香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

観音寺市大野原町・昭和24年生まれの女性の証言

第67番札所大興寺でお遍路さんのお接待を受け継ぐ(サイトウ美容室・齋藤清美さんのお話)

(取材・文:

  • [showa]
  • vol: 302
  • 2021.03.11

明治時代から大興寺でお遍路さんの「うどんのお接待」を続けてきた

お接待の百葉うどん

お接待の百葉うどん

大興寺でお遍路さんに「うどんのお接待」をされているそうですね。
 毎年4月の第3日曜にしてます。私は昭和50年にここへ嫁いできたんですけど、その時にはこの家のおばあさん(齋藤マサさん・姑さん)がお接待をしよりました。お接待の時期が来たらおばあさんが「ちょっと行ってくるわ」言うてな、おじいさんとお接待集めに行きよった。おばあさんは明治43年生まれですけど(平成25年8月に103歳で他界)、おばあさんが子供の頃にはその親がお接待をしよったそうやから、たぶん明治時代からしよったと思う。20年くらい前から私もおばあさんといっしょに手伝いで出るようになって、10年か11年ぐらい前におばあさんの調子が悪うなってきてからは私が受け継いでな。
第67番札所 小松尾山 不動光院 大興寺

第67番札所 小松尾山 不動光院 大興寺

具体的にどういうことをされるんですか?
 お接待の日までにひと月くらい地域の家を回って、お接待に使うお米やお金を集めるんです。その集めたお金でおうどん買って、道具から何から全部持ってお寺に行って、そこでお接待をするんです。
お寺がお接待しているんじゃなくて、地域の人でしているんですね。
 お寺さんには場所をお借りするだけで、お接待は私らがするんです。ガスや電気や水道はお寺さんが使わせてくれるから、あとでお寺にお礼をしてね。おばあさんの親がしてた時は、自分ちから猫車みたいなん引いて、茹でる釜もダシの釜も、打ち板、棒や何か丼とかから、お接待で集めたうどん粉や、お米やも全部持って大興寺まで行きよったん。それで、お寺でうどんを打って薪で炊いてしよったって、おばあさんが言いよりました。おばあさんは小学生の頃、学校に行く前に親から「小学校からもんたら(帰ったら)な、来いよ。おうどんの接待しよるきんの」って言われて、学校から帰ったらそこの山を越えて大興寺まで歩いて行きよったんやって。

地域の人が支え合って続いて来た「お接待」

地域のみなさんが作ってくれている百葉

地域のみなさんが作ってくれている百葉

刻んだ百葉がたくさん

刻んだ百葉がたくさん

おばあさんが『お接待帳』を付けていたそうですね。
 お接待が戦争で止まって、戦後、再開したのが昭和48年です。その時からおばあさんがお接待を集めたのを付けた帳面があります。昭和48年の4月から、どこの家から何をいくら出してもろて、何に使ったとかいうのを全部付けとります。

(お接待帳を見ながら)昭和48年は…(地域のお宅から)300円とか、お米とか小豆とかもろたりしとるね。お米と小豆は炊いて小豆ご飯にするんです。集まったお金で、おうどんを買うて、お揚げ10枚とか醤油1升、イリコ3袋…「フアンタ」? ははは、炭酸のジュースやな(笑)。「みかん水」、みかん水いうのは炭酸の入ってない黄色いジュース。お菓子も買うとる。この辺は手伝いしてくれる人のおやつだったん違いますか?

 うどん代は「3000円」とある。けど、玉数は書いてないな。次の年の昭和49年が「うどん代5600円」で「200玉」と書いてあるから、1玉が28円でしょ。そしたら昭和48年は110玉くらいになるんかな。それで49年に200玉やから、1年でだいぶ増えとりますね。この頃から昭和50年代はお遍路さんが今よりずっと多かった。大型や中型のバスが毎日のように15台も20台も来よったです。

 「お遍路さんから50円」いうのがあるな。おうどんよばれた(ごちそうになった)お遍路さんがくれたんやな。今でも5円とか10円とか100円とかいうて出してくれるお遍路さんがありますよ。「これはお接待やからいいんですよ。またお賽銭にしてください」言うて返すんやけどね「いやいや、よばれたきん」言うて置いて帰ってくれる。

 それから、昭和52年は「うどんが300玉で1万500円」ということは、1玉が35円に上がっとる。お揚げが20枚で800円、イリコが850円、それに醤油1升、てんぷら、お菓子…。「お寺にお礼で4000円」って書いてある。

 昭和54年もここに「300玉」て書いてある。お金も2万円以上集まるようになっとる。バナナも買うたり、「キヤンデー」、「フアンタ」、スルメ、袋チクワ、お供えのお米。お寺の本堂へお米2升と、おうどんもお供えするんですよ。それで、最後にお金が少し残ったら本堂でお賽銭にあげるん。こっちにお金が残らん方がややこしくないでしょう。

