香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

観音寺市港町・昭和12年生まれの女性の証言

伊吹島からイワシを仕入れて作ったイリコを、小麦と物々交換していた

(取材・文:

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  • vol: 216
  • 2017.07.13

実家は港町のイリコ屋だった

 私の出どこは港町。うちのとこはイリコ屋しよったんや。イワシは伊吹(島)に船で買いに行くんや。網で上げたぶんをそのまま買うて来て、ほんで釜で湯がく。湯がいたら、家の裏が広かったけん、そこへみんなでムシロをばーっと敷いて、イリコ置いて干すんや。夏は袋一杯のイリコをなんぼも積んどったわな。猫が来たらちょいちょいやられよったわ。猫がは袋をかじって穴開けてしまうけん、親はもう目の敵にしよったなあ(笑)。

 そうそう、加ト吉(冷凍食品会社・現テーブルマーク)なんかも隣りやってね。あそこもイリコしよった。私は昭和12年生まれ、加ト吉さん(前社長)が昭和11年やろうから、遊びに来てから一緒にアホしよった。家はちょっと離れとったけどな。広場がな、隣りやったんやわ。

 おうどんはしょっ中食べよったけど、七月二日の半夏の日は、家で必ず打っちょったわな。打つんは母とかお嫁に来たお姉さん。打ったら、普通のおつゆこしらえてダシにして。使うんはもちろんイリコですわ。あと、ちょっとアゲなんかをな、ほそーに(細く)切ってな。そうやなあ、すうどん…かけうどんみたいなもんかなあ。そんな大したアレではなかった。

 うどんはご飯の代わりみたいなもんやったわ。終戦直後やから食べるもんがなかったし、お米も少なかったからな。ご飯炊いたら、こんな平麦(押し麦)のつぶしたやつ、間にフンドシいうんかな、アレがよーけ入っとったんや。麦は軽いけん浮いて、お米のご飯が下の方へ沈むんやわ。ほやから、遅うに帰って食べた方が「お米が食べられる」って(笑)。上の方は麦ばっかりやから。

イリコと小麦を物々交換していた

 小麦は農家の人にイリコを持って行って換えてもらいよった。春から大体秋までのイリコがある時だけな。秋は柿なんかも持ってきてくれて「なんぼでも食べ」言うけん、私、小学校四年生ぐらいの時食べ過ぎて往生したことがあったわ。6個も食べてから、こよん(フラフラに)なった(笑)。大体あの頃はな、お金より物々交換が主やったわ。なんせ品物持っとる人が強かったな。物がない時やろ? そんな感じですね。

 ほんで小麦は製麺所へ持って行くんやわ。裁判所(観音寺簡易裁判所)の裏の方にあった加島いうイリコ屋さんの前にな、「キラ(吉良)」さんいう製麺所があって、お麦や持って行ったら挽いてくれよった。いや、うどんはせんと製粉だけしよったから製粉所やったかな? その場で挽くんと違ごて、いくらか持って行ったら店にある粉に換えてくれよったん。お米持って行ったら米の粉なんかもな。私や小さい時に母に付いて行ってな、ほんで一緒に帰って来たらそれでうどん打っちょったわね。

すうどんには「くずし」が浮いていた

 うどんを打ってくれよった兄嫁さんは、うどん屋から嫁に来とったんや。今はもうやめとる築港温泉(観音寺市港町)の斜め前辺りに昔あったお店で、「ミヤケうどん」言よったと思う。その姉さんとこへ時々食べに行きよった。メニューは大体、すうどんやわな。上にちょっと「くずし(周りににストローが付いた西讃独特のカマボコ。ナルトより太くて白一色)」浮かしとるぐらい。あそこらもう、皆、くずし作んりょったけんな。うどんは店で打っちょった。あそこは早よからやめとったな。私が小学校頃にはもうやめとった。私が小学校四年生の時に終戦やから、それぐらいの頃やわ。

 あとは色々な時に、うどんが食べられましたな。法事やみんなな。うちは弘法大師(真言宗)やけど、法事でうどんは前の日から出したり、そいなもんもあったやろねえ。したらお坊さんとかも食べたやろなー。あんまり覚えてないけど。でもうちのお爺さんの兄弟が料理人しよって、色々キレイな料理こしらえてくれよったんは覚えとる。観音寺の海のとこに「柳川ボート」いうボートの貸し屋があって、そこのお爺さん。よいよー(非常に)料理が上手やったわ。

 そういや古いうどん屋の「柳川」って、うちんとこのお爺さんや(たち)の親戚なんや。私、嫁に来る前の姓は柳川だったん。あそこも打っちょったわな。ほだけどな、小さい時に食べに行った覚えがあんまりない。

 主人と結婚してから出作(すっさく・観音寺市出作町)に住んだんやけど、主人が国鉄やったから夫婦二人だけであっちゃこっちゃ行ったわ。髙松にも5年と4年と2回、9年ぐらいおったのに、うどん屋はあんまり行かんかったな。

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