香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

綾歌町栗熊・昭和9年生まれの男性の証言

綾歌町のうどん打ち軍団「碧空会」前会長さんの思い出話

(取材・文:

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  • vol: 128
  • 2016.02.05

戦前戦後の小麦の製粉は、「後藤」と「前場」と農協で

うどん打ちは誰に教えてもらったんですか?
わしは昭和9年の生まれじゃけど、小学生の頃から親の見よう見まねでうどんを打ってたな。親父は戦争へ行って居なかったんじゃ。終戦後に親父が戻って来たら「どこのおっさんが戻ったんじゃろ?」いうて(笑)。だから、母親がうどんを打ってるのを見て覚えたんや。水加減も何もかも、わからんことは母親に聞きもって覚えた。15歳の頃にはもう一人で打ってた。
昭和10年代なら、もちろん地粉ですね?
そうや。昔は取れた小麦を栗熊から滝宮の水車に持って行って製粉してもらっていた。その頃、農家やったら皆60キロで3本か4本置いとくんじゃ。それを一斗缶に入れて水車へ持って行って小麦粉に換えてもらって来て、それを打ってた。
綾歌はどこの水車へ行ってたんですか?
わしが行ってたのは、滝宮の天神さんの下の水車や。自転車の後ろへな、カンカン括りつけて行ってた。終戦後しばらくして、栗熊に後藤(漢字不明)製粉とか前場製粉とか出来てな。
有名な「前場うどん」さんは昔は製粉所だったんですか?
そうや。火事があって、それで製粉所はやめて製麺をするようになったんや。前場さんとこは水車じゃなくて、当時はもう電気になっとった。
その頃は農協でも製粉していたという話もありますね。
そうや。農協でも製粉していた。水車とか農協は小麦を持っていったら台帳につけての。要る時にいつ取りに行ってもよかったんや。「もう無しなったぞ~」言われるまで(笑)。
当時製粉の手間賃はどのぐらいだったんですか?
さあ、なんぼぐらいやったんかのう。わしは払らった記憶はないんじゃが、当時牛を飼っている農家は小麦の皮をもらいよったんや。牛に食べさすために。それでその皮をもらわんところは換賃は要らなかったと思うな。牛は小麦の皮が好きなんじゃ、普通の裸麦より小麦の方を好いとった。それに、当時は藁葺きの家が多くて、小麦の藁は強かったから人気があって藁も売れてたんや。

 その頃は、水車もうどんや素麺を作ってたんや。素麺が主で、素麺いうても小豆島より太い、ひやむぎやけどの。うどんは頼んだら作ってくれよった。手打ちじゃのうて、機械うどんや。

それはいつ頃まで続いたんですか?
終戦後も後藤製麺いう大きなところと前場(製麺所)がしばらくやってたんやけど、さあ、いつ頃までやってたかの。昭和50年ぐらいまでやってたかの。その頃、長雨があってな、小麦にカビが生えてしもたんや。三回ぐらいひっくり返して干してもダメだったんや。それを機会にASWの輸入が始まって、一気に県内小麦の作付けも激減して、地粉を製粉する水車も存続できんようになった
その頃、水車はどんな機械で製粉や製麺をしてたんですか?
ローラーで籾を割って皮をむいてから挽いて、ふるいにかけて小麦にしてたな。

