香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市屋島西町・昭和15年生まれの女性の証言

昼は学校から戻って毎日うどん食べた

(取材・文:

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  • vol: 5
  • 2015.07.08

昼は学校から戻って毎日うどん食べた

正直、うどんにはあんまり良い思い出がありません(笑)。嫌いな食べ物でした。小さい頃(昭和20年代前半)、お昼御飯は毎日のようにうどんで、飽き飽きしていましたから。

大阪へ嫁ぐことになる27歳(昭和42年)まで大内町の誉水で過ごし、高校まで地元の学校に通っていました。当時の学校には給食がありませんでしたので、昼食は弁当。自宅へ食べに帰る生徒も多かったです。私もその一人でした。ただ、献立を期待して帰っても母が用意しているのはいつも決まってかけうどん。具はネギとかまぼこだけ。夏も変わらず温かいうどんです。ガッカリすることばかりでしたね(笑)。

近くの会社に勤めている父や兄弟も昼は自宅に戻っていたこともあり、うどんは毎日たくさん作っていました。近所の人が食べに来ることもありましたので。今から思えば、そんな状態では母も手の込んだ昼御飯を準備できませんよね。

麺は二つの八百屋から

大川中学校からほど近くにあった自宅の向かいには、国道11号線を挟んで「児島商店」と「前山商店」という二つの八百屋がありましたが、うどんの麺はいつもそこから買っていました。どちらの店にも麺用のせいろが段重ねで置かれていたのをよく憶えています。私も麺をたまに買いに行きました。鍋やかご、丼などを手にして。それに麺を入れて持って帰るんです。ビニール袋なんてない時代でしたから。ちなみに、「児島商店」は今も営業していると思います。

小麦や小麦粉を麺と交換してくれる精米所が誉水に!?

その二つの八百屋に挟まれる形で「浜田精米所」という店もありました。精米所なんですが、小麦や小麦粉を持って行くとうどんの麺と交換してくれるんです。もちろん、お金で買うこともできました。お願いすると、店の人が生地を押し出し機のようなものに入れて、一本一本の麺にしてくれます。

うどんは自宅に親戚が集まる法事やお祭りの日にも食べていましたが、たくさんの麺が必要になるそんな時には「浜田精米所」を利用しました。

昭和30年頃の三本松高校では、学食ですでにうどんが!

高校時代(昭和30年頃)、友達に誘われて一度だけ外でうどんを食べたことがあります。もちろん仕方なく(笑)。高校一年生の時に三本松高校の食堂で。三本松高校は当時、今の商店街あたりにありましたが、用務員室の横にあった校内の食堂はウサギ小屋のように狭く、パンとかけうどんだけを販売していました。うどんは一杯、50円くらいだったでしょうか。昼休みには生徒が列をなして利用していましたよ。

大して美味しくもなかったと思いますが、上級生からは「1年生で食堂を利用するとは生意気だ!」と言われ、うどんへの嫌な気持ちがさらに膨らみました。

うどん嫌いが治った「アズマヤ」のきつねうどん

そんなうどんへの嫌なイメージを変えてくれたのが喫茶店の「アズマヤ」です。高校を卒業して高松へ通うようになり、その頃(昭和35年前後)、中央通り沿いにあった「アズマヤ」によく行きました。そこで看板メニューだったきつねうどんを口にした時に、初めてうどんを美味しいと感じましたね。鰹の味がよく効いた甘いダシとお揚げは忘れられません。うどんの後には、シューの中にアイスクリームと果物が入っている「ローゼ」も食べました。
「アズマヤ」がなかったら、うどん嫌いは今も続いていたと思います(笑)。

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