、もうひとつ大きいんを作ったんや。伸ばし棒はな、最初は水道のホースの固いんがあるやろ? 黒いんの固いん。いがまん(曲がらない)ような。そのぶんを切ってな、ほいでやりよった(笑)。

麺を切る時に定規代わりに使っていた「ヒノキのひき屑」の使い方を実演してくれる女将さん。

麺を切る時に定規代わりに使っていた「ヒノキのひき屑」の使い方を実演してくれる女将さん。

 今はみんなこんなん(裁断機みたいな麺切り器)で切っりょるやろ? あの切るんはうちくはなかった。麺切り包丁にヒノキのひき屑みたいなん当てて、ほんでこうやって(定規みたいに当てて)切っとった。こうやったら、そのやり方でくっくっとこう、下がっていくからおんなし(同じ)太さが取れるんの。これのこう、間隔でな。この動かし方でちょっと太うにしようと思うたら、がいにこうやったらその板が進んでいっきょった。(木の塊を出してきて)これがそうや。これ、こっち側をこうやってな。ほいで、こうして…これをこう当てて包丁でこうやって、こうやったら、これが下がっていっきょんな。私の親もおなし様にしよった。ほいでそれをみてマネした。これヒノキやと思うで。

そばも自分で打ち始める

 ほいでうどんをしょったら、みんなが「そばも作ったらええやろ」って。ほんだらって、またそばも自分で研究しもってやった。短こうにちぎれたり、いろいろになるんをの。「塩加減がどんなんかいの」、「これ、きつすぎたけん、ちぎれたんかいの」とかいうたりしたな。そばは踏んで置いとったら風邪ひくん。そんなから、ナイロンで包んで毛布のきれいなんかぶせて寝かっしょった。ほいで何回も何回も踏んで鍛えるから、みんながおいしいおいしい言うてくれて。

 TVで100%そば粉とかいうん言いよるやろ。ニハチじゃなんや言わずにな。うちもうどん粉よりはそば粉の方をよけ入れて、打ちたてあげよったんや。それにな、生地に長芋も入れよったんやで。

 途中までは全部手であれしよった。前の晩に夜中に踏んで、ナイロンの袋に入れてダンゴにして置いといて、やお(柔らか)過ぎたらまた切った時にくっつくし、固くしようと思ったら今度延ばす時が延びんで。けど最後に機械も買うたん。うどん屋さんを辞めた人がおったから。ほいで古い練る機械と切る機械を買うた。切る機械はローラーでしゅーと下へおりてって、またたとんで(畳んで)入れて、最後の方はその機械使うとるわ。

店内に残っていた帳簿には凄い数の注文数が記録されていました。

店内に残っていた帳簿には凄い数の注文数が記録されていました。

 そばもうどんもいつ頃までしょったか忘れたわ(笑)。何年の暮れ、大晦日かな。あの頃や私、二晩くらい寝んと作んりょった。もう十年くらいはしてないような気する。わからんけど…(帳簿をめくりながら)ほっとるのぉこれ。辞めたんはな、もう家もぼろぼろんなってな。「こんなとこで作っとんか」いうてみんなが見たら好かんわと思うようになったし、それと、もう自分が手とか肘が体の方々がしんどうなってきた。もううどん玉売ってくれるとこもないから、辞めた後はそれっきりやな。そいで、香川町にスーパーがいっぱいできたやろ。もう、うち来よったお得意さんはもうそっちへ行ってしもた。

 ああ、帳簿にいろいろ書いてあったわ。これは平成14年にそばが420玉。これは12月の年越しや。15年と16年もまだしとるの。16年はそば300玉、ちょっと少のうなっとるの。17年はないから、17年でやめたんやな。

半夏に食べるタケノコうどんはごちそうだった

−−法事の時とか以外で、うどん食べるような機会はありましたか?

 7月2日に半夏とかいうんがあって、あの時はもう絶対みんな家族でうどん打ちよった。半夏のうどんはな、冷とうにして食べよったんよ。ダシはタケノコの炒ったやつで。「丘の肉」じゃ言うてタケノコを獲ってきて薄ーくして、それと煮干しとのダシを上にかけて食べる。その頃は水道やないけん、井戸水で冷とうにさして。

 タケノコが生えるとイノシシが来て掘ってしまうん。イノシシは土から上に出たんは食べんの。出る前のを掘ってな。おっきな穴あけて、固いとこ掘って食べとる。今でもイノシシは来よるな。

 今頃はもうそんなないけど、昔は半夏や言うたら朝は田んぼ行って、草取りとかそんなんしょって、家にはおじいさんやらうどんする人だけが残ってうどんしとって、ほんでお昼に帰ったら、「ああ、もう珍しいうどんが食べられる」(笑)。当時のそばと半夏のうどん言うたらごちそうやわあ。法事の時はかけでなくて、つけて食べよった。「うどんちょく(猪口)」いう大きいんがあって、それにこう入れて。

 私やが子供の頃は、ドジョウうどんもしよった。ドジョウ汁っちゅう(言い)よったな。ドジョウは川で獲んりょった。ウナギまでおったんや。ほいと、毛が生えた黒いカニ。これくらいのツガニ。こっち来てからもしたことあるけど、ドジョウそのもんがおらんようになったん。

