香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

旧仲多度郡琴南町東谷・昭和19年生まれの女性の証言

谷川米穀店の近くには水車がたくさんあった

(取材・文:

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  • vol: 237
  • 2017.10.02

昔、家で水車で製粉をしていた

 出身はまんのう町です。昔の琴南。琴南の東谷や。生まれも育ちもここ。お嫁に行ってないからな。うどんはここら辺の人は、みな手で全部しよったね。各家で日常的にしよった。うちんところも結構うどん食べよったで。ご飯がすごいい少ないいうたらな。私んとこは母親がしよった。打ち板とな、こんな棒とかあってな。

 私んとこは配給所いうか、米屋さんやっからね。粉は自分とこで挽っきょった。米ついたり麦ついたりな、押し麦作ったりとかそいなんしよったよ。農家の人が麦持ってきてね、ほんで小麦粉やうどんと換えるん。

 名字は寺要(じがなめ)言うん。寺と要石の要と。ほやけど、みんな私のとこ「くるまや」って言よった。なんか知らんけど「くるま、くるま」言うて。あたしや知っとる時にや、精米や製粉は電気でまいよった(回っていた)けど、小さい頃には水車(『讃岐の水車/峠の会編』P226に記述されている「寺要水車」と思われる。昭和40年頃廃止)があって、水でやんりょったん。だいぶん後に、水車を買いに来た人がおったんやけど「今頃や無いわな」言うて(笑)。

 水車は東谷に1軒と、西谷にミカドさんいうとこと、それと谷川さん(現谷川米穀店。『讃岐の水車』P268に記載がある「新車」。昭和39年に廃止)がしよったん。

三嶋うどんの素麺が半田へ行っていた

 うどんは家では機械でしよったね。気がついた時には製麺機があって、お祭りとか、あーいう時に皆買いに来よった。近所にうどん屋さんやなかったからね。他に素麺も作んりょったよ。小豆島でしよるやろ。ああやって干っしょった。

 「三嶋うどん」あるやろ。旧役場の近くの、公民館があるとこ。あそこも水車(『讃岐の水車』P267に記載がある「矢渡水車」・昭和50年に廃止)しよって、素麺も作んりょったきんな。うどんのお爺さんがおる時は、半田(徳島県美馬郡旧半田町・現在はつるぎ町に合併・半田素麺で有名)へ出っしょったよ。「三嶋」のお爺さんがな、うちの親と話っしょったんやけど、「うちの素麺は半田へ出すん」「えっ? 半田行っきょんかい」って言よったきんな。

 ほんだけん、元水車場な。そゆとこが今おうどん屋さんしよん。「谷川」さんでも、最初はおばさんが内々で打っちょったやつを、米ついてもらいに行くついでに買うたり、あんなとこで食べたりしよってな。それが美味しかって、だんだん広がった。

「わら家」は「長田」でうどん作りを習った?

 ほんでうちはその後、お蕎麦しかけた(始めた)。うどんはせんと蕎麦専門。私は親の手伝いしかできんで、美霞洞温泉が出来てから本格的にしかけた。川ん中でしょった頃からやから、私で何年したかな。30何年、踏んで、打って。

 ほんで高松の「四國村」の入口のとこに「わら家」あるやん。あそこ「長田うどん」で習った言いよりました。私が若い時に食べに行ってしたら、「あそこで習たんやー」言うて。似とるやろ。で、「長田うどん」のおじさんはうちのとこへ蕎麦食べに来よったんやけどな(笑)。

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