さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

【さぬき麺業(高松市松並町)/さぬき一番(高松市南新町)】
全国各地にご当地うどんがある中、讃岐うどんがこれほど有名になった要因の一つに、いち早く工場での量産体制が確立されたことが挙げられます。日常の手軽な食べ物として、手打ちうどんの美味しさを保ったまま量産化に成功した「さぬき麺業」の発足から、客に食べさせるうどん屋「さぬき一番」への枝分かれの経緯を、当時香川大学の学生ながらも起業に携わった安藤武士氏に証言してもらいました。

(取材・文:

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  • vol: 10
  • 2016.12.30

第一話

さぬき麺業とさぬき一番・前編

聞き手・文:メタボ柿原
お話:「さぬき一番」安藤武士(昭和21年2月16日生まれ)

全国各地にご当地うどんがある中、讃岐うどんがこれほど有名になった要因の一つに、いち早く工場での量産体制が確立されたことが挙げられます。日常の手軽な食べ物として、手打ちうどんの美味しさを保ったまま量産化に成功した「さぬき麺業」の発足から、客に食べさせるうどん屋「さぬき一番」への枝分かれの経緯を、当時香川大学の学生ながらも起業に携わった安藤武士氏に証言してもらいました。

<昭和20年~45年>

有志3人が製麺会社「さぬき麺業」を設立

 私の家は、昭和20年代にトキ新(トキワ街からライオン通りにつながる道)の真ん中ぐらいの、通りから路地を少し入り込んだところで製麺所をしていました。「ふみや」のお好み焼き屋の前にある路地を2軒入ったところです。

 私の父、安藤竹太郎は大正5年1月2日生まれで、海軍の軍人としてお袋と一緒に呉に住んでいましたが、乗務していた戦艦榛名が戦局の悪化で燃料の調達ができなくなり、江田島の沖で海軍の手で沈められて砲台になってしまったんです。そしたらもう乗組員は要らなくなって、朝鮮の海軍の飛行場へ転属されるという時に原爆と終戦を経験して、三木町田中へ帰還。林業などに携わった後、高松へ出て来て、西の丸の琴参会館の裏で小さな食堂を始めました。

 琴参会館というのは当時三越に次ぐ大きな商業施設で、屋上には遊園地があって、結婚式場や、中華レストランとかもあって賑やかなところでした。ちょうど玉藻城の西門からまっすぐ西に道路を渡ったあたりに国際マーケットみたいなのがあって、1坪とか2坪ぐらいのほったて小屋のような店が並んでいたんですが、そこの中央通りに面したところにあったんです。

 当時の記憶としては、子供の頃はよく玉藻城で遊んでました。毎日遊んでいたので、おそらく当時は入場料を取ってなかったのだと思います。コトデンのバスが停まっていたら、車掌が後ろで木炭を炊いて、一生懸命うちわで扇いでいたのを見た記憶があります。

 父がやっていたのは食堂とはいっても、芋をふかして売ったり、仕入れたうどんを湯がいて出したりする1坪程度の小さな店です。それでも、終戦後は食べものがない時代だったので飛ぶように売れ、その資金で昭和25年頃にトキ新に製麺所を建て、44年に製麺業をやめるまでそこでうどんを作っていました。

 その途中の昭和37年、父は自分の製麺所とは別に、当時の高松の製麺組合の役員の有力者であった中原食糧の中原さん、現さぬき麺業社長の父親である香川さんと一緒に、3人で「さぬき麺業」という会社を起業することになりました。均等出資でしたが、年功序列で初代社長は中原さん、専務に香川さん、常務に私の父の安藤、という役員構成でした。

 なぜこの3人が集まって会社を興したかというと、当時、教育委員会から製麺組合に「学校給食でパンばかりじゃなく、うどんを出したい」という打診があったからです。学校給食にうどんを入れるには、安定して供給できないといけないということと、清潔なものでないといけないということで、設備の整った工場でうどんを作ることが不可欠だったんです。うどん屋ごとにバラバラでうどんを納入してたのでは、万が一なにかあったら困りますからね。

 それに当時、高松市内のうどん屋も高齢化が進んでいたので、「体力的にうどんを打てなくなった時に、工場で作ったうどんを仕入れて商売を存続できるようにしてあげたら良い」という考えもありました。

