香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高知県大豊町・昭和6年生まれの女性の証言

岩田うどんから仕入れたうどん玉を食堂で出していた

(取材・文:

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  • vol: 273
  • 2018.04.30

高知から出てきて観音寺で食堂を始めた

 出身は高知の山ん中の豊永(現大豊町。昔、大豊町周辺は豊永郷と呼ばれていた)。雨がよう降るところです。高知の山の中でも、田んぼのあるところは田植えが済んだら「さあ五目(寿司)する」言うて、寿司を作って、それと一緒にうどんも打ってました。うちは豊永の東の方で田んぼもあったから、何かいうたら親が五目寿司とうどんをしよった。でも、お母さんの妹は西豊永で田んぼがなかったけん、うどんは打ちよったけど五目はしよらんかった。米が穫れんけんな。

 その後、兄が香川の丸亀に行って、次いで親も丸亀に行ったから、「ほんだらもう山ん中おらんでも行こうか」言うて私らも丸亀に行った。それから昭和42年か43年に観音寺の八幡(やはた・観音寺市八幡町)へ行って、「土佐」いう食堂を始めました。高知は飲み会するいうたら皿鉢料理を何十枚も作るやろ? うちのお父さんが高知におった時はそいなんを叔父さんがしよったもんやけん、私もそれを見習うて叔父さんの弟子じゃ言うてしよったから、料理の基礎はできとったんよ。

「岩田うどん」から玉を仕入れて出していた

 店の場所は、八幡の信号のとこにあった「アンドストアー」いうお店のすぐ仁尾寄りの方。「アンドストアー」はもうお店やめてキレイな家建てとるけど。そこは元々オバサンが一人でうどんしよったんよ。初めは一杯35円じゃった。その時に玉を三架橋近くの「岩田」のうどん屋さんから取りよったから、その繋がりでうちの店も岩田から取るようになった。あの辺は大体もう、うどん玉取る言うたらあそこの「岩田うどん」が主じゃったね。あとは「柳川」ぐらい。

 「岩田」は、夜遅まで飲みよって朝帰りするような時に、「もうついでにあそこへ寄ってうどん食べていなんか(帰ろうか)」言うて食べて帰りょったね。昔はみんな、朝までよう飲みよった。それで「朝早うから岩田に行ったら打ちだてが食べれるけん、美味しい」言うての。

 うちの店に来る玉も、朝早うに持って来た時は打ち立てで美味しいからズルズルズルズルズルっといけるけど、時間が経ったらだんだんヘタってきてな。で、お昼ごろにうどんがなしんなって「持ってきてください」言うたらね、たいていヘタったうどんが来よった。けど、もっと時間が経ったら固まって美味しなしになるけん、「今のうちに早よ食べないかん」いうて(笑)。

 「岩田」のおばちゃんは、もう若い時からこんな腰がいがんでね。こんなもう這うようにして歩きよったわ。おやっさんも若うて亡くなったし。後におばちゃんの息子さんがちょっとだけしよったけど、もう店を閉めてしもとるわ。

近隣の会社に大量のうどんの出前をしていた

 食堂でうどんはいっぱい出しました。「岩田うどん」からセイロで持ってきてもらってた。うちは店では全然玉を作らんと仕入れよったから、私は打ってないん。ダシはイリコやらコンブやらね、それから花カツオ。カマボコと油抜きしといて甘辛く炊いた大きなお揚げをええ加減に切って、上に乗せてからおネギを入れる。当時うどんは一杯45円じゃった。100円もらってお寿司とうどん食べて、10円おつりもらいよったんじゃけん。お寿司はきつね寿司とかバラ寿司とかな。うどんに寿司は付きもんやったね。

 八幡は会社が多かったん。「コンクリート開発」に「微研(阪大微研)」、「岡崎ボイラー」、「日新製袋」があるやろ。それにお菓子を自分とこで作んりょった「ミヤケ」さんに、犬の訓練所。そこら辺に出前行っきょったんや。

 出前のうどんはね、ぬくめてお椀に入れて、ダシは大きなヤカンで別に持って行ってから入れる。そうせな、持って行きよる途中でまける(こぼれる)やろ。メニューはかけうどんだけでなしに、肉うどん…鍋で入れて炊いた鍋焼きうどんや、きつねうどん、月見うどんもありました。一通りはしよったね。

 中でも「コンクリート開発」はようけ残業しよったけんね。100くらい作ってね。うどんをお椀に入れて入れて入れて、こんな箱の上に積んで。あの出前がようけあった。おっけなヤカン、老人組合がよう集まって会をするとこがあるんやけど、こないだその人に「この茶瓶、ヤカン要らん?」言うたら「いるいる」言うたからあげたら持って帰ったわ。

うどんを出す食堂は昭和52年まで

 そこで10年ぐらい、昭和52年まで店をして、今おる上市(旧観音寺市上市町・現在は観音寺町に統合)に移った。店に「にぶっさん」がうどん食べにきよってな。「にぶし」さん言うたら、土地買うたり売ったりする人な。仁尾(三豊市仁尾町)の人やったけんやけど、その人が「そこの上市で家売るとこがあるが、今オバサンが喫茶しよんじゃが誰ぞ買う人おらんか-」言うて。「そらええな。見に行こ-」言うて見に行ったん。家はそんなに惚れもせんかったけど、後ろが広かったからな。「こらええとこじゃわ、裏は広いし。ほんだら買う」言うたら「銭持っとるんか?」って。銭はどんでもなるわ(笑)。ほんで買うて、そこでスナック始めたん。スナックの名前もやっぱり「土佐」で通した。

 でも、そこで3年した後、喫茶しよった店が狭くてどうにもこうにもならんようになったから、広かった裏にまた店建てた。借金して3年でまた借金(笑)。ほんで皆ようけきてくれたから、もう借金も払てしもて。それから30年ちょっとしてやめた。それからもう5年ぐらいになります。そういや、昔は上市の向こうの河原町(旧観音寺市河原町・現在は観音寺町に統合)にも食堂があったわ。でも、うちらが上市行ってからすぐなしんなったけどね。

●編集部より…昭和40年代の観音寺は「食堂のうどん」が大盛況だったようです。「岩田屋」と「柳川」から玉を仕入れてうどんを出す食堂は、あのあたりには平成に入っても結構ありましたが、岩田屋は残念ながら閉店。店構えもいろんな道具も、文化財みたいな素晴らしい風景の店だったんですけどねえ。

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