さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

【長楽(綾歌郡宇多津町)】
廃業の危機を「讃岐うどんブーム」が救った…宇多津の峠の製麺所盛衰記

(取材・文:

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  • vol: 12
  • 2017.10.09

第一話

長楽(綾歌郡宇多津町)・前編

峠の路地に佇む製麺所型うどん店。「長楽」は大将の名字です。

峠の路地に佇む製麺所型うどん店。「長楽」は大将の名字です。

聞き手・文:田尾和俊
お話:長楽の大将、奥さん

 県道33号線(旧国道11号線)の坂出市と宇多津町の境にある田尾坂。そのてっぺんの路地に隠れるように佇む昭和の製麺所型うどん店「長楽」は、立地や店構えの穴場感とおもしろさで、1990年代中盤から始まった「讃岐うどん巡りブーム」の人気店となりました。玉売り専門の製麺所からいくつもの盛衰を経て、「讃岐うどん巡りブーム」の到来、そして今日までのヒストリーを、大将と奥さんにお伺いしました。

<昭和20年代~30年代>

坂出の製麺所を引き継いで開業

ーーここ(長楽)は大将のご実家ですか?

大将
 はいそうです。昭和18年にここで生まれて、物心がついたのが戦後すぐあたりになりますかね。

ーーでは、まずは大将の子供の頃のうどんの記憶からお聞かせください。

大将
 私が小さい頃は、うちはうどん屋じゃなくて普通の家だったんです。だから、家でうどんを食べることはありましたけど、その時は近所のよろず屋というか、日用品や雑貨を売っている店で「乾麺」を買って来てました。茹でたうどん玉じゃなくて、乾麺です。

ーー乾麺ですか。いろいろ情報収集していると、昭和20年代の讃岐うどん界は乾麺がかなり出回ってたみたいですね。

大将
 そうだったんでしょうねえ。とにかく、私は小さい頃は「うどん」いうたら乾麺しか見てないですね。それをどうやって食べてましたかねえ。汁に具を入れて、野菜は入っとったと思うけど、ご飯の代わりにうどんが入った雑炊みたいな…味噌味だったか…小学校の頃ですからあんまり記憶はないですねえ。

ーーそれがいつから製麺所になるんですか?

大将
 私が小学校に行きだした頃に、私の兄が坂出の製麺所に勤めに行きよったんです。兄は私より13も年上なんで、私が小学校に行きだした頃はもう20歳ぐらいだったですからね。そしたら、そないしよるうちにそこの製麺所が「もうやめる」いう話になって、うちの兄と親父が「ほんだらうちで引き継いでやるか」言うてね。それで、坂出のその製麺所から道具とか得意さんとか全部引き継いで、宇多津のここで兄夫婦と親父が一緒に製麺所をやることになったんです。宇多津いうてもここは坂出との境で、すぐそこが坂出の中心地ですから、お得意さんも全部引き継いでやれたんでしょうね。

ーーそれはいつ頃ですか?

大将
 いつ頃かなあ。今から65年ぐらい前いうたら…昭和27年頃? 兄と親父が始めたんで正確な年はわかりませんが、私が小学校だったか中学校だったかだから、まあそんなものですかね。自分で店を始めたんならもうちょっと覚えとるんですが(笑)。

父と兄夫婦の製麺所を手伝いながらの子供時代

ーーすると、製麺所としての長楽の開業は昭和27年頃だったと。開業した頃の一日はどんな感じでしたか?

大将
 朝は4時ぐらいだったかな、みんな起きてね。私は子供だから寝てましたけどね(笑)。当時は今みたいに重油とかガスとかなかったんで、燃料はオガクズで。オガクズがない時には製材所から切り株をもらってきて割って薪にしたりしてやってましたから、今みたいにボーッと火がつくわけでないから釜の湯が沸くのに時間がかかりますわね。だから4時ぐらいからやってたと思いますね。

 それで、朝の6時ぐらいにうどんができて、それから配達に行きよったですね。配達先は、大半が坂出の食堂や八百屋さんですね。八百屋さんへはセイロでうどん玉を持って行って、セイロごと置いて帰るんです。そこでお店の人が買いに来たお客さんに2玉、3玉…いうて売りよった。あの頃はビニール袋とかなかったんじゃないかな。たいていお客さんは籠を持ってきてうどん玉を買うて帰りよったと思います。

ーーその頃、坂出にうどんを出す食堂は結構あったんですか?

大将
 あったですね。賑やかだった。今はもう面影もないですけどね(笑)。

ーーお父さんとお兄さん夫婦が製麺所をやっていた頃は、大将はまだ小学生か中学生だったと思いますけど、手伝ったりしてたんですか?

大将
 中学生ぐらいから、暇があったら手伝わされていましたね。最初は配達の手伝いをしよりました。自転車にセイロ10枚ぐらい積んで、坂出市内まで行くんです。

ーーセイロ10枚も自転車に積んで!

大将
 はい。それを配りながら、セイロごと店に置いてくるからだんだん減ってはいくんですけど、道が今みたいにきれいでなくてデコボコでね。ガタガタいいながら自転車こぎよって、まだ一軒も配ってないのにセイロを縛っとるヒモが緩んできて全部ひっくり返したことがありますねえ(笑)。

ーーセイロ10枚全部ひっくり返した!

