香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

仲多度郡多度津町西浜・大正14年生まれの女性の証言

椅子もテーブルもなく、乾いたカマボコの乗ってくるうどん屋があった(旬和花瀬(旧料亭花だん)大女将・小野勝子さんのお話)

(取材・文:

  • [showa]
  • vol: 283
  • 2018.10.29

鍋ものの締めには必ずうどん

「旬和花瀬」さんの前身の料亭「花だん」さんで、料理の締めにうどんを出していたとお聞きしたんですが。
 はい、鍋ものの後は必ず、おうどんを支度しておきます。あと、すき焼きの後にもおうどんを入れます。鍋とかすき焼きとかのご予約があったら、必ずおうどんは支度しておりました。それ食べたら「うどんで締めや」っちゅうんですわな。それから、素麺もご要望があったらな。おうどんと一緒ですわ。たいていの料理屋は、そういう感じでしたな。うどんはどっから買いよったんですかな。ご近所にもうどん屋が方々にありましたからな。
町のうどん屋で食べるうどんと料理屋で食べるうどんの違いはどういうところですか?
 具材とダシの差ですわな。あと、鍋もんには必ずうどん入れますわな。ごはんなんかは入れませんです。うどんです。「うどんが好かん」いう方もおいでませんしね。
お店で天ぷら出す時は色はつけてましたか?
 いーえ。色やつけたら、料理屋で出すような料理でなくなってしまいますから。

椅子もテーブルもないうどん屋

多度津のこのあたりには、どんなうどん屋さんがありましたか?
 うちのちょっと向こうの中村の散髪屋さんがあったところ、あの向かいの角に「みどり」いううどん屋さんがあった。弁天座の芝居がはねたら、そこにお客さんが行ってな。ジロキチさん言うおじいさんが一人でしよったんやけど、店は別にテーブルがあるわけでなし、六畳くらいのカマチんとこに横並びに座って、そこにジロキチさんがドンとおうどんを置いたらそれを食べる。ブスーッとして何っちゃモノ言わんおじいさんでな、子供ん時は恐ろしかった(笑)。

 大きな釜でおうどん温めてな。ダシはイリコとカツオでしたか。トックリを釜の湯の中につけて、いつでも間に合うようにしとった。店の表に陳列があって、カマボコとかの具を一人前ずつザルに入れて並べとるんですけど、薄うに切ったカマボコにお陽さんが当たるから、いつもこう、曲がっておりました。小さい時でしたから「なんやろか? あ、カマボコや」と(笑)。昔はそれでも通っりょった。別に衛生うんぬんを言うでなし、保健所がやかまし言うでなし。

 あとは「ふるたき」のうどん屋と「石橋屋」の間が「阿波亀」いう遊郭やった。角が「くろざき」のうどん屋で、隣が「谷本」の乾物屋で、隣が「たけや」。製麺所は「ふくだ」さん。うちから歩いて2~3分のところの八百屋さんに「ふくだ」さんから仕入れたうどん玉がおいてあったから、そこで買うてきて家でダシ作って食べよりました。

このあたりは法事の時にうどんは出てましたか?
 うちは真言ですけど、うどんは出っしょらなんだように思う。

戦争中は店は休業

戦時中はどんな感じでしたか?
 戦争中は商売はお休みでございました。灯火管制がありますし。警戒警報とか空襲警報が鳴ったら家の中は黒幕張っとりましたから真っ暗。ロウソクやなにかをつけとっても、それが敵機の的になるから言うてやかまし言うから、ほんとに家の中は真っ暗けですわ。それに、戦争中は食糧も米穀通帳いうんがありましてな。主食の米は統制されて、うどんや素麺も品物自体がないんですわ。歌音曲はもちろん禁止ですし、三味線なんか特にあれですわ。そういう難しい時ですから。憲兵さんが威張っとる時代ですから、お店の営業どころじゃなかったですわ。

 高松に空襲で爆弾落とす時、頭の上をB29が何十機も通りましたからな。多度津の上空を通って高松に。あれ、もうちょっと戦争が続いとったら、丸亀も師団があり、善通寺にも師団あったから、多度津もついでに爆弾落とされとりますわ。そういう時に、下では昼間、竹槍の稽古しよるんです。少し残った芸者衆も出てきて、モンペはいて竹槍の稽古やっりょりましたけんな。今思たら、何をしよったんかと思う。

 女子挺身隊がずっと座っとる中に芸者衆が二、三人おるん。私もな、自転車に乗んりょったから伝令係させられよった。女学校出て家でおったら徴用されますけんな。私も学校出てから国鉄の試験受けて総務課に2年くらいお勤めしたんです。その間、私は伝令役やった。まだ20歳くらいやったけんな。

 学徒動員は、私らの学年はなかったからよかった。やけど、豊原(地名消失、多度津町内)の保育所に一日、麦刈りに行きましたわ。稲はまとまってるけど、麦はバラバラに植わっとるから刈りにくいん。そういう経験はある。一日でも行とったらこうやって麦刈りの話もできるけど(笑)、今、若い人に話しても理解ができんようなことばっかりやな。
たった1メートルの布買うんでも衣料切符が要りよった時代ですからな。

戦後はいつ頃からお店を再開しましたか?
 昭和23年頃ですな。あれ、メチルアルコールいうんですかね、体に悪い。お酒が手に入らない時はお湯かなんかで割って飲んみょったげなですな。命を落とす人もおるしなあ。悪夢みたいな時代やったわ。戦後も夜11時が来たらぱっと電気が消えよったでしょ。うちの長男が生まれとったんやけど、赤ちゃんは夜中でもオムツ変えたりいろいろ用があるでしょ。それが11時が来たらぱっと電気が消えよん。あれには泣いたわほんま。あれは忘っせん。それでも徐々にやっぱりな、商売も再開しましたし。

 多度津の芸者衆は、戦前には何十人もおりましたから。戦争が始まったらいっぺんに芸者衆もおらんようになりましたけど、多度津は旦那衆が多い町でしたから。当時の信濃町長さんもいつも「花だんが多度津の料理屋の発祥だ」っておっしゃって、私が子供の頃からようお店に来て遊びよったそうです。芸者さんは達者でなかったら呼んでくれなんだんで、やから多度津の芸者さんはみんな芸達者で、高松から三味線のお師匠さん、それから藤間の踊りのお師匠さん、みんな汽車に乗っておいでて。駅前に来たら、赤いケット敷いた人力車があってね、時代劇みたいに黒い腹かけしてる車夫が2~3人、いつも人力車で待っちょりました。高松から来たお師匠さんやらを乗せて来よった。私が子供ん時、好きやったからよう見に行ってました。

●編集部より:「鍋物の締めにうどん、料亭の天ぷらには色をつけない」という、多度津の料亭のうどん周辺事情が少し出てきました。後半は「昭和のうどんの証言」ではなくて「戦争の思い出話」になってしまいましたが、今回は併せて貴重な昭和の記憶ということで。

ページTOPへ