 あとは、昭和56年が「420玉で2万円」だから1玉47円くらい。昭和57年が「500玉で2万5000円」、昭和63年が「700玉で3万5000円」で、この頃は1玉50円になっとるね。あとは……平成19年から平成26年は1000食出してますな。平成27年からは900玉。

お米は買ってないんですね。
  お米はね、買わんでも昔は1斗以上、集まりよったんや。今はお米作るとこ少なくなって、作っとるとこに無理言うてお米でもらうこともあるん。それでも8升か9升ぐらいは私が集めよる。小豆も作ってくれる人があって1升ぐらい作ってくれるんですよ。それでお接待の時に、米を3升と小豆を3合ずつ3回炊いて小豆ご飯を作るんです。おばあさんの前の代は薪で炊っきょったらしいけど、おばあさんがしよる時はガスだった。

 ガス台は二つ使うんやけど、裏の大鍋でダシ煮るとこのはお寺が貸してくれて、もうひとつお接待のテントでダシ温めるとこのは持って行くんです。それは前は農協から借りたり、今はガソリンスタンドの人が貸してくれたり。釜は町役場から借りるんです。役場の人が「齋藤さん、これ潰れたらな、もう町役場ではそういうお金がないから買えんから、壊さんように、潰れんように。修理はさしてもらいますから大事に使てください。壊れる前に、壊れかけたら言うてください」って言われたんや。

本当に地域のいろんな皆さんが支え合って続けてこられたんですね。
 みんなようしてくれる。白川義樹くん(株式会社河内小学校社長・証言vol:292)に「お接待、百葉(ひゃっか)うどんがあるよ」って言うたら、10年以上前から来てくれてね。スポーツ少年団のコーチか監督しょって、「練習や試合に行って、帰り早かったら来てな。うどん何杯でもおかわりしてくれたらええけんな」って言うたら、親も子供もいっしょに来てくれる。3杯、4杯いうて食べてくれてな。ほんでまたその子たちが10年、15年経ったら大人になる。私が集金に行ったら、その親がおらんででも息子さんが立て替えて出してくれたりする。そうやってみんなが気持ちようにお接待してくれるんがええわいなあ。

お接待の時だけ作る「百葉うどん」

下茹でアク抜きせずにそのまま大鍋で炊く

下茹でアク抜きせずにそのまま大鍋で炊く

大鍋で百葉入りのダシを炊く

大鍋で百葉入りのダシを炊く

「百葉うどん」というのは、どんなうどんですか?
 百葉(ひゃっか)いうのは、高松の方に行けば「万葉(まんば)」言う。「まんばのけんちゃん」て言うでしょ。これがずっと山の方行ったり、徳島の方に行ったらね、「千葉(せんば)」言うんやって。ほなけどみんな同じもんじゃて。ここは「百」、山手は「千」、東は「万」。百や千や万や言うんは「葉がようけ出る」いう意味やろね、私はそう思とるんやけど。その百葉と揚げの刻んだんを、うどんにかけるダシに入れて炊くんです。

 ダシはやっぱりここの地元のね、伊吹産のいりこじゃいな。それと昆布と。昔はかつお節も入れよったけど、今は入れてない。もう作る人がな、「めんどくさいけんこれでええわ」って、本だしとか味の素とか、そういう化学調味料も入れてな。うちの息子は小さい時に食べたん覚えてるから「昔の味と違わいな。もうちょっとダシが濃いかったと思う」言うてな。ほんで今のかけうどんみたいなんじゃなくて、濃いめのちょっと甘辛いダシを小さいお玉に1杯だけかけて、うどんにからめて食べよった。

 10年前の「へんろ新聞」(伊予鉄不動産発行のお遍路情報誌『へんろ』)が載せてくれた時に「ひゃっかのうどん=ひゃっかと油揚げを入れた少し濃いめのダシが特徴」て書いとるけど、この10年間でも味が変わってきとるんな。今の人は「塩が濃い」とか言う人多いじゃないですか。だからちょっと薄めにして。ほんで「ダシいっぱいかけてくれ、少なかったらうどんが食べにくい」ってお遍路さんに言われるからダシ多めにして。結局、昔より味が薄うなっとんね。ダシをいっしょに飲めるような感じ。よそから来た人はやっぱり、ダシを飲まんかったらいかんみたい。ほんだけん今はダシ薄めでね、多めに炊くん。

