さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

【さぬき麺業(高松市松並町)/さぬき一番(高松市南新町)】
手打ちうどんの量産化に成功した「さぬき麺業」の発足から、客に食べさせるうどん屋「さぬき一番」への枝分かれの経緯

(取材・文:

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  • vol: 10
  • 2016.12.20

第二話

さぬき麺業とさぬき一番・後編

<昭和45年~60年>

うどんを食べさせる店「さぬき一番」の店舗展開を開始

 さて、ここかがら「さぬき一番」の話になります。

 少し話が戻りますが、さぬき麺業がまだまだ厳しい経営状態だった昭和40年代前半に、「工場だけでなく、食べさせるお店を出そう」という話が持ち上がりました。実は当時、国鉄高松駅前に確かコトデンに務められていた土居さんという方が「さぬきうどん」というお店を出したのが大ヒットして、儲かっていると評判だったんです。「さぬきうどん」さんは栗林公園の前にもお店を出されていて、駅と公園の両方で観光客を独り占め状態だったんです。

 それを伝え聞いた香川専務が、「我々も食べさせるお店を出そう。我々の方が本職じゃないか」と言い出したんです。そこで、さぬき麺業から香川専務と安藤常務の2人、加えて「井筒うどん」の鳥塚さん、「富田製麺」の富田さん(叔父)、「讃高製粉」の富田さん(甥)の5人が出資して、「さぬき一番」という「食べさせるうどん店」を出すことになったんです。土居さんの店に刺激されたのか、ちょうどこの時期に「源芳」さんや「野口製麺」さん等も食べさせるお店を出しましたね。

 「さぬき一番」のルーツは、私の父の安藤竹太郎が昭和44年にトキ新の製麺所を止めて、45年頃に塩上町の富田製麺の一角に4~5人座れるぐらいの店を作ったのが出発点です。最初は実験店舗という位置づけで、私の父と母の二人でお店を開きました。さぬき麺業の立ち上がりの苦しかったことに学んで、慎重にスタートしたんですね。

 その時はまだ「さぬき一番」という名前は付けてなかったのですが、始めてみるとすぐに「うどんが美味しい」と評判になり、ものすごくたくさんのお客さんが来たんです。続いて通り町に小さいお店を出すと、これも繁盛し、これならいけそうだということになって、満を持して南新町に「さぬき一番」の本店を出したんです。昭和46年当時、あそこ(南新町辺り)は飲食に関しては一等地だったと思います。

「さぬき一番」の大繁盛

 昭和52年ぐらいだったと思いますけど、隣のワルツレコード店に森進一がサイン会に来たんですが、女の子に取り囲まれてうちに逃げ込んできたことがありました。うどんを食べてもらったりお茶を出してあげたりしたら、後から本人から礼状が来て、うどんを気に入ってくれてあちこちでお店の宣伝をしてくれたようなんです。そんな宣伝効果もあって、南新町のお店は順調に売り上げを伸ばしていきました。
 
 当時の売り上げは、箸の数で1日平均500人ぐらいでした。1000人を超えたことはありませんが、多い日は700人ぐらい来ましたね。朝の8時から夕方の6時まで営業して、とにかく繁盛してました。うどん屋は損益分岐点を超えるまでが大変なんですが、一旦分岐点を超えると利益率が高いので、繁盛店はとても儲かったんです。

 そこで、次々に支店を出して行くという流れになったんです。当時の出店費用は一店あたり約1500万円ぐらいで、大きい店だと2000万円ぐらいでした。東は引田の方まで出店しましたね。「さぬき一番」は繁盛店だったので、うどん打ちを修業して独立したいという人や、県外からの弟子入りも多く、マルナカの国分寺店の中に支店を出したり、福岡町のRNCランドの中にも出したりと、直営店が最大で8~9店舗ぐらいになったと思います。

 記憶に残っているのは、昭和53年か54年頃だったと思いますが、桑田善央君と言って当時の高島屋の支店長クラスの方のご子息が、うどんの修業をするためにさぬき一番へ入社したんです。慶応大学を出てるのに「うどん屋をやりたい。給料は要らんから教えてやってくれ」と上品なご両親が頼みに来て、アパートまで自分で用意して修業してたんですが、後に東京に帰り、瞬く間に桑竹庵という5店舗とか6店舗のチェーン店企業に発展したという事例もありました。その縁で、高松から柏や京都の高島屋とかに手打ちの実演販売にも行きました。

さぬき一番の弟子で東京で成功してるのは、二子玉川で1982年に開業して人気のうどん屋になっている田中君。さぬきうどんを使った焼うどんとか長崎ちゃんぽんで有名な「どんたく」というお店で、何度かTVにも出ました。

もうひとり、東京で儲けたのは森ビルの地下で「さぬき富士」といううどん屋をやっていた、西通り町のうどん屋の息子さんの青木君ですね。20年以上やってましたが、ビルが再開発になるのを機に閉店して今はこちらに帰って来てます。

