さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

在りし日の松川屋

【松川屋(高松市扇町)】
おかもちを手に、自転車で浜街道を駆け抜けた老舗「松川屋」。

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 11
  • 2017.08.17

全一話

松川屋(高松市扇町)

 JR高松駅から伸びる線路沿いに古い町並みが残る、高松市扇町。その車一台ほどしか通れない路地の中に、町の小さな食堂型うどん店「松川屋」があった。戦前から2015年まで、100年にわたって地元の人たちに愛され続けた松川屋の三代目ご主人・松川さんに、思い出を話していただいた。

聞き手・文:柏原里砂
お話:「松川屋」三代目ご主人・松川さん(昭和12年4月2日生まれ)

100年、三代続いた「松川屋」の味

松川屋の店内

合成樹脂のテーブルなど、昭和の雰囲気が溢れていた店内。

「松川屋」さんは、どんなうどん屋さんだったんですか?
 うちは女房と二人でやってた、典型的な昔からのうどん屋さんや。うどん玉を買うてきて、うちで調理して出す。こんなスタイルは香川でももうあんまり残ってないんと違うかな。僕で三代目やけど、初代のお祖父さんの頃からうどん玉を買うて出しよった。お祖父さんの時は知らんけど、親父は「三好」さんていう製麺所で玉を買うてたね。

 この辺りに「中浦」さんっていう兄弟でやっじょる製麺所が2軒あったんや。最初はお兄さんの店でうどん玉を取っとったけど、その人は岡山に行ってしもた。あっちでセルフの店をしよる。その後、弟さんの方からうどん玉を受け取ってた。弟さんの店は今、錦町にあってセルフでやりよるけど、もう玉売りはしてないな。ただ、今はその時おった職人さんもほとんどおらんようなって、娘さんがしよると思う。

松川屋のお寿司

固定のファンがいたという、奥さんが作っていたお寿司。

どんなメニューを出してましたか?
 メニューはうどんとお寿司がメインでね、お寿司は女房が作るバラ寿司といなり寿司。うどんは今のようなトッピングするものはない、普通の素うどん。具はネギとお揚げとくずし(かまぼこ)を入れて250円(閉店時2015年の価格)。肉うどん(380円)もあったけど、それ以外のメニューはなかった。自慢でないけど、それだけでうちの店は100年やっていけよったんよ。

 お祖父さん、お祖母さんの時代から始めて、3代目の僕が50年やりました。うちは代々大工の家柄で、特にお祖父さんはちょっとええ仕事する大工でね。高松の有名な人のお抱え大工で、お屋敷も建てよった。ところが、大工は1年中仕事があるわけじゃあない。そんなわけで「うどん屋でもやってみるか」と始めてみたら、当たったんや。

 あの時代は扇町に人がようけおってね、うどんも寿司もよう売れた。うちの近所でもライバルが4軒もあった。けど、うちが閉める前にみんなやめてしもたし、店をしよった人も亡くなってしもたけど。

 最後までメニューはうどんとお寿司だけ。変わってない。夏場はうどんはやらんと、かき氷だけっていう時もあった。隣が銭湯やったからね、夜の10時頃までお店を開けて、前の通りに涼み台を出して。そしたらみんな風呂の後にかき氷食べに寄ってくれよった。子供は店の周りを走り回りよってね。ああ、そういえば、かき氷の出前もやったなあ。

松川屋のうどん

うどんはアゲとカマボコが乗った、昔ながらのスタイルでした。

うどんのダシも先代から変わらない?
 そう。親の代から「こうすればいい」と教えてもらったから、それしかやり方がわからんけど、うどんのダシはどこにも負けんくらいの自信があった。使うんはいりこだけ。朝からいりこでダシをとって、薄口しょうゆと濃口しょうゆを4対1の割合で入れる。それ以外は一切入らん。ほんでダシが売り切れたら終わり。それがうちのやり方。

 うちのうどんを食べた後は口が乾かんとよう言われよったし、どこに出しても恥ずかしくない自慢のダシや。中華そばもあるけど、中華そばは豚骨と鶏ガラと煮干しでダシをとって作っじょった。

 この頃よくある即席のダシも好かんし、昆布やなんやかんやと入れてこだわりのダシと語るのも大嫌い。「こんなん使ってみたらどうですか?」と一斗缶に入った希釈のダシを持って来られたこともあるけど、自分で店をやるならそんなことはできんよ。

