香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

旧三豊郡三野町・昭和25年生まれの女性の証言

家を建てる大工さんに毎日うどんを取っていた

(取材・文:

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  • vol: 254
  • 2017.12.07

雨が降ると農作業ができんので、うどんを打っていた

 生まれは三野町(旧三豊市三野町・現在は三豊市に合併)です。家は農業と、あと色々やってました。少しですけど乳牛(ちちうし)も飼ってましたね。

 小学校の時は雨が降るとね、家でうどん作ってました。農家やから、雨が降ると外の仕事ができんからね。うどんは年がら年中…夏はしなかったかな、夏は素麺でした。生地しよったんは誰やろ、お婆ちゃんかな。踏むのは私たち子供で、伸ばすのはお父さんがしてました。棒や板も家にありましたね。当時はどこにもあったでしょう。

 うどんは打ち込みか、湯がいて湯だめのようなのとか、かけうどんみたいなのもしよったかな。まあ冬は打ち込みでしたね。農家には野菜があるから。根菜、大根、ニンジンに椎茸も作ってたからねえ。ゴボウや里芋や白菜とかも入んりょった。味付けはたぶんしょう油でしたね。しょう油は買いよったけど、味噌は家で作ってた。

 大豆も作ってて、こんな石の臼で挽っきょったよ。大豆はみんな、田んぼの稲の横にチョンチョンと植えてたね。大きいところは家でしょう油も作ってたんではないですか。それと、昔はみんな裏作で小麦作ってましたよね。うちも家で麦も作ってたから。自分持って行ったことないけん知らんけど、ちょっと離れたとこに粉屋さんがあったんじゃわ。そこで挽いてたと思います。

 小麦粉は家でお菓子にもしてました。うどんとおんなじように伸ばした後切って、手綱コンニャクみたいに捻って油で揚げる。油菓子っていうか、何も付けんとそのまま食べよったね。それと「ぎょうせん飴(麦芽を原料にして作る水飴の一種)」とかも作ってましたね。麦芽糖。まあ自分とこでおやつに食べるだけやけど。

法事は湯だめうどんで、宵の日だけ出していた

 特別な日だと、法事の時はうどん玉がセイロで来てたわねえ。どこで買いよったかは分からん。子供やったけんなあ。それを湯だめにしてつけて食べるん、アレがすごく美味しかったですよ。でき立てじゃないのに美味しかった。うどん食べるんは宵だけ。家の宗派はね、大坊(本門寺)の日蓮宗でした。

 それと、年越しには普通にうどん食べてましたね。メニューはかけやったと思う。赤や白やの天ぷら(練り物)とか、そんなにいい物は乗ってなかったねえ。親も忙しいし年も取ってくるし、年末のうどんも買って来てました。

 お祭りの時は、うどんでなくて天ぷらね。赤と黄色に緑色が付いとった。今思たら、緑は色的にキツイね。まあ天ぷらもなかなか食べられんかったからねえ。そういや、この辺では新築の時にお風呂の中でうどん食べるって聞くけど、自分の家が建ったんが小学校ぐらいだったから、したかどうかは覚えてないねえ。

帰省する時は連絡船で必ずうどんを食べていた

 小学校と中学校には給食がありました(昭和30年代中盤)。脱脂粉乳も飲みましたよ。中学校は揚げパンね。でもうどんは出てなかったと思う。初めてお店でうどん食べたんは、いつやったやろか。うちにおる時は、食べに行ってなかったかも知れん。田舎の人って外食しないんですよねえ。

 昭和44年に高瀬高校出て、大学に行ってからかな。京都の大学に4年おったんやけど、帰りの連絡船に乗ったら必ずうどん食べよった。高松の駅かどっちかで食べよったかな、かけうどん。アレも美味しかったねえ。でも行きは玉野で連絡船下りたらね、走るのよ。あれがもう嫌だった(笑)。

 大学出てから就職して、向こうに2年おったけど「帰ってこい」言われて帰って来た。ほんで三野町の高瀬大坊の駅、今三野駅になっとるやろ。その前の方にな、フクスケのベビーシューズを作ってたとこがあったん。そこで1年半ぐらい事務員したかなあ。

 その頃は今みたいにうどん屋もなかって、近所にお店も少なかったきんな。けど下高瀬にはうどん屋があった。法事のうどん玉は、そこへ買いに行っきょったと思うんや。値段は1玉15円位やったかな。そこへはうどん玉買いに行くしかせんで、店で食べた覚えはない。そうそう、大判焼とかもしてた。店の名前は分かんないけどね。

嫁ぎ先の八幡にあったうどん屋

 ほんで観音寺に嫁に来たとこが八幡(観音寺市八幡町)や。その頃、近所にあったうどん屋いうたら「イチリキ」。八幡の染川橋からちょっと下がって、路地を右手に入ったとこ。家から近すぎて、アタシは食べに行ったことはないです(笑)。まだ建物はあるけど、店はしよらんのかな。嫁に来た頃はやってたやけんどねえ。

 けどうちの家を建ててた時…昔はほら、家を建ててから嫁をもらいよったやん。で、その家を建ててる間、ずっと「イチリキ」から大工さんにうどん取ってたって。昔は大工さんに食事やおやつもしーの、色んな事やっとったでしょう? でも、毎日うどんが続いて「たった(飽きた)」とか言われたとか言よった(笑)。そいな話聞きましたねえ。

 それと「かじま(かじまや)」のうどん屋。あそこの店、道から下がっとる(低くなっている)でしょう? 後から道路がずんずんずんずん上がって、こうなったん。危ないぐらい。あそこは元散髪屋でしたよ。散髪屋の跡をうどん屋にしたんやと思う。

 あそこの釜あげとおでんのお豆腐がすごい美味しい。前はウズラの卵が取り放題やったやん。けどそれから「1個だけにして下さい」って言われて、この前に行ったらなくなってねえ。アレが美味しかったのに。いくらでも取る人がおるけんかなあ。でもなくなって2回ぐらい行ったけど(笑)。

 「かじま」の店の中に、こんな大きなお皿があるでしょう。昔の家にはあんなんありましたよね。大した分ではないんやけど。私らの結婚した頃はまだね、みんな家に来よったけんな。ほんでお茶碗でももう、40も50も揃えとったけど、もういらんから段々放っていったわ。

●編集部より…昭和30年代の農家のうどんは、やはり「打ち込み」が定番。八幡の「イチリキ」も昭和の観音寺のうどん屋の歴史に記しておきましょう。

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