手切り、薪釜、醤油も自家製

ところで、当時はうどんはどれぐらいの頻度で食べたていたんですか?
そりゃなぁ~、モノがない時代やから、戦時中は一年に数えるぐらいや。小麦は貴重だったからな。法事か、なんぞごと、例えば用水ざらえした後とかな。
当時はやっぱり湯ダメで食べたんですか?
そや。湯ダメや。必ず湯ダメ。
出汁は何で取ってたんですか?
あの頃は、いりこと昆布ぐらいやな。物がない時分やから、たくさん入れられんが。
沢蟹とかジンゾク(カワヨシノボリ)は入れなかったんですか?
そんな物は入れんわ。栗熊には居なかったからな。入れたとしたら山の方やろ。魚を入れてたんは汁や。どじょうの打ち込み。ほやけど、どじょう汁は金比羅山を境に西側は食べんのや。三豊は全然食べんな。昔、イベントでどじょう汁を出したら、誰っちゃ食べんかった(笑)。
東讃や中讃は食べてたのに、不思議ですね。三豊はいりこの町やからでしょうかね。
象頭山を境に、西と東で全然文化が変わるようやな。
うどんを切るのはどんな包丁で切ってたんですか? コマを使ってたんですか?
菜切り包丁や。コマは使わん。あれはなかなか難しいんや。
当時のうどんの太さはどれぐらいだったんですか?
そうじゃな。今よりはちょっと太いかな。
手切りじゃ、あまり細く切れないですしね。茹で時間はどうだったんですか?
15分ぐらいかな? 今よりはもう少し茹でよったかな。今みたいにガスじゃなくて薪でお湯沸かしてたからな。
法事の時はどんな釜でうどんを茹でてたんですか? 家にはそんなに大きな釜はないですよね?
同行(自治会)が持ってたんや。そうやな、直径が60cmぐらいの釜かな。ご飯もそれで炊いた。
法事はうどんが付き物でしたが、葬式はうどんは出なかったんですね。
葬式はうどんは出さん。あれはな、「長く続く」いう理由で嫌った。そやけど、この頃はうどん出すところもある。
法事は湯だめが多かったと聞いてるんですが、普段はどんな風にうどんを食べてたんですか? 釜揚げとか生醤油とか。
ああ、釜揚げは食べよった。出来立ちだったら醤油もかけて食べよったけど、
やっぱりしっぽくが多かったな。
やっぱりしっぽくですか。根菜類を入れて栄養もありますしね。
醤油は当時はいいのがなかった。辛いばっかりでな。今にみたいに味を付けた醤油はなかった。ええ醤油が出回り始めたんは、戦後長いことしてからや。それまでは家でも醤油を作ってたんや。
それは初耳です。
小麦と豆と塩で、大体一年かかるけど。発酵して真ん中にカゴを入れておくと、そこに醤油が溜まるわけや。今で言う「溜まり」やな。それを醤油うどんや漬物に使って食べてたな。旨かったで。売っとる醤油なんかは何が入っとるかわからんからな。大豆とか材料はすべて自家製や。終戦後は大変やった。塩とか配給やったからな。

「碧空会」のお話

最後に「碧空会」の事を聞かせてください。
昭和62年の4月に5~6人で始めた会なんじゃが、最初は当時の年金が月千円だったので、それで粉を買って老人ホームを慰問してうどんを振舞うということだったんじゃ。慰問をするのが趣旨で、うどんを打つのが目的ではなかった。自分たちの手馴れたうどんで慰問したらどうじゃろうと。まあ社会奉仕じゃな。

 そのうち会員も段々増えて、どこで知ったのか、あっちこっちからイベントにも来てくれと頼まれてな。あそこへ行ってここへ行かんというわけにもいかんので、だんだんイベントへ行くことが多くなったんじゃ。
  
 うどん打ちの道具も、最初は皆が家にあったのを持ち寄ってやってたんやが、だんだん間に合わんようになって本格的なのを揃えていったんじゃ。うどんを茹でるのが大変で、最初は薪でやってたんやが、湯が沸かんで困った。灯油は臭いしな。今ではガスの大釜で茹でるようになって、3時間で1300玉を手打ちで打って茹でられるようになったんじゃ。そしたら交通安全のイベントとか丸亀のお城祭りとかいろいろ行くようになっての。遠いところでは石川県まで行ったな。丸亀の姉妹都市ということで4年間行ったんじゃけど、1日で3千玉打ったな。

 碧空会は栗熊の出身が多いんじゃ。終戦後に栗熊出身の満州開拓引揚者が鳥取県西部の大山の中腹にある香取村に開拓村を作ったんじゃが、そこへも友好のためにうどん打ちに行った。みんな久しぶりのうどんに喜んでくれたで。だんだん当時の1世がおらんようになって、今はもう行ってないけどな。
   
活動を始めてもう30年近くになるけど、粉は日清製粉の「丸香雀」をずっと使っとる。 出汁は最初は醤油を薄めて出汁にしてたんやけど、だんだんお客さんの口が肥えてきて、今ではいりこと昆布を使ってちゃんと取ってるんや。

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