 そこで、3人が毎日寄り合って「どこに工場を作ろうか、やっぱり水が良いところがええな」等々いろいろ相談して、会社設立の翌年の昭和38年に今の松並の工場のところに製麺工場を作ったんです。場所の選定理由は、水が良いということがなにより一番でした。あの場所は旧香東川の豊富な伏流水と農業用水があって、排水もできたので最高の立地でした。当時は栗林トンネルから降りてくる道も今のように広くなく、土居宮さん(鶴尾神社)へ繋がる細い道があるだけでした。地価も安かったので、さぬき麺業の資本金で土地を購入して工場を建てました。

 他にも水のよく出る場所で成合の橋に近いところの選択肢があったんですが、水質検査をすると松並の方が若干よくて安定的に水が出るだろうという調査結果だったので、それなら市内に近い方がいいだろうということで松並になりました。当時の感覚でいうと、成合は遠かったんですね。

 さぬき麺業は、発起人の大口株主3名と、あとは一般の一口1万円の株主で構成されていました。一口株主は、発足の目的の一つである「店主が病気や怪我をしたり、あるいは高齢になってうどんが打てないという事態が発生した時に、株主になっていれば、さぬき麺業からうどんを仕入れることができる」ということが一番のメリットでした。言わば、皆さんが保険的な意味合いもあって出資してくれたんです。「組合の幹部が作る会社」ということで信頼もあったんでしょうね。当時は東京オリンピックの前で景気もよくて、全国的に起業ブームに沸いていたということもあったんですが、香川専務は元々証券会社で働いていたので、資本を集めて会社を興す利点やノウハウに長けていたんだと思います。

大手製粉業者が「うまい讃岐うどんの粉」の開発に尽力

 私は当時、香川大学の学生で、大学へ行きながらさぬき麺業の経理を手伝っていました。さぬき麺業が軌道に乗るまではいろいろな苦労がありました。「工場でうどんを作る」というノウハウがまだなかった時代ですから、すべてが試行錯誤の毎日でした。

 例えば、さぬき麺業はうどんだけじゃなくて、スパゲッティーや蕎麦も作ったんですが、まず最初は「茹で麺」をビニール袋に入れて出荷することからスタートしました。

 当時はまだ「包装麺」というものが一般的でなかったため、ビニールの品質に問題があり、苦労しました。当初使っていたビニール袋は厚みがありすぎて、殺菌用に蒸気を掛けると穴が空いたりして不良製品がたくさん出たのですが、吉田樹脂さんに企業努力していただいて、だんだん薄くて丈夫な商品を作れるようになった、ということもありました。その結果、茹でて袋詰めしたうどんを蒸気で殺菌するという方法が軌道に乗り、当時としては画期的な「1ヶ月ぐらい日持ちする商品」に仕上げることができたんです。

 スパゲッティーというのは我々も初めてで試行錯誤の連続だったんですが、うどんと同じ機械で作れるということで、かん水を入れて麺を黄色くしてみたり、いろいろやったんですが、これが当たったんですね。大都市圏にほんとによく売れました。

 スパゲッティーもうどんと同じように、茹であげてビニール袋に詰め、トマトソースも付けていたので、手軽に食べられるというのが受けたんだと思います。茶そばも茹でた物を出荷してました。乾麺を作り始めたのは工場を建ててからのことで、現在主流の半生麺を作り始めたのはもっと後になります。

 当時いろんな方々が我々に協力してくれたのは、香川専務の人徳のおかげだと思っています。香川専務は証券会社にいたので大手企業のトップとも親交があり、企業の業態にも詳しい方でした。ものすごく懐の深い人で、我々のために、うどん業界のためによろしく頼むということであちこちに頭を下げて奔走してくれました。交渉力もあったし、信頼も厚かったんです。それに、何よりうどんに対して熱かった。そりゃもう、美味しいうどんを作るということにすごく熱心でした。そんな姿勢が皆さんの協力を生むことになったと思います。

 うどんの品質については、昭和30年代当初から製粉業界も美味しいうどんができるように小麦粉を開発して応援してくれてました。今でこそ白いうどんは当たり前ですが、当時はまだ黄色いうどんで、食感も今のようにもっちりとしたものではありませんでした。確かに風味という部分では当時の方が勝っていたように思いますが、今のうどんの方が断然美味しいです。

