香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市庵治町・昭和31年生まれの女性の証言

金倉寺の門前にあった二軒のうどん屋

(取材・文:

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  • vol: 22
  • 2015.07.10

金倉寺の門前にあった二軒のうどん屋

高校を卒業する昭和49年まで、四国霊場第76番札所の金倉寺が目と鼻の先にある場所で過ごしました。当時、金倉寺門前の通りは、それはそれは賑やかで。自転車屋さん、文房具屋さん、薬屋さん、仏壇屋さんなど色んなお店がズラッと建ち並び、商店街になっていました。

その中にはもちろん、うどん屋さんもありました。今でも元気に営業している「はなや食堂」さん。そして今はもうありませんが、「はなや食堂」さんからもう少し西に進んだ所(※)には想い出の「ひさご」さんも…。

うどんは物心がつく頃から毎日のように食べていました。お昼御飯に、晩御飯に、時にはおやつ代わりにも(笑)。ほとんどがかけうどんでしたが、冬はしっぽく、夏場や母が忙しい時には醤油と味の素で食べました。近くのスーパーで買ったすり身の天ぷらが加わることも多かったですね。
思えば成長期にうどんには随分とお世話になりましたが、その麺をいつも買っていたのが「ひさご」さんだったんです。

〝かよい〟で麺を買う!? 支払いはお盆と年末にまとめて

当時、「ひさご」さんで麺を買うときは必ず〝かよい(通い帳)〟を持って行きました。綺麗な和紙でできていた細長い〝かよい〟で、普段は台所に掛けられ、表紙には「通帳」の題字と名前が書かれていたことを憶えています。

それで麺を買うと、お店の人が会計をする代わりに〝かよい〟の中面へ〝○月○日○玉〟と書き記すんです。麺を買うたび同じように書き加えられ、お代はその記録に基づいてお盆と年末にまとめて払いました。家族が多くていつも大量に買っていたので、うどんの麺といっても一括で支払うと凄い金額になりましたよ。

ちなみに〝かよい〟は私たちだけではなく、「ひさご」さんをよく利用していた人なら誰でも持っていたと思います。「ひさご」さんは私が善通寺を離れる昭和49年までは確かにありましたけど…。いつ店を閉めたんでしょうか。

お祝い事はもちろん、葬式や法要にもうどんが不可欠

〝かよい〟を使い、普段はツケでうどんを食べまくっていた家や土地柄だったので(笑)、お祝い事や葬式、法事などの時もやっぱりうどんは欠かせませんでした。

金倉寺の「乃木まつり」や八幡神社のお祭りの日は、約2メートル四方の木でできた専用台で父が麺を打ってくれた記憶があります。葬式の時も必ずうどんを食べましたし、法事や法要の時は盛り籠だけではなく、うどんの麺も必ず用意しました。親戚ではなく、近所へ配るためにです。

昭和40年代の後半には、すでに善通寺第一高校でうどん専用の学食も!

家は農家だったのですが、田植えの時もしっかりうどんで、共同で作業する各農家と昼は持ち回りでうどんを作っていました。あと余談ですが、私が通っていた地元の善通寺第一高校には当時、うどんだけを販売している食堂もありましたよ(笑)。セルフではなかったですが、かけうどんと醤油うどんを販売していて、私はかけうどんを好んで食べました。

お姑さんから教わった高松のうどん文化

結婚して高松に嫁いだのですが、そこで善通寺とのうどん文化の違いにビックリしたことがあります。
それは葬式から四十九日法要まではうどんを口にしたり、また出したりしてはいけないということです。「不幸を長く引きずらないように」という験担ぎだそうですが、お姑さんからは常識!と教わりました(笑)。どうしても食べたくて我慢できない時は、うどんを細かく切るように、との指導も(笑)。まるで逆でした。
 狭い香川県ですが、うどん一つとっても地域で随分と違うことを気づかされました。

(※)金倉寺の門前道と伊予街道との交差点の北東角辺り

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