 でも百葉は昔からずっと入っとったみたいですよ。百葉はね、私がお接待集めに行った先の人にもらう。この辺の皆、自分とこの食べるために作ってるんです。農家の人やいろんな人が作ってくれるん。冬の百葉は柔らかくてきれいなんですけど、お接待をする4月の第3日曜の頃は硬くなってトウが立ってくるんです。だけん普通、家で百葉を料理する時は湯がいて水で晒してアクを抜いてから料理するんな。ほなけど、お接待の時は百葉を刻んだら湯がかんとそのまま鍋に放り込むん。そやのに、あれほどの百葉入れてもアクがあんまり出んのよ。アクが少ないからダシが全然黒にならんで、それを不思議がってお遍路さんやお客さんが裏まで見に来るわ。あれ、おばあさんやは「アクが少ないんはお大師さんのおかげや」って言うてたみたい。

福井生麺所のうどんに百葉のダシをかける

福井生麺所のうどんに百葉のダシをかける

お接待の日はお遍路さんや参拝客、地元の人など大勢の人で賑わう

お接待の日はお遍路さんや参拝客、地元の人など大勢の人で賑わう

このあたりでは家でも「百葉うどん」を作って食べるんですか?
 家では作らん。「百葉うどん」はお接待の時だけ。お接待食べに来た人がな「家でもできるな」言うてくれるし、「できるよ」言うけど家ではせんのですよ。家でアク抜いた百葉と揚げや豆腐と炊いて「お雪花(おせっか=まんばのけんちゃん)」してでもね「これうどんに乗したらええのお」は言うけど、うん。乗せては食べん。
お接待に使ううどんの玉はどこのものですか?
 「福井生麺所」いうて、豊中の本山の駅のちょっとこっち手前にあるんですよ。2年前からここへ変わったん。その前は財田にね「橋村」いうおうどん屋さんがあって、私が嫁に来る前から何十年もずーっとそこから取りよった。お接待の時は1000食持って来てくれよったん。ほんで橋村さんが2年前にやめて、福井さんを紹介してくれたん。
「百葉うどん」は、お遍路さんのお接待用の特別なうどんなんですね。それを代々受け継いでお接待集めから準備、片付けまでされてきたのは、とても大変なことだと思います。
 まあ一番大変なのは、お接待を集めることやな。毎年65軒くらい集めに行きよります。農家は晴れとったら田んぼ行ってるから、雨降っとる時とか、昼ご飯に帰って来る頃に行ったり。農家でないとこもお金もらいに行くにのあんまり朝早うには行けんな思いもってな。そんな感じで、お接待集めるのに20日ぐらいかかるん。そやっておばあさんが『お接待帳』を付け始めた昭和48年からもう50年近くになります。

家で作るのは生麺のうどん、店で買うのは乾麺

では改めて子供の頃のうどんの記憶を教えてください。
 昭和24年に大野原の農家で生まれて大野原で育ったんやけど、昔はようけ田んぼ作っとった。家では祖母が足で踏んで板で延ばしてうどんを作りよった。炊いたご飯が少なくて足らない時にちょっとそうめん茹でたり、雨が降って田んぼができん時に「ほなうどんしょうか」言うてうどんしたり。お店に行っておうどん食べるというのは、子供の頃はあんまり記憶ない。何かの時には家で作ってくれよったけんな。

 うどん打つ道具はどこの家にでもありましたよ。煮込みうどんやそばを、揚げや野菜入れて食べよったわいな。今で言うしっぽくかな?  打ち粉が付いたままのうどんを入れるけん、汁が粘いんな。炊いていってたらドロドロに粘くなるけど、そら寒い時にはそれがあったまる。寒い時にそれをして、冷やしうどんとかあいなんは夏しょったんやな。

 塩が入ってない団子汁の時もあるけど、おうどんは塩は入ってますね。その塩加減が「土三寒六常五杯(どさんかんろくつねごはい)」言うんな。この辺では「うんさんかんろく」言うて。暑い時は土用のころの「土」やな。その時には塩1に対して水を3。寒い「寒」には塩1に対して水6いうことやから、塩分が薄いわいな。ほんで「常」は春と秋いうことやな、水5杯いうこと。ほんでそのうどん粉を練って、まあ言うたら土用の方が暑い時やから塩効いとる方が腐りにくいし、しゃんとしとるわな。ほなけん、寒い時はその半分の塩でいくと。

 ほんで、買ういうたら乾麺。日持ちするじゃないですか。そのころやから冷蔵庫もなかったし。まあ家で作るんは普通のおうどんやけど、干しうどんや乾麺は「うどん屋さん」いうんが作ってたん。みなさんこれが始まりだったんな。

「植松の小屋」と「斉藤の小屋」の水車が2つ

 私が生まれる前(昭和初期)くらいには、ここ(三豊市山本町辻)から1.5~2キロくらい上がったとこに「植松の小屋」いうんと「斉藤の小屋」いう水車小屋が2軒あったんやって。みんなそこへ小麦やお米を持って行ってついてもらいよったそうです。昔の百葉のおうどんの接待いうたらね、この水車の人が小麦粉をくれよったんやって。水車でお米や小麦をつくのに水を使うでしょ。その水いうのは地元の人みんなのもