香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

観音寺市港町・昭和7年生まれの女性の証言

風邪を引いたらうどん屋でとんぷくとかけうどんを買ってくれた

(取材・文:

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  • vol: 214
  • 2017.07.06

八百屋でうどん玉を買っていた

 私ね、観音寺の港町(観音寺市旧港町)の生まれです。今の港町でなくて昔の港町。あの辺、町名変わったんでしょ。旧市内は一回、全部観音寺町の甲になっとった。今は元のに近い町名に戻ったからちょっとは分かりやすくなったけど。元の港町は今より港に近いとこだけやったんよ。イリコをしよるとこがあったり、カマボコ屋があったり。どっちかいうと裕福な町だったと思います。

 実家は漁師でした。うちでは普段うどんは打たなんだけど、寒い時の打ち込みのうどんはしてました。「今日うどんよー」って言てね。昔は母が生地を踏んでね。落とし団子みたいな感じじゃなくって、ちゃんと麺になってた。大根や里芋や、コンニャクも入っとったかな? あと、ズイキみたいなのも入ってましたね。味付けはしょう油です。具が多いからおかずも兼ねてたんでしょうね。

 そのほかはね、玉を買ってきて家でおうどんすることがあった。ほうぼ(方々)に八百屋があって、そこへいたら(行ったら)玉を売ってるから。八百屋にね、こんな四角い簀(す)にこう、うどん玉並べたやつがあって。ほんで箸でこう引っかけて、家から持って行ったお鍋かカゴに入れてくれる。あの頃は包装紙いうてないから。八百屋はどっか玉しよるとこから仕入れよったんやと思います。買ってきたうどんは、かけで食べてました。具はネギとカマボコぐらいかなー。そうか、アゲが入っとったらええぐらい。ダシはイリコ。コブ(昆布)使うとこもあまりなかったんじゃないかな。

 近くのうどん屋さんで買ってきて食べることもあったけど、それはね、風邪引いた時(笑)。今みたいにね、すぐにおうどん屋さん行って「うどん食べましょ」言うのではなかったような。昔はうどん屋さんにね、風邪のとんぷく薬いうのが置いてあった。「うどん屋の風邪薬」いうやつ。そのとんぷく薬とかけうどんとをおか持ちに入れて、買ってきてくれてました。おか持ちでもおっきに(大きく)なったら、6つぐらい入る。一段に3つ入れて、も1つ箱を柄のところに入れて二段にしてね。6つぐらいは運べよったから。昔のうどん鉢いうたら、今とちょっと形違うよね。ちょっと深いよね。私はそよに(そういう風に)思う。だって、おか持ちで持ってくるの、深みがないとおつゆこぼれるからね。

うどん屋でうどんを肴に飲んでいる人がいた

 仮屋(観音寺旧仮屋町・旧港町の東隣・現在は港町と西本町に分割統合)の方へ行くとね、なんか角々に小っさいうどん屋があったような気がする。私らの家はね「築港温泉(観音寺市港町・廃業)」のすぐ近くだったんですけど、前にうどん屋があったですね。名前は「やましろや」。それこそ、店のカウンターというほどでもないけども、机が2つぐらいあって、まあ近所の人がちょっと寄って食べるという店でした。メニューはうどんしかなかったですね。男の人がそのうどんを肴にしてちょっと一杯、そんなんじゃなかったかなと思う。夜も開いてました。昼から晩ぐらいかな。今のうどん屋さんとはちょっと違うような。だから風呂から帰りに寄って食べるとか、ありましたね。私や子供の時じゃから、終戦前じゃね。おじさんがしよったけど、亡くなってからはせんかったんでないかなと。

 あっちの方で大きなうどん屋いうたら「たいしょうまる」いうところもあった。そこ行ったらとんぷくの薬がありました。風邪引いた時にうどん取るんがここ。元町(観音寺市旧元町・旧港町の東隣・現在は港町と西本町に分割統合)にあった「永楽湯」から入った通りにあった。こないだまであった「永楽湯(永楽温泉・廃業・観音寺信用金庫港支店隣りにあった)」とはまた場所が違います。通りが違うような気がする。風呂屋の前に下駄屋があって、その横に散髪屋があって、その角をずーっと行った角にうどん屋があった。でもあの辺、今はもう街並みが変わったからねえ。ここも子供の時やから、戦後にはもうなかったんじゃないかなあ。

冠婚葬祭に出るのはしょう油うどん

 ほやけど子供の頃、田舎の方へ行ったらね、冠婚葬祭、みなうどんが出よったなあ。法事も、亡くなった時も、結婚式も全部、必ずうどんが出る。うち、父が財田のでー(出)で、観音寺に養子に来とる人だったんで、財田の親戚に何かあったら、必ずそこの親戚のおじさんが来ておうどん打ってましたね。「どこそれのおじさんに来て打ってもらう」とか言うて。近所にそういう風な器用な人がおったんじゃろね。なんかがあったらその人やとて(雇って)きて、打ってもらうんじゃないですか?

 財田の田舎の座敷にずーっと並んどるところで、うどん食べたの覚えてます。全部持ってきてくれて、みんな何玉もお代わりして。周りは農家ばっかしやからね。それがもう当たり前だったんかなあ。それもね、しょう油だけで食べる。生じょう油。私、生じょう油をかけたおうどんは、あそこ行て初めて食べた。観音寺はああいう食べ方しないですよね。おつゆでしょう?

 観音寺で冠婚葬祭にうどんはあんまり出ることはなかった。仮屋の方は、慶び事とかなんじゃいうたら近所の人や子供たちが集まって、一緒に「今日はお客じゃ、お客じゃ」言うて食事したりするけど、その時は、ばら寿司や天ぷらだったなあ。天ぷらは、色粉入れて(笑)。朝からね、色粉の入った天ぷらしよったんや。青いのもピンクもあった(笑)。東讃の方へ行くと、祝いの時のカマボコみたいな蒸し物で、鯛とかなんと色々な形作って配ったりするんやけど、いろいろな色使いますよね。あれはやっぱし、いろいろな色使ういうことが、慶びの1つの表れみたいな。そういう風習がこっち来とるんかなあと。

殿町にあった石部

 ほんで昭和30年に天神(観音寺市天神町)に嫁に行った。天神にはね、観音寺郵便局からすーっといたとこ(ずーっと行った所)の殿町の信号がある交差点の角に「いしべ」いうて、割と大っきいうどん屋がありました。石の部と書く。確かあの字だった。私が嫁に来てからもずっとあって、殿町の通りが広がるまでぐらいはしよったと思う。割と遅まであったの、あそこは。この辺のとっしょり(年寄り)が寄って何かしたら「石部」のうどん取んりょったんですよ。その前は「サイトウ」いう店だったそうやけど、私は知らん。

 嫁に来てからのうどん屋いうたら、それぐらいしかないなあ。割と観音寺って街中に今、うどん屋ないでしょう? ちょっと車で行かなんだらない。「柳川」ぐらい。あそこは昔のままじゃなあ。そうそう。今はうち、子供やでも帰ったら、おうどん食べんと絶対帰らんからね。お昼が来たらおうどん食べに行って、食べる心配せんでええから助かります(笑)。

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