 もちろん製粉業者だけでなく、我々も粉をブレンドしたり、強力粉を混ぜたらこうなるとか、薄力粉を混ぜたらこうなるとか、太いうどんや細いうどんの寝かし方の違い等、いろいろ一緒になって製法を研究したんです。

 一番熱心だったのは、日清製粉さんでした。日粉(ニップン)さんもそうですが、大手は製粉の機械の精度が高いというのか、粉をふすまから胚乳、胚芽に至るまで何種類にも分けて挽いて、それをブレンドして、「雀」とか「金魚」という白くて腰のあるうどんが打てる小麦粉を開発してくれたんです。当時、吉原さんや、木下さん等の地元の製粉会社は、まだそういう製粉機を持ってなかったと思います。もっとも、それが風味のあるうどんを生み出していたという一面もあると思います。

 高松では金谷(カナタニ)さんが日清製粉の代理店で、我々は大変お世話になりました。日清製粉は坂出にも工場がありましたが、金谷さんの招待で、規模の大きい岡山の工場を見学に行ったこともあります。今の讃岐うどんがあるのは、日清製粉さんの力が大きいと思います。彼らも、「戦後はパンだ」という時代に合わせてパン用の小麦粉の開発をしていたと思いますが、うどんが意外に伸びたんですね。そして、その技術が昭和40年台の爆発的なインスタントラーメンの普及に生かされた、と私は思ってます。そういう意味では、インスタントラーメンはうどんに比べてすごく歴史が浅い食べ物と言えますね。

 逆に、大手がうどんの乾麺を作ることがなかったのは、太くてゆで時間が長いこともあるでしょうけど、うどんがそれだけ微妙な食感が重視される食べ物だとも言えるんじゃないでしょうか。それと、うどんはシンプルな食べ物だけに、スープをインスタントで作ることが難しいという点もラーメンと違うところです。私も県外の友達によくうどんを送るんですが、たいていは「スープは要らんから、うどんだけ送ってくれ」と言われます(笑)。私が若い頃に観音寺へ行ったらよく食べていた「鰹や昆布を入れない、いりこの出汁だけの単純なスープ」が好きだったんですが、ああいうスープはインスタントでは作れないのか、見たことがありませんね。

 小麦粉と言えば、戦後は小麦粉が貴重品だったので、今と違って小麦粉の袋が布製だったんです。紙の袋になったのはだいぶ後のことです。それでうちの家では、その小麦粉の入っていた袋を利用して座布団を作ったり、服を作って着たりしてました。貴重な小麦粉が撒けないように、丈夫な綿の袋を使用してたんですね。当時、「雀」とか「金魚」のマークの入った服を、私は「かっこ悪いな…」と思いながら着てたんですが、最近ではファッションで雀のマークのTシャツを着るそうですね(笑)。今の人に言っても信じてもらえないと思いますが、当時は何でも大切に使っていたんです。

 そんなわけで、製粉業界も美味しいうどんが作れるように一生懸命応援してくれましたが、我々もいろいろ試行錯誤したんです。夏はつるつる食べられるように麺を少し細めにしたり、冬は鍋に入れるので切れ端でもいいから太目のうどんを作るとか。昔から職人さんは勘でそういうところを調整していたと思いますが、工場でうどんを作るとそうはいかず、苦労しながらだんだん美味しくしていったわけです。

工場生産型「製麺ビジネス」の初期は苦労の連続

 美味しく改良していくことももちろんですが、商売なので「どうやったら利益が出るか」ということも試行錯誤しました。当時の香川専務の口癖は、「お前は大学へ行ってるんだから、頭を働かせてどうやったら儲かるか考えろ! わしは作る方で忙しいんやから」というものでした(笑)。やはり、量産の製麺所となると、1玉あたりの原価の小さな違いが会社の利益に大きく影響してくるんです。例えば、先程話に出た吉田樹脂さんのビニール包装でも、一枚1円の物を薄くして一枚0.8円にすれば、1日1万枚だと2000円のコストダウンになりますね。1ヶ月だと6万円で、給料一人分の違いが出ます。そうやって1円、2円のコストダウンを香川専務と一生懸命研究したんです。