 ちなみに余談ですが、当時、儲かりすぎてちょっとした失敗もありました。「さぬき一番商事」という別会社を作って、持ち帰り寿司の全国チェーンの「小僧寿し」の高松の権利を購入。通り町店やRNCランド内店等、高松市内に何軒かチェーン展開をしたんですが、少しだけ時代が早かったんですね。あまり順調に行かず、結局、お店や権利一式を売却することになってしまいました。ところがその後、持ち帰り寿司のブームが起きたんです。あれは4~5年ぐらいタイミグが早過ぎましたね。

「さぬき一番」の讃岐うどん界への貢献

 それから、だんだん競合店が増え始め、暖簾分けということで直営店を減らしたり、どんぶりだけ使わせて「さぬき一番」の名前は使わないお店とか、割と自由に今でいうリストラを進めました。最後は結局、南新町の本店も閉店することになったんですが、巣立ったお弟子さんは多く、1年ぐらいしか修業してないのに関東で20軒のチェーン店を出した人もいました。県内でも、「さぬき一番」の名前のお店はもとより、志度の「源内」さん、新田の「善や」さん、今里の「大円」さんも、親父が指導したお店です。

 そうやって「さぬき一番」で修業した職人が全国に散らばって讃岐うどんのお店を開業し、そういうお店で讃岐うどんを食べた人が「今度は香川県まで行って本場の讃岐うどんを食べてみよう」という波及効果をもたらすことによって、讃岐うどんの普及にも貢献できたと自負しています。また、先代は「讃岐うどんと呼べないようなうどんを出していたら讃岐うどんの足を引っ張ることになる」と言って、弟子のお店をよく訪問し、どんなうどんを打っているかをチェックしに出かけていましたが、そうした品質へのこだわりも、全国に讃岐うどんの美味しさが波及した要因になったと思います。

 その頃、私は建築会社に就職しており、「さぬき一番」の経営は弟がやってましたが、当時は景気がよかったということもあって、皆さん仲もよくて組合も活発に活動を行っていました。全国で行われる製麺組合の大会に出かけて行ったり、高野山に献麺に行ったりと、和気あいあいとやってましたが、その組合活動も讃岐うどんの発展に貢献したと思っています。

 そういうわけで、「さぬき麺業」と「さぬき一番」はいわば兄弟会社のようなものだったんです。ちなみに、さぬき麺業の創業の時に銀行に個人担保を入れていたのは香川専務とうちの父の安藤常務だけでした。だから、最終責任という意味では、二人が実質的経営者だったといってよいと思います。当初は麺業の経営も厳しく、二人で金策に走り回ったという盟友で、「さぬき麺業」と「さぬき一番」は兄弟会社ながらも特別深いつながりがありました。かっこいいことを言うわけではありませんが、「さぬき麺業」と「さぬき一番」は本当に心から讃岐うどんの発展を願っていたと思っています。

「さぬき一番」のその後

 その後、昭和60年に初代の安藤竹太郎が亡くなったのを機に、安藤家が持っていたさぬき麺業の株を香川さんに渡し、さぬき麺業の持っていた「さぬき一番」の株を安藤家が買い取り、後に他の方の株も買い上げ「さぬき一番」は安藤家の会社になりました。そして、資本提携がなくなった後もお互いに成長の波に乗り、店舗を増やしていきました。兵庫町では「さぬき麺業」のお店とうちの「さぬき一番」が向かい同士になったりすることもありましたが(笑)、その後もお土産麺をさぬき麺業から仕入れたりと、良い関係は続いています。

 「さぬき一番」の開業に参加され、高松駅前で「井筒うどん」を営んでいた鳥塚さんは、息子さんが歯医者さんになったりして跡取りがいないということもあって、駅前の開発で立ち退きになったのを機に、引退されました。

 乾麺製造業の「富田製麺」の富田さんは、高齢だったのと、こちらも跡継ぎがいなかったので引退され、「讃高商亊」の富田さんは、その後製麺業を始められ、「富田屋」という屋号で川部で大きな工場をやられています。「さぬき麺業」の設立メンバーだった「中原食糧」の中原さんは、うどん業界からは引退されましたが、そのまま元の成合で米関係のお仕事をされていると思います。

「さぬき一番」社長の目から振り返って

ーー最後に安藤武士氏の弟さんの孝廣氏(「さぬき一番」社長)にも、当時を振り返っていただきました。

安藤孝廣氏
 さぬき一番は、さぬき麺業の食べさせる店として発足した後、ほんとによく時流に乗って成長しました。さぬきうどんの発展にも貢献できたと思っています。最終的にはさぬき一番の本店は閉店してしまいましたが、親父の教えた讃岐うどんは弟子たちの手によって発展していくと思います。

