香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

三豊市三野町大見・昭和33年生まれの男性の証言

砂糖を入れたらうどんが止まる(笑)(「讃岐ラーメンはまんど」森敏彰さんのお話)

(取材・文:

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  • vol: 284
  • 2018.11.29

養鶏農家で山海のうまいもんを食って育った

最初に子供の頃のお話ですが、ご実家は何をされていましたか?
 養鶏農家でした。それも鶏を年間20万羽ぐらい出荷してましたから、かなり大きな規模の養鶏業をしてましたね。県から送り込まれた養鶏の研修生みたいな人がうちの家に泊まり込んで、鶏の世話の仕方を勉強したりもしてましたよ。たぶん当時、個人経営でそれだけの規模でやってるところはほとんどなかったんちゃいますか? 

 親父の代に、三野町の町長さんで藤岡さん(昭和44年~平成元年まで三野町長を務めた藤岡忠治郎さん)いう人がおったんやけど、その人がブロイラーの先駆者みたいな人でね。大阪の難波に食肉のお店を持ってまして、そこにうちから絞めた鳥を週に2~3べん、運送会社みたいに運んで行ってました。なので、“天下の台所”大阪のうまいもん、香川では珍しかったとんでもないハムとか、こっちではまだ売っていなかったカップヌードルとか買うてきてくれたりして、そういうものがこのあたりの人では一番最初に食えよったですね。

田舎でずいぶんハイカラな食生活をしていたんですね(笑)。
 それから、じいちゃんが漁師みたいなこともしてたし、鉄砲撃ちで山の猟師さんもしてましたから、子供の頃から海の物も山の物も、天然の旬の物をちゃんと旬の時期に食べて育ったという感じですね。家には乳牛がおったし、鶏がおって、あひるがおって、合鴨がおって、ガチョウもおったし、それこそ全部おりましたね。

 あとは、田んぼも1町歩ぐらいありました。のちに減反になりましたけど、今でも水田は6反ぐらいあります。畑もあるし。だから農業も畜産も、当時のこのあたりではまあまあ大きな規模だったと思いますね。

かなり裕福な農家だったんですね。
 まあ、言うても農業ですから(笑)。ただ、食べるもんはそれなりにバラエティだったかもしれんですね。例えば、小学校5~6年くらいの時に、遠足の弁当に鶏の足が入っとるわけですよ。遠足やいうたら、お袋が育ちの悪かったりちょっと調子の悪い鶏を絞めて七輪で焼いて。それを持って遠足に行ったら、みんなが「森が鶏の足持って来とるわー!」「ちょっとくれー! ちょっとくれー!」って(笑)。

 肉なんてそうそう食べられる時代じゃなかったですからね。近所のなんとか商店みたいなところでも牛の肉じゃなくて脂だけ売ってて、その脂を買うて帰ってお好み焼きとかすき焼きとかする時の鉄板や鍋に引くぐらいはしてましたけど、肉はまず口に入ることはなかったですから。ただ、冬場だったら兎とか鴨、雉は獲れるんですよ。鴨なんかは天然もんの黄色い脂の乗ったやつで、鉄砲玉というか鉛玉で撃って獲るから、食べてたら時々鉛玉が「ガリッ」て歯の間にはさまったりして(笑)。それでも、肉が入ってる料理っていうのは近所にはなかったですよ。あとは油もんいうたら、正月か秋の祭りくらいに緑、赤、黄色の色付きの天ぷら(揚げ物)をするくらいだった。

打ち込みうどんと法事のうどん

うどんは自宅で作っていましたか?
 打ち込みは家で親がよう作ってましたね。雨の日とか農作業が休みの日とか、結構日常的に作ってましたよ。粉は近所の精米所で小麦を挽いてもらいよった。そん時に、自分ちの大麦から「おちらし」(炒った麦や大豆を挽いた粉に砂糖を加えて飴状に加工したお菓子)を作ってもろたりもしてましたね。打ち込みうどんのダシは、昆布とかはなかったから、ほぼほぼイリコですよね。それで、ダシ入れてうどん入れてどんどん具材足して行って作る。

