香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

仲多度郡琴平町・昭和21年生まれの男性の証言

うどんが具に入ったすき焼きを食べていた

(取材・文:

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  • vol: 258
  • 2017.12.21

家で食べていたのは「かけうどん」と「うどんすき」

 生まれは琴平の街中。実家は金比羅さんの門前の方で土産物屋をしてました。うどんは家でしよったねえ。打っちょったのは爺ちゃん。道具も家にありました。

 食べ方は今でいう「かけうどんや」な。イリコダシやカツオダシとかでねえ。チクワやカマボコが乗って。でも「かけうどん」とは言うてなかった。普通に「おうどん」て言よったね。かけうどんやすうどんや、いつから言うようになったんやろうね。

 うどんをしよったのは、お祭りとかお正月とかお盆とかの特別な時やねえ。普段はそんなには打ったことない。普段は打たんと、近所の八百屋で玉を買うてきて食べよったね。昔の八百屋はみんなうどん売んりょったんと違うかな。野菜の横にセイロが置いてあって。それはどっかの製麺所から仕入よったんやろけどね。

 買うてきた玉は、「かけうどん」か「うどんすき」にしとったな。ご飯の代わりではなくて、うどんは別ですね。うどんすきいうても、今みたいにすき焼きの締めに入れるんと違うで。最初からすぐうどん入れるん。糸コンニャクや白滝みたいに、具にしとったな。

金比羅参道にあった「やっこ食堂」

 琴平の家の近所にうどん屋があったかどうかは、覚えとらんな。あんまり外食はしとらんけん。金比羅さんの参道沿いに、食堂みたいなんはあって、行ったことあるけどな。名前は「やっこ食堂」っていうん。ひらがなやったか漢字やったか、覚えとらんなあ。そこにうどんがありましたね。普通のうどん、かけうどんやなあ。まあ、お寿司とうどんがあるような食堂だったな。

 あと、琴平の小学校には給食があって、うどんも出たことあると思うな。中学はお弁当やったから、うどんもないわ。

栗林小学校近くにあった「ウエタ製麺所」

 それから高校中退して、高松の理容学校に入ったんや。学校行って免許取って、ほんでちょっとこま修業して。けど就職した先が潰れたん。「困ったなあ、仕事なくなったわー」って話っしょったら、「なんで自分でせんの」って言われて。「ああ、本当やなあ」って思て、ここ(高松市栗林町)でお店(理容店)しかけたん。それが23の時、昭和44年位や。

 店しかけた頃は、この近所のうどん屋があったかは覚えてないけど、玉作んりょるとこはあったな。製麺所。栗林小学校の北側に金山神社があるでしょう? その横の路地を入ったとこ。水色の建てもんの南横。

 そこは「ウエタ」さんいうんやけど、今はもう週2回ぐらいしかしよらんけどな。ええ年やから、もうすぐやめると思うわ(2017年春廃業)。けどワシは買いにいったことないけん、そこのことはよう知らんのや。うちは理容店やから、昼の時間が不規則やろ? いつお客さんが来るか分からんから、買いに出られんの。それと近所の製麺所いうたら「松家」もあったな。

田町の南口横にあった自家製麺のセルフ店

 他に知っとるとこいうたら、ちっちゃい「たまちゃん」いう食堂。フェリー通りからずーっと南へ来た道の、JRの高架下の2、3軒北。そこもお寿司とうどんがあるみたいな食堂やったね。

 それと田町の出たとこに、今「まいまい亭」いう割烹屋さんがあるやろ。あの西横にもうどん屋があった。セルフうどんやね。あそこは自分とこで打っちょった。玉買うて持って帰ったりもしよったな。アレも今やめとるけどね。息子が小学校の頃やから、もう30年ぐらい前やなあ。

●編集部より…「うどんすき」というのは、寄せ鍋風のものやスキヤキ風のものなど、全国にいろんなスタイルがあるみたいですね(ウィキペディア情報ですけど・笑)。昭和40年代の高松市栗林町には、松下製麺所の大将が手伝いに行っていた「伊賀製麺所」がありましたが(開業ヒストリー参照)、こちらの記憶では「ウエタ」さんという製麺所も。狭いエリアに製麺所がたくさんあったことが窺えます。

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