さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

はなや食堂・外観

【はなや食堂(善通寺市)】
善通寺の「食堂型うどん店」の歴史を体現する一軒。「うどん屋のおでん」と「本家丸亀製麺」の謎も明かされる?!

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 4
  • 2016.01.21

第一話

はなや食堂・前編

聞き手・文:田尾和俊
お話:はなや食堂の女将さん(昭和12年生まれ)

外から見たはなや食堂。築100年の建物だけあって、間口の狭さや鴨居の低さには昔のまま。

外から見たはなや食堂。築100年の建物だけあって、間口の狭さや鴨居の低さには昔のまま。ちなみに奥の2階は隣の家です。

 はなや食堂は、善通寺市の郊外に残る食堂型うどん店の“歴史遺産”のような一軒。昭和40年代あたりまでは「食堂」色が強い店だったようですが、昭和48年に今の女将さんが店に入り始めて以降、だんだんうどん主体の店にシフトし初め、平成に入って讃岐うどん巡りブームが到来すると、そのノスタルジックな外観と営業スタイルと女将さんの飾らないキャラ(?)がおもしろがられて、讃岐うどん巡りには欠かせない趣のある一軒として人気を集めています。その歴史を振り返ってもらったところ、知られざる事実が次々と明らかに…

<昭和12年〜昭和36年>

 「はなや食堂」の女将さんは、昭和12年に丸亀市中府町で生まれ、昭和37年に今のはなや食堂に嫁いで来るまではずっと丸亀に住んでいました。まずはその頃のお話です。

善通寺のはなや食堂の女将さんの実家は、丸亀の食堂(戦前)〜製麺屋さん(戦後)

ーー 番最初のうどんの記憶からお願いします。

女将
私は昭和12年に丸亀の中府町の金毘羅街道の筋にあった家で生まれて、結婚するまでずっとそこに住んでたんよ。その頃(戦前)の丸亀の実家は、私のおばあさんが食堂をしよったん。それで父親は兵隊に行って、戦争が終わって兵隊から帰ってきて、家で製麺屋を始めたんよ。うどんを作って玉の卸しだけするうどん屋な。

ーー 「戦争が終わって帰って来てうどん屋を始めた」という話を、いろんなところでよく聞きますね。

はなや食堂の店内。建物はもちろん、店内にあるもの全てが歴史を感じさせてくれます。

はなや食堂の店内。建物はもちろん、店内にあるもの全てが歴史を感じさせてくれます。手前にあるのは黄色い天ぷらを揚げるフライヤー。

女将
昔のうどん屋さんいうのは、元手がいらなんだからや。練るもんと、めん棒と板と、あと五右衛門釜さえあったらうどん屋はすぐ始められる。それでうちの父親も始めたんやろな。昔は「困ったらうどん屋せえ」言うてな、そいな時代やったきんな。

うちの父親は、うどんを練る大きな器と、うどんを切る道具ぐらいは揃えとったわ。器は陶器でできとってな、直径が1mぐらい、深さが40センチぐらいあったやろか。平べったい大きな器でな、陶器やから表面はツルツルや。それに粉を入れて塩水を入れて練る。ほんで何キロかの塊(団子)をようけ作って、10分か20分か置いといて、今度はそれをゴザの上に置いて、ガサガサした厚い布で生地を挟んで足踏みするんや。あの布は「ほ」言いよった。船の「帆」に使う布やったんやろか。とにかくごつい布やったわ。

それで、踏んでは丸め、踏んでは丸めして、3回ぐらい丸めて大きな塊になったのを四角いきれいな形に押し広げて、目方を量って切って、一つずつ「てんまる」いうて、また丸くする。それを麺棒で延ばして、たたんで切って麺にするんよ。麺に切るのは、牛の餌のワラを切る飼い葉切りみたいな道具があってな。台の上に敷物を敷いて、その上にたたんだ生地を乗せて、道具についとる庖丁で切っていったら下の台が動くやつな。

ーー うわ、また「下の台が動く麺切り機」が出てきた。

女将
その頃はたいていみんな、そういう道具を使いよったん違うかな。あれは雨が降ったら敷物がちょっと膨れたりして、なかなかうまいこと麺が揃わんのや。太くなったり細くなったりして。私の父親はものすごく凝り性で、うどん一枚延ばして切っても、きれいに切れて角が立って、麺がシュッと真っ直ぐになってないと納得せんのや。ラーメンは麺がねじれたりしとるやろ? けど「うどんは真っ直ぐやなかったらいかん」言うて。ラーメンの麺も手掛けよったで。かん水を買うてきて生地をこしらえて、きれいなラーメンの麺を作りよったで。

練る時も自分で考えて、ちょっと違うことしよったな。最初に粉と塩水入れて混ぜよったら、だんだん粉がくっついてくるやろ。そしたらそれをちょっとずつ、梅干し大ぐらいに取って、陶器の鉢に押し当てて擦り込むみたいにしては練り、擦り込んでは練り、みたいなことをしよった。そうやったらうどんになった時の光沢いうんか、麺にツヤが出るんよ。そのやり方を自分で見つけて、これは人に見られたらいかん言うてな。日清製粉の偉もんさんが背広着てネクタイ締めて来たりしたら、その作業は絶対に止めてやらんかった。まあ確かに、父親の作るうどんがおいしかったのは覚えとる。

ーー 作ったうどん玉はどこで売ってたんですか?

