香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市上林町・昭和6年生まれの男性の証言

戦前から家で打ち込みを食べていた

(取材・文:

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  • vol: 286
  • 2018.12.24

小麦も野菜も味噌も自家製の打ち込み汁

小さい頃のうどんの記憶をお聞かせいただけますか?
 うどんの記憶があるんは、わしがなんぼぐらいだったか、3つか4つの頃(昭和9年~10年頃)小麦粉を練ったのをこんまい(小さい)板の上で伸ばして切って、そのまま味噌汁の中に入れたのを母親の膝に抱かれて食べたんを覚えとる。打ち込み汁かな。具の野菜は自分ちでとれたやつで、味噌も自家製だった。小麦も家で、米の裏作で作っりょったやつで、それを農協で粉に挽いてもらいよった。

 戦前にこの辺に住んどった人は、みんな一回引っ越しさせられとるんや。昭和18年の12月に村民がみんな集められて、「軍が飛行場を造る」いうんで立ち退かされたんよ。うちもその時引っ越しをした。そのあと終戦になって、昭和23年頃に飛行場の滑走路を一本だけ置いて他の土地は全部元の持ち主に返されて、返してもろた人は毎日、そこを畑に開墾しよった。機械なんかない時代やから、みんな手作業や。

 今はここら辺みな水田になっとるけど、戦後はずっと畑やったんや。何でかというと、開墾しても三谷の三郎池の水利権をくれなんだから、水が引けんから水田ができんのや。飛行場ができる前は水利権があったんやけど、一旦飛行場になって、それを返されて開墾したら水をくれんということになって、仕方なく、米でなくて小麦とか豆類を作るしかなかったんや。

このあたりに製麺所ができたのはいつ頃でしたか?
 製麺所は終戦後、農地解放になってから農協で製麺しよるんと、個人でしよるんができたな。水車はな、六条の高原水車。それからもう一軒、古川の向こう手だったんかいの、あの辺にもあった。
当時は、他にどんなものを食べていましたか?
 普段はその打ち込み汁か団子汁が多かった。たまにどじょうも入ったか。団子は米粉の団子をこうやって握ってな。米のご飯も、戦争が激化するまでは普通に食べられとった。それからだんだん戦争が進んでいったら、どこから来よったんか、「ナンキン米」とか「チャイナ米」いう細長い米が来始めてな。パサパサで粘り気がないけど、麦よりは白くておいしいから、それを普通の米に混ぜて食べてたわな。

 あとは、お芋の葉っぱとか大根の葉とかを雑炊に入れて食べたりもしよった。サツマイモのつるを油で炒めたのは、甘みがあってまあまあおいしかった。それから、どんぐりの粉も配給で来よったな。昔は供出いうんがあってな、米の供出の代わりに山からどんぐり採って来たりしよった。けど、どうにも食べられなんだんがイナゴ。イナゴを学校の生徒に獲らせて、それをおやつみたいにポケットに入れとって。食べろ言われたけど、あれは食べられんかったなあ。まあ、戦前戦中の話やけどな。

法事と祭りと半夏にうどん

うどんの風習の話ですけど、法事の時にうどんは出しましたか?
 出す出す。一緒に寿司もしよった。近所も法事にうどんを出しよった。けど、うどんを持って帰らすまではしよらなんだな。宗派は一向宗や。あとは祭りや市にもうどんは出よった。細ネギに、天ぷらとかナルトとかが入っとったな。
半夏生にうどんは食べてましたか?
 7月2日の半夏までに夏の田植えをだいたい終わらすんやけど、遅れとるところは手伝いに行ってな。それでみんなでうどん食べる。うどんは打ち板に90センチくらいある長い麺棒で、たいがいその場で打ちよった。どじょうとかも入れて打ち込みにしてな。
うどん屋に食べに行くことはありましたか?
 子供の頃はうどんはたいてい親が自分ちで打っちょったから、あんまりうどん屋には行ったことないな。年寄りに連れられて仏生山の法然寺のお涅槃とかに行った時に、うどん食べて帰ったことがあるぐらいか。あとは、今はもうしよらんと思うけど仏生山に「葵堂」いうお菓子屋があって、そのそばにあったうどん屋の鍋焼きうどんがうまかったな。触れんぐらい熱い鍋でな。

 のちにおいしいと思うたんは、連絡船の甲板で食べたうどん。最近はそこの穴吹の玉を買うて来て、家で醤油かけて食べよる。

●編集部より…久しぶりに戦前の証言を頂きました。うどんの話はもとより、「ナンキン米」とか「チャイナ米」とか、戦時中の食生活の話は聞くたびに“初耳”の話が出てきます。「讃岐うどん・昭和の証言」のデータベースプロジェクトの副産物として、昭和の「食」ネタもお楽しみいただければ幸いです。

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