 けど、子供は野菜嫌いですからね。野菜がごっそり入っとる打ち込みがしょっちゅう出てくるから、子供にしてみたら「また打ち込みか…」みたいな思いはありましたね。一番嫌いな里芋の裏にダシをとった後のでっかいイリコがひっついとって、それを食いたくないのに「最後まで食え」って言われて往生したのはよう覚えてます(笑)。あとは、どじょうも入ることがありましたね。どじょう屋さんもあって、そこは食用ガエルも売っとりました。

食用ガエル!
 まあ、そういう時代だったんでしょう(笑)。あと、ばあちゃんが農繁期の片手間に素麺をよう茹でてましたね。春に新たまねぎが出だしたらそれを炒めて具にして、贅沢やったらタマゴも落としたりしとったんやけど、それが、つゆに酢が入った「酢そうめん」なんですよ。それをしょっちゅう食わされよったせいか、半分トラウマ状態になって、あの酢系のつゆですする麺が苦手になってしまいましてね(笑)。冷やし中華も食べんことはないけど、自分から進んで食べることはないんです。麺類でない酢の物は好きなんですけどね。
ちなみに、養鶏をやっていたらタマゴは食べ放題だったんですか?
 いや、うちは肉鶏と、種鶏いうてヒヨコを孵すやつやったんで、そのタマゴは商品ですから手をつけるわけにはいかんでね。だから、うどんにタマゴを入れて食べたという記憶はないなあ。タマゴはその当時でもええ値段しよったんじゃないかな。だから食べるんはやっぱりじいさん、ばあさん、親父ぐらいまでで、子供が熱を出してもあんまり食べさせてくれんかったんじゃないかな。よその子らも「タマゴはそうそう食べてなかった」って言いよったもんなあ。
他にうどんを食べていた記憶はありますか?
 法事の時に、せいろに入ったうどんが来よったな。うちは真言ですけど、法事の合間にもうどんが出たし、お土産にも持たせてました。法事の時は製麺所からせいろに何段か持って来てもろてね。僕も小学校4~5年生ぐらいの時に、うどん5~6玉は食べよったわな。その当時のうどんはうまかったなあ。湯だめなんやけどな。僕ら、釜揚げはほとんど食わんのよ。

 それで、みんながどんどんお代わりして、「これひょっとしたら玉がなくなるんちゃうかな…」って思いよったら、ひいばあさんが「あれよ敏彰の、食べるんを止める方法があるんや」って。「何するんな」言うたら「砂糖をちょっとようけ入れてやれ」って。そうしたらむつごうなって、止まるらしい。で、やってみたら「ほら止まったやろうが」って(笑)。

渡辺のうどんは衝撃的にうまかった

外食のうどんを食べ始めたのはいつ頃ですか?
 初めて外食でうどんを食べたのは高校生の時だから、昭和40年代の終わり頃ですか。高瀬の「渡辺」で食べたのが最初ですけど、衝撃的にうまかったのを覚えています。それからちょくちょく外食するようになってね。高校生の時は海や川や池に釣りによう行っきょったんやけど、その帰りにどっかの食堂でうどん食うたり中華そば食うたりするようになって。

 それ以前には、中学生の時にバザーでうどんを食べてたんですけど、それが詫間の「道久製麺所」のうどんなんですよ。僕がいつも言う「製麺所の西の横綱」のうどんを、中学生の時から食べとったというのがちょっと自慢でね(笑)。

今まで食べて来た中で、特に好きなうどんを挙げるとしたらどこですか?
 そうやなあ。僕は「がもう」がトータルでは香川一やと思とるんですけど、あとは善通寺の「はなや」のうどんが好きやな。それから観音寺の「柳川」と「かなくま餅」。宇多津の「長楽」もええ感じやなあ。けど佇まいから言うたら、僕の中では「はなや」と「柳川」が双璧かな。

●編集部より…“ラーメン屋だけど麺通団員”の「盛の大将」の意外にリッチな子供時代が判明(笑)。野菜嫌いの子供が、家の打ち込みうどん~道久のバザーのうどん~衝撃の渡辺のうどん…と成長していく過程は、昭和30年代から40年代にかけての詫間、三野あたりの「子供とうどん」の一つのプロトタイプ・シーンかもしれません(そんな大げさな・笑)。あと、大将の「昭和の讃岐うどんの記憶」以外の話もたくさん伺ってきたようですが、本欄の趣旨が混乱するので別の機会に紹介できればと思います。

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