 包装のビニール袋だけでなくて、うどんの茹で方もコストに影響してくるんです。例えば、釜で1分長くうどんをゆがくと、その分、麺が太って大きくなる。逆に早く揚げると、麺が痩せて小さくなって歩留まりが悪くなる。だけど、ゆがき過ぎるとうどんが延びてしまって美味しくなくなる…これをどう解決するか、ストップウォッチ片手にゆがいては食べてを繰り返し、皆で研究を重ねたんです。

 その後、昭和55年には厚生省の指導で過酸化水素がうどんの殺菌に使えなくなって、大変困りました。「過酸化水素を使うと発ガン性がある」ということで仕方なかったんですが、過酸化水素は殺菌だけでなく、うどんを白くしてくれたんで、過酸化水素以外の殺菌方法でどうやって白さを保つか? という技術的な問題で苦労しました。

 そうやって、初めて工場でうどんを大量生産するということでいろいろ苦労したんですが、営業面でも大変苦労しました。昭和40年代前半頃は香川県内でのうどんの卸売り業だけでは食べていけなかったので、県外への袋詰め茹で麺の販売をやってたんですが、何度も掛け金を踏み倒されて大変でした。当時、讃岐うどんはまだ知名度が低くて県外にはあまり売れず、スパゲッティーと蕎麦の方がよく売れたんです。特に東京は蕎麦の消費が多いということで、ザル蕎麦と茶蕎麦が売れました。それで会社がなんとか回っていけたんです。やっぱりうどんの製麺技術が高いので、蕎麦の出来もよかったのだと思います。 
  
 ところが、県外の新しい取引先の中でも、高島屋とかの大手の場合は問題なかったのですが、小さい取引先には売掛金を踏み倒されたり、大量返品をくらったりと大変でした。今のように与信システムが出来上がってないので、用心して少しずつ取引を始めても、100ケース送ったらすぐ現金で支払ってくれて、次に200ケース送ったらまた現金ですぐ支払ってくれて、次にコンテナ一杯送ったらお金をくれないので東京まで取り立てに行ったら、会社がなかった…ということが度々ありました。

 返品にも悩まされました。福島の会社を通して北海道へ販売していたのですが、冬の寒さで麺が割れてしまい、大量に返品になるということもありました。これも福島まで代金を回収に行ったら、「金はないから、このなめこを持って帰れ」と、言われて…。なめこ持って帰っても百十四銀行がうん言わんしね(笑)。そんなことがよくあって、工場ができてすぐの昭和39年、40年頃から40年代の前半は経営的にも大変苦しかったですね。うどんだけだったらとっくに倒産してましたが、スパゲッティーと蕎麦のおかげで何とか生き延びることができたと思っています。

讃岐うどんの知名度を上げた大阪万博と大平元首相、お土産用うどんを広めたさぬき麺業

 そこへ昭和45年、東京の「京樽」さんから大阪万博の話が来たんです。この万博でさぬき麺業のうどんが売れに売れて、会社の業績も今でいうV字回復したんです。とにかく、いくら作って持って行っても全部売れてしまうということで、会社も助かりましたが、これが讃岐うどんを全国に広めたきっかけになったと思います。

 讃岐うどんを全国に広めたのは、大平元首相の功績も大きいと思います。私は大学時代をさぬき麺業で過ごし、そのまま麺業に就職すればよかったんですが、当時は建設業界の景気がよくて、給料は右肩上がりだし交際費は使い放題ということで、大学の先輩に誘われて建設業界に就職したんです。大平さんともよく仕事の関係で豊浜でお目に掛かってたんですが、うどんとバラ寿司がそれはそれは好きな方でした。朝起きてくると「おい、うどん」という感じでね。その大平さんが、会う人会う人に「讃岐うどんは美味いぞ!」と、セールスしたという逸話がありますが、私は本当だと思います。それぐらい讃岐うどんを愛されてました。

 讃岐うどんを広めたのが大平さんなら、お土産うどんを広めたのはさぬき麺業なんです。昭和40年代、お客さんに食べさせる店を始めて観光客にも好評でしたが、そこで「うどんをお土産に持って帰りたい」という要望が多かったんです。当時、乾麺のうどんを持って帰って自分でゆがくというスタイルはまだ一般的でなかったんです。それで、さぬき麺業が県外に出荷していた乾麺をお土産用に体裁を整え、これを経済界に顔が広かった香川専務が当時の国鉄を始め、あちこちに営業に行って置いてもらうようになったのが、お土産用讃岐うどんの始まりなんです。

後編に続きます

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