香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

三豊市高瀬町・昭和26年生まれの男性の証言

ニワトリとうどんの切れ端で作った動物細工が入った打ち込みうどん

(取材・文:

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  • vol: 172
  • 2017.01.23

うれしかったニワトリの打ち込みうどん

 私は今、多度津に住んでますが、昔(昭和30年代)は高瀬で農家をしてたんです。家で食べたうどんの思い出と言えば、ニワトリですね。農家は大体、母屋の濡れ縁の下に金網を張って、そこでニワトリを飼ってましてね。卵産まなくなるとつぶすんです。家の裏にミカン植えてまして、そこでいつも父がニワトリをさばくんです。締めて血抜きして終わったんは、母が大釜にお湯を沸かした中にドボっと浸けまして、全部皮をはぐ。さばいたら最後に出る骨はうどんのダシになります。

 当時のうどんは全部打ち込みですから、ゆで汁も捨てない。ゆで上がった大鍋のうどんの中に、いろんな具を叩き込んでました。それでそのうどんの中から、ニワトリの骨がひゅうっと角みたいに出ている。ほんでそれを取って、骨にこびり付いとる肉を前歯でね、こうやって削ぎ取ってね。

 「今晩うどんぞ」って言うたらもう、家族としてはうれしかったですね。ごっつぉう(ご馳走)やって。ニワトリ以外の具は野菜が主でした。冬は里芋とか大根とか、ほとんど根菜類でしたね。野菜はもう全部自前です。

うどんの切れ端で粘土遊びをして、それを茹でて食べていた

 うどんを作る係は母でした。母が塩水でうどん粉を練ったらね、私と2つ違いの弟に「おい、丁場(ちょうば)分踏めよ」言うんです。三豊の方では、ノルマのことを丁場というんですよ。練ったうどんの団子を布に包んで、さらにゴザに挟んで踏むんです。

 弟と二人でジャンケンして、負けた方が100回数えて踏んだらまたジャンケンして、負けたらまた踏まないかん(笑)。100回踏んだら平べったくなるでしょ。それをまた団子にしてね。ゴザに挟んで踏むんですわ。これを3回ないし、4回ぐらいやってましたかね。

 それで今度、練って踏んだうどんの団子を、母が延ばすんです。家にはまた大っきな麺打ちの板と棒がありました。麺棒は樫の1mぐらいの長さのやつで、「悪いことしたらこれでしばくぞ、しばっきゃげるぞ」言われて恐かったですよ(笑)。

 それで延ばした後に切ったら、端っこができるんですよ。はしたが。そしたら母が、弟と私に「おい、好きに使こてええぞ」て言うんです。それで粘土細工みたいに、それでいろんなんを作るんですよ。象だとかイシガメだとかヘビだとかを作ったら、それを打ち込みうどんと一緒にゆでてもらうんです(笑)。

 そしてでき上がったのを食べる時に、弟と「それは俺のじゃ」「これは僕んじゃ」「食べるなよ」とかいうてね。お玉ですくい取るとちょっと形が崩れてまして、それこそヘビがツチノコみたいになったましたけど(笑)。それはそれで、家庭のうどんに対する懐かしい思い出がありますね。

 それか高じて今、週いっぺん職場で手打ちうどんを作ってます。残念ながら母からは作り方をちゃんと教わってなかったので、ネットで「美味しい手打ちうどんの作り方」いうのを調べて(笑)。

 うどんに使う小麦も家で作っていて、近所の「森製粉」で製粉してもらってました。製粉所と精米所が一緒になっていて、そこではうどんは作ってなかったと思います。JRの比地大駅から北に向かって、ほんの200mぐらい行ったところにあったんですけど、今もまだあるのかな。場所は昔の道路沿いで、今は新道ができてそちらを通るんで、その道は最近通ってないんですよ。

 製粉所でははったい粉(大麦をあぶってから挽いた粉)もすって(製粉して)もらってましたし、隣町の絞り屋さん(製糖所)でサトウキビを絞って黒砂糖に代えてもらったりもしてました。よく考えると、製粉所も絞り屋さんも、お金は払わなくて物々交換でしたね。持って行ったその量に応じて、できあがりをくれていました。