 ドジョウは十川東町のスーパーでも売りよった。お椀で一斗缶におるんをすくってくれるんや。「あんなんで何匹かわかるんかいの」と思うてな(笑)。買うてきてうちも食べたことある。地域で寄り合いみたいなんがあった時な、「ちょっとほんだらドジョウ汁でもする?」って言うてな。味つけはドジョウのダシと味噌や。それにゴボウをよっけ刻んで切り込んでな。ほいとネギと。ドジョウはおいしいけど、気持ち悪いで(笑)。外国のドジョウは余計骨がこつこつするとかいうての。地のもんはそれが柔らかいんな。

実は材料にもこだわっていた

 ひがしだん(東谷)は全部農家やから、昔は家で作っとった小麦を川東のつくとこに持って行ったら、こ(粉)にしてくれよった。うどんを作り始めてからは、みんながおいしおいし言うてくれるけに、小麦粉にもうどん粉にも凝ってな(笑)。いろいろあるんよ。「ボタン」じゃ「すずらん」やあるん。うちは「白椿」。一番ええやつや(笑)。

 お砂糖の配達しよった「オオタサトウテン(おそらく朝日町の株式会社太田商店)」が、うどん粉みたいなんもほうぼうへ配達しよった。今はあずきとか、ナニもしよるはずや。そこで一番ええのを持ってきてもろた。白椿を知っとる人は「白椿だったらもう腕が痛いやろ」言うて。かとうに(固く)して、それを何回も何回も踏んでしたらな、みんながおいしいおいしいいうて。粉はいろいろ試してみたな(笑)。

 使う水はみんな井戸水。製麺は店の奥やなくて住居の方でやっりょった。ほんとは水道でせななんだら許可が通らんのやけど、私はもう井戸水。井戸水も冷たいけん。ほんでうちは、盆正月に主人の兄弟やみんな寄るんよ。寄った時にうどんのダシ作っとったら、「このダシはおいしい」って言うな。何が違うんかいうたら、煮干しもなんぼでも違わんし、「ほんなら水が違うんじゃわー」言うて。

ホタルの里も今は昔…

 都会に嫁に出とる人がこの前も来てな、こやって(こうやって)見て「うわー変わっとらんのー」言うて(笑)。この店は私で四代目。百年と言わんな。私が来た頃はいろんなもん売りよったんで。昔はもうずーっと(商品で)いっぱいな、店内回れよった(現在は商品以外のいろいろな物が通路をふさいでしまっています)。ほいで、お醤油にしても塩にしても、お菓子やって全部ビン入りで、紙の袋に何個いうて入れて、せんべいまでそうやって入れてあげよったやろ。「お醤油いた(下さい)」言うて一升瓶持ってきたらな、四斗樽にホースがいっとんをな、こうやったらジャッと出てくるん。出てこななんだら、こう、吸わないかん(笑)。醤油は一宮の「ヒロセ醤油」、それから「ツクモ」ゆんはなかったかいの。なんかそんな昔の。「ヒシモ醤油」ゆんがあったわ。長尾の方かどっか。(※高松市一宮町の広瀬醤油。ツクモ醤油、ヒシモ醤油は不明)

 しゃけどいつまで…もうぼかぼかいいよるけにぼかぼか言い出した(笑)。主人が82で私が80なんや。ほいで14年くらい前に主人が軽い脳梗塞になってな。頭の方はしっかりしとんやけど、右が全然。しゃけん、ほんまにいつもうここ畳むか、たとむ(畳む)前に家の方がなくなるわ(笑)。そこ(店の前)、カタンカタン言いよるやろ。川の拡張工事をしよん。ほいでな、隣とうちとここと、あの前の家の2階建て、その横の人も全部これ立退きになってしまうんよ。道路がここくらいまで来るん。川の広さを何メーターかとるん。向こうに川は広げんの。ここくらいまでが道になるんや。

 もう立ち退かないかんわ言うけん、滅びさしみたいな家におるんやけど、それが立ち退きまでにおるかおらんかわからん。台風の話は聞きとないかもしれんけど(入り口の膝下くらいの高さにマジックで線が引いてあるのを指さして)、水がここまで来たん。ここやもう外に出られなんだんよ。そん時はな、ニュースでも東谷地区大雨洪水が来るってニュースで言うとった。前の日の天気予報見よったら、室戸だけが赤うて一時間にナンボ降ったっていうやろ。こっちはこんなのに。ああ、あの時ほんだら東谷はここだけがすーっとこないなっとったんやろうなと。他(の地区)はならんのにな、この堤防もなんちゃ役に立たんと思うもん(笑)。この奥がもう全然通れなんだんよ。ほいで公民館にたどり着いたら、消防がおるんがどこかが危ないいうて消防車出ていとって、帰ってこられんのここ。そんなこともあった(笑)。

移転前の青木商店。

移転前の青木商店。

 ホタルがな、何年も前にはそこらすごい飛びよった。杉の木がそこら見えよんのに高いとこまで飛んびょって、イルミネーションみたいな感じになっとって、カメラマンが来て写真撮ったりの。ほんでみんなが来るけん、ほなら「ホタルうどん」ゆうてでけだち(出来立て)のうどんそこらで食べさしてあげたらみんな食べるかいのなあ言うて(笑)。けど、台風の大きいんが何回か来て砂からぜんぶ流れてしもうてな。それから、数が減ってしもうたなあ。

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