大将
 しょうがなしに全部拾って持って帰って、また新しいのを積み直して、また自転車でガタガタいいながら市内に走って。あの頃はみんな自転車だったですから、他にもひっくり返す人がおったんじゃないですかね(笑)。

ーーじゃあ、昭和30年頃の坂出市内は、あちこちにうどんが落ちとった(笑)。

大将
 そないには落ちてなかったと思うけど(笑)、まあそういうのがしばらく続きましたね。

ーー商売の規模はどんな感じだったんですか?

大将
 その頃は一日にだいたい4袋(たい)ぐらい作ってましたね。1袋が300ちょっとだから、玉数にしたら1500玉ぐらいかな。最初のうちは、前の製麺所から引き継いだ卸先のお店がいい加減ありましたからね。それからお店がちょっと少なくなってきたんですけど、今度は坂出工業高校とか寿電工ができて、そこの給食にもうどんを納めに行き始めて。それが昭和30年代後半頃ですね。

ーーすると、まあまあの規模の製麺所だったんですね。

大将
 まあ、それほど大きいいうわけでもなかったですけど、坂出にはうちぐらいの規模の店がだいぶありましたね。うちは宇多津やけど、坂出の製麺組合に入ってましてね。商売相手はほとんどが坂出で、近所のお客さんが玉を買いに来ることもありましたけど、大半は坂出市内の食堂や八百屋さんへの卸しだったですから、それぐらいの規模の商売にはなってたみたいです。

<昭和40年代~50年代>

大将夫婦が製麺所を継ぐ

店内の奥の怪しい階段のさらに奥が、大将の仕事場。手前の左は天ぷらやうどんかりんとうを揚げる奥さんの持ち場。

店内の奥の怪しい階段のさらに奥が、大将の仕事場。手前の左は天ぷらやうどんかりんとうを揚げる奥さんの持ち場。

ーーその後、大将と奥さんが製麺所をやるようになった。

大将
 そうですね。兄の嫁が玉取りしよったんですが、「足が冷えていかん」言うてやめるいう話になって。「ほな、後がおらんからお前せえ」言われてね。私はまだ一人身やったし、あまりしたくなかったんやけど(笑)、親や兄が言うから「しょうがない、ほなしようか」いうて。けど私一人ではできんから、嫁もらわなんだらいかんと。それで、まあ、商売に向くような人をということでね、目の前におるのをもろて(笑)。
奥さん
 私、その頃農協行きよったんや。それで、青年会や何やで顔見知りではあったんよ。
大将
 まあ知っとるという仲で、商売に向くような…それでも気にいらんのではいかんしね。

ーーもちろんですよ。それより奥さんは若い頃、びっくりするぐらいきれいだったんじゃないですか?

大将
 そらもう、きれいだったですよ(笑)。今は面影がないですけど(笑)。

ーーいやもう、十分面影があります。

奥さん
 上手やわー(笑)。

ーーじゃあ、とりあえず大将が奥さんに惚れ込んで結婚したということで(笑)、それがいつの話ですか?

大将
 昭和42年。私が24歳の時に結婚して、そこから二人でこの店を継いでやり始めた。うどんはきちんと習うたわけではないけど、見よう見まねでだいたいはできよりましたからね。

手作業、足作業で休みもなく…

ーー大将が引き継いだ頃の作業はどんな感じでしたか?

大将
 作業の順番に言うたら、大きい金だらいに粉を入れて、全部手で練って、踏んで、量ってだんごをこしらえて、それを丸めてまた踏んで、めん棒で延ばして。そこまで全部手作業、足作業ですね。それが毎日4袋ぐらい。切るのは「切り機」いうんかな。手で包丁を上げ下げしたら下の台が動いていって、上げ幅で麺の太さが変わるような。

ーー出てきました。その「下の台が動く切り機」、当時あちこちでその切り機の話が出てくるんです。

大将
 そうですか。うちもそれだったですね。それから切って麺線にして茹でるんですけど、さっきも言うたように、初めの頃は釜を焚きつけてもなかなか燃えんでね。火力がなかなか強くならんで、沸くのに時間がかかったことはよう覚えとります。あの頃は釜も自分でついていましたから、調子が悪なったら自分で釜を潰して、つき直してやっとりました。

 あとはそうですね、配達は自転車から車になりましたけど、昔は今より雪がよう降ってね。うちは峠の上にあるんでチェーン巻かないかんようになって、そんなもの使う人はここら辺にあんまりおらんから、最初は持っとる所に借りに行ってずいぶん苦労してチェーンを巻いて走ったこともありましたねえ。

ーーいろんなものが今より重労働だった時代ですからね。

大将
 休みも第二と第四の日曜だけでね。
奥さん
 いうても全然休まなんだがな。それで私や怒ったんやがな。「休みがない」言うて(笑)。

ーー「結婚した時と約束が違う」って(笑)。

大将
 まあ休みいうても次の日の仕込みをせないかんから、結局、休みいう休みはなかったですね。そういう状態がだいぶん続いたんですが、そのうち坂出工業高校への卸しがなくなって、寿電工もなくなって、「どうするか?」いうて考えよったんです。それで、その頃からちょくちょく「ここで食べさせてくれ」いうお客さんがおって間に合わせで食べさせてあげよったから、今のような食堂形式にしてみようかということで。

後編に続きます

峠の路地に佇む製麺所型うどん店。「長楽」は大将の名字です。

綾歌郡宇多津町

手打うどん 長楽

ちょうらく

綾歌郡宇多津町坂下東2900-1

開業日 昭和27年頃

営業中

現在の形態 セルフ

(2015年7月現在)

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