女将
八百屋や食堂に卸しよった。私が子供の時にも、丸亀市内の食堂に何軒も配達しよったきんな。朝5時ぐらいに配達に行って、夕方3時頃に「足りんようになったから(セイロ)2枚持って来てくれ」とか言われてよう持って行きよった。売れる食堂は1日に100玉以上行きよったやろ。それが昭和20年代やわ。

ーー 卸先で一番の大口はどこでしたか?

女将
「あたりや」やな。丸亀の南条町の乃木ぞうりの2軒隣にあった「あたりや」いううどん屋が一番の大手やった。今も「あたりや」いう店があるけど、あれとは違う。もうなくなった店や。

ーー 食堂以外の個人売りみたいなのはありましたか?

女将
法事や祭りの時には個人の家からようけ注文が来よった。うちは丸亀の中府やけど、ちょっと南に行ったら大きな百姓の家がようけあって、法事になったら100玉や200玉の注文が入りよった。法事のうどんは、たまに家でダシを作ってかけうどんで食べるところもあったけど、たいてい湯だめで食べよったな。何で湯だめだったか、理由はわからんわ。

あと、年末にもうどんが出よったで。みんなが大八車に臼や杵を積んで集まって正月用の餅をつくんやけど、その時にうちからうどんを出すんよ。餅つきの作業のおやつみたいなもんやな。みんな醤油をかけて、3玉、4玉いうてようけ食べよったわ。

丸亀市の本家「丸亀製麺」は、昭和40年頃、はなやの女将さんのお父さんたちが作った!

ーー 女将さんは子どもの頃に、家の製麺屋を手伝っていたんですか?

修正跡が無数にある、年季が入ったメニュー表。

修正跡が無数にある、年季が入ったメニュー表。

女将
手伝わされよったで。うどんを踏むのもやらされよったし、配達にも行かされよった。うどんを踏む時は、最初の柔らかいうちは踏めるけど、そのうち弾力が出てきたら、子供では体重が足りんから踏んでも体が持ち上がってちゃんと踏めんのよ。そやから、メリケン粉の25キロの袋を肩に載せて踏まされよった。

それより、自転車でうどんの配達に行かされるのが嫌で嫌で。小学生の時やから、体が小さいから家の自転車のサドルに乗ったら足が届かんのよ。そやから自転車の三角のフレームの中に足を入れて“三角乗り”して配達しよったんやけど、そういうことより、あの頃はあんまり大きな声で言えんけど、あの辺で女の子がうどんの配達するいうのはあんまり良うないイメージがあってな。そやから、うどんの配達しよんのを見られるのがほんまに恥ずかしかったんや。

うどん屋と豆腐屋な。サラリーマンの子はそういうことはないけど、戦後すぐの頃はうどん屋さんとか豆腐屋さんとこの子供は、みんな恥ずかしがりよったな。「なんや、うどん屋か」とか言われよったからな。妹は昭和24年生まれで私と12歳違うから、そういうのはわからんやろけど。

ーー 家でうどんは食べてましたか?

女将
朝は食べよったな。前の日の宵に作って湯がいたうどん玉を置いといて、朝の作業が一段落した時に朝ご飯で食べよった。母親がダシを作って、横に豆腐屋があったからそこから分厚いお揚げを買うてきて、それを刻んでうどんに載せてかけうどんで食べよった。出来立ちのうどんは醤油とか冷やしがおいしいけど、「かけうどんは宵のうどんの方がおいしい」言うてな、麺がちょっと柔らかくなってダシがよう染み込むから言うて。

ーー 丸亀の実家の製麺屋さんは、いつ頃までやっていたんですか?

女将
私がここ(はなや食堂)へ来たのが昭和37年やから、昭和40年ぐらいまではしよったと思うな。その頃、丸亀のうどんの卸屋さんが5〜6軒集まって共同で「丸亀製麺」いうのを作って、それからはそこで作るようになった。

ーー 本家の「丸亀製麺」は、女将さんのお父さんたちが作ったんですか!

女将
そうよ。今、全国でしよる丸亀製麺いうのとは違うで。あれは最近になってからやり始めたよその県の会社や。名前はすっかり持って行かれたけどな(笑)。

中編に続きます

はなや食堂・外観

善通寺市

はなや食堂

はなやしょくどう

〒765-0031

善通寺市金蔵寺町838-2

開業日 明治中期頃

営業中

現在の形態 一般店

(2015年7月現在)

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