法事のうどん作りは一家総出で

 他に家でうどんを食べる言うたら、法事ですかね。前の晩からうどんをするので、一家総出で大量に作ってました。うどん打ちの台とか棒とかは、近所の各家に持っとるのを借りてきたり、人も応援頼んだりね。

 それと、庭に臨時のかまどを据えるんです。鉄板の組み立て式で、丸くて真ん中に焚き口があるだけのね。あれに大鍋どーんと乗せてやってました。だから細い・太い・固い・柔らかいとか、関係ないんですよね。できたら「ほーい、さあ」言うて食べる(笑)。

 うどんはかけでしたね。乗っとるんは、それこそネギとナルトぐらいでした。ダシはイリコ。薬味は七味も一味もショウガもワサビも使った記憶がないです。唐辛子は家で作っとって、庭にムシロ敷いて干してたのにね。あと、うどんの他に天ぷらも出よった。お膳と丼にうどんが出て、そこにおかずに三種類ぐらいの天ぷらが出てた記憶があります。

 普段の天ぷらはうどんの具じゃなくて、別に天ぷらとして出しとったわな。衣には色粉を入れてやってました。真っ黄ぃと真っ赤と真っ緑(笑)。うちはイモは黄色でゴボウが青、エビは薄い黄色やって、色で種類分けしてました。

 中でも最高級なんは殻つきエビのかき揚げで、レンコンも高級品だった。ゴボウも煮付けしてあったから美味しかったですよ。大きな平べったいザルにね、色分けしてパッパッパッと乗せとって「好きなん取れ」っていうと、ほんだらもうエビが争奪戦でね(笑)。今でもたまに殻つきエビを出してる店があるんだけども、当時の殻つきエビが懐かしくて食べてみると、イガイガ、ジャリジャリしてて。当時は何でもなかって、あのパリパリジャリジャリが何とも言えんかったのにね。

 あと、毎月いっぺん順番に「看経(こうじゅ)」いうのがあって、「おかんき」いうのがある。お経を上げる人が順番に変わる。その後に「お疲れさん」いうてうどん出しよったんです。ところがね、段々段々、手間やということで、100円ぐらいの駄菓子を配ってお茶だけ出すようになったね。だから、当時は何かと言ったらうどんでしたね。祭りもうどん。もう「困った時のうどん頼み」みたいなね。「今晩食べるもん何作ろうかなー、ほなうどん」、「ヤッター」いうて子供がね、喜んでましたよ。

映画の帰りに食べた駅前のうどん

 お店で食べた一番古いうどんの記憶は、小学校の2年か3年ぐらいだったかな。上高瀬に映画館が2軒あったんですよ。松竹座と祇園館というのが。そこへ年の離れた姉が連れて行ってくれてたんです。帰りが遅なるんで、若い女の人やから、防犯の意味もあって私が連れて行かれたんでしょうね。「映画連れてってやるきに行こう」言うてね。自転車の後に乗せてもらって、姉のお腹に落ちんようにしがみ付いてね。

 その帰りに、高瀬の駅前にあったうどん屋さんに寄ってました。姉が機嫌が良い時はラーメン。今でいう中華そばですね。そうでない普通の時はうどんだった。当時のラーメンはね、値段が違うし、うどんより格が上やったんです。中華そばいうたらめったに食べられなかった。値段は分からんです。あの当時だからね。食堂でしたね。うどん専門じゃなかったんちゃうかな。駅前にそんな感じの店が何軒かありましたね。

 店にはうどんの他にちらし寿司があった。あと「きつね」ね。いなり寿司じゃなくて「きつね寿司」。地域によってね、俵結びのと三角のがあるんですよ。私のところの記憶にあるのは三角でしたね。そやけど四角にして俵みたいにするのもあります。

 寿司とうどんはセットでした。今で言う「うどん定食」みたいな感じで、定食にお寿司が付いてた。未だにお寿司があるのはそれの名残かも知れないね。まあうどんの記憶は百人百様で、みんなそれぞれ持っとるんですよ。それで自分の好きなうどん「どこのうどんが好きな?」言うたら全部違う。「え? あそこの?」言うて(笑)。確かにうどんは飽きんですね。

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