 本店を閉店させた後に私自身気がついたことがあります。やっている時には分からないことが止めると見えてくるわけです。こういう機会ですからお話しておきたいと思います。

 「さぬき一番」は発足の経緯から船頭(株主)が多かったので、みんなが自分の顔であっちに店を出そう、こっちにも出そうと店を出し過ぎたと考えています。いろんなところから出店しないかという話がきて、引田店とか岡山の天満屋にも3軒出したりして、赤字店を増やすハメになったんです。私は新店がオープンする度に応援に行きましたし、最後の閉店の後仕舞いまで全部やりました。

 天満屋に出店した頃は、材料から社員の給料まで全部、高松からフェリーに乗って運んでいたんです。そのためにカローラのバンも買いました。天満屋のオープンの際にはまだ取引銀行さえも決まってなかったというのが実情です。急激な業務拡張にロジスティック(物流システム全体)が追いついてなかったんです。まだ瀬戸大橋が開通してなかった頃ですからね。お店を出して3年ぐらいして、ようやく瀬戸大橋が開通したんです。

 うちの南新町の店は家賃でやられましたね。隣がマクドナルドだったということでも分かるように、高松市内の一等地だったので家賃がものすごく高かったのです。一番最初に借りた時の家賃が月33万円でしたが、それからどんどん上がっていきました。当時はバブルでお隣の丸亀町商店街だと一坪が5万ぐらいになりましたからね。たしか一番高い場所は坪10万円ぐらいまで上がったはずです。

 うちの兵庫町の店でも、家賃が一番高い時が月額80万円までいきました。だから、閉店するまでに1軒だけで2億円ぐらい家賃を払ったと思います。止めてから初めて高い家賃を払っていたと気がつきました。やってる時は、周りのお店も同じぐらい払っているから高いと気づかなかったんですね。止めて後で「郊外にお店を出していたらよかった」と後悔しました。あの頃なら南バイパスとかはまだ安かったですからね。 

 当時は景気が良くてね。一番良かったのは、瀬戸大橋ができて次の1年というのが一番忙しかったですよ。私もさぬき麺業の宇多津店の開店の時に1ヶ月手伝いに行ってましたが、あの店は一番良い時には1日で150万円から200万円近く売上がありましたからね。「ヒット店を出せばあんなに売れるんだ」と、私たちが強気になったのも無理もないところです。

安藤武士氏
食べさせる店としてスタートした「さぬき一番」と「さぬき麺業」の違いは、経営地盤ですね。「さぬき麺業」の強いところは、お土産麺販売である程度のシェアを持っているので、少々景気がどうこうなっても安定度があることです。

何より、最初は工場は作らないといけない、機械は買わないといけない、ということで、借金してどんどん投資が先行するんです。だから売り上げに対して償却がものすごく大きくて大変だったんですが、10年、15年経ったら建物の償却は終わるし、機械の償却は終わるし、貨幣価値も変わって土地などの負担も少なくなる、インフレで売り上げも増える、という好循環で、ほとんど無借金経営という状態になったんです。

そしたら出店計画なんかも余裕が出るから、危ない橋を渡る必要がなくなり、絶対儲かるという場所を選んで出店できるようになるんです。採算が悪くなった店は無理して続けなくても閉店できるし、とにかく良い方に回るんです。その点、「さぬき一番」は最初はそれができないから、無理に販路を広げないといけないのが大変だったんです。ここが「さぬき一番」と「さぬき麺業」の大きな違いだったと思います。

取材を終わって

 安藤さんのアルバムを見せていただきましたが、製麺組合の面々で高野山に献麺に行ったり、組合の旅行でいろいろなうどん屋さんが集合写真に写っていたり、とにかく皆さんが儲かっていたので仲が良かったのだなあと感じました。

 地場産業の素麺業界と違って、地域の一食べ物に過ぎなかった讃岐うどんを産業までに押し上げたのは、香川さん、安藤さんなど当時の製麺組合幹部の先見の明が大きく貢献していると思います。現在のさぬき麺業の香川政明社長のお爺さんの菊次氏は「当代第一のうどん打ちの名手」と言われて有名ですが、その技術と都会型の経営手腕が出会ったことが、讃岐うどんが他のご当地うどんに先駆けて全国進出に成功した勝因だと思われます。

 また、さぬき麺業の香川政明社長、甥の大久保兄弟、政明氏の実弟でサヌキ食品株式会社・香川屋本店の香川仁均社長、さぬき一番の安藤社長、この方々のお弟子さんに当たるいわゆる香川菊次門下生によるさぬきうどん品評会、技能グランプリの入賞は、実に全体の受賞の何分の一かを占めています。まさに香川菊次氏の卓越した製麺技術と、さぬきうどんに対する熱い思い入れがさぬきうどんをここまで美味しく成長させた要因のひとつだと確信しました。

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