変わっていく扇町と変わらない「松川家」のスタイル

松川屋前の路地

お店は車一台ギリギリ通れるような路地にありました。

この辺り(高松市扇町)は、昔どんな町だったんですか?
 このあたりは「西浜地区」言うて、扇町は西浜地区の中心やった。愛宕神社の西側にある扇町児童公園は、昔は西浜小学校やってね。市内は戦争で空襲を受けたから、終戦後は二番丁小学校、四番丁小学校の子は西浜小学校で授業しよったんで。

 戦前からうどん屋があってね、西浜地区の人は「松川屋」の名前を聞いたら知らん人はおらんっていうくらい。大阪のほうに仕事に行ってしまった人もおるけど、香川に帰るたびに「松川屋に寄って帰らんと」と言うてくれた。

 戦前も戦後も田舎ならうどんは自分の家で打つけど、うちの近所はうどん屋で食べるんが普通やった。家族でうどん屋に行ったり、出前をとってね。年末のお餅をつく時期なんかは30くらい出前に行きよった。

 近所が埋め立てになって、漁業ができるようになってから、扇町に住んどった人が浜ノ町にほとんど移り住んでしもうた。そこから扇町が変わったなあ。もともと近所の人が馴染みのお客さんやったから、移り住んだ人が多い浜ノ町に出前に行くのが多くなったし。

自転車で片手でおかもちを持って出前

松川屋のおか持ち

店内に大量にあった、大小様々なおかもち。

 出前に出よったんは自分。注文の電話を女房がとって、僕が自転車でおかもちにうどんを入れて出前に出よった。いっぺん届けに行ったら店に帰ってくるけど、また器を取りに行かないかん。おかもちのまんま置いて帰るからな。

 浜ノ町に交番があるやろ? そこにも出前に行ったし、遠いところは青果市場の近くまで行っきょった。このあたりは漁師場やから「船におるけん、船まで持ってきてくれ」と言われたりもしよったよ。船に渡る板の上を持っていくのは勘弁!って言うて、なんとか船の近くまでは持って行きよった。あの板は素人では渡れんよ。慣れとる人でないと渡れんからね。

おかもち(出前箱)を持って自転車で?
 そう。おかもちは新しく作ったものも多かったけど、これがね、すごい。すごいんですよ。30箱もあった! うちの親父は大工やったから、おかもちを作ってくれて、それをずっと残してた。新しいおかもちもあるけど、それは頼んで作ってもらったもの。出前の注文が一番多いときには、その箱が全部出て、全部空っぽになって帰ってきよったよ。いま考えたら、ようあんなものを下げて走れたなあ。
おかもちを持って運転するの、大変じゃないですか?
 うん、おかもちを持って自転車を運転するのはホントに大変。もちろんコツがある。自転車の後ろになんか積んだりしない。重くても片手で持って運んどった。出前に行ったら「ようこんな重いもの、持ってきたなあ」とびっくりされよった。

 出前も昔はよく言うてくれる人がおったけど、代替わりして親の代の人はほとんどおらんようになった。それでも「松川屋でないといかん」と言うてくれる人がおったんよ。いま考えたらようやっじょったなあ。ぜ~んぶ出前は自転車! 目があんまり良くなかったから車が運転できんで、自転車で全部回った。

 雨の時も、台風の時も、出前には行きよったしね。「せっかく注文してくれたから、何が何でも行かないかん」と頭に染みこんどる。だからどんなことがあっても行きよってね、自分は雨で濡れてざぶざぶになりよった。それでも店を閉める際まで出前をやりよったんやけどなあ。

松川屋は二人で一人前

松川屋の羽釜と奥さん

店の奥に据えられた羽釜で、麺を茹でる奥さん。

 年々うちの近所は人がおらんようになってきて、今はうちの前を歩く人も少ない。車もたまに通るくらい。もうこうなったら商売できる状況じゃないね。80歳になったら辞めようと思っていたら、女房が先に倒れてしまった。それをきっかけに店を閉じてしもうたんです。

 うちのお店は女房と一緒にやってたからね。こういうお店は人を雇うとやりくりできなくなるから、夫婦二人じゃないとできない。「うちもうどん屋やろうと思ってるんや」と相談にくる人もおったけど、それは辞めたほうがいいと言うた。うちは持ち家でやってるから、家賃もないし、売れんでも大丈夫やったけど、家を借りてまでやる商売ではないなと思っとったよ。

 うちの女房は洋裁をしよってね、親が亡くなってから一緒にうどん屋をしてくれるようになった。そんな女房が作るお寿司を気に入って、遠いところから「ここのお寿司が食べたい」と買いに来てくれる人もおった。いまでもうちのファンって言う人もおるよ。

 でもうちは「ふたりで一人前」やから、どっちかが倒れたら終わり。もし女房が倒れんかったら、まだ店を続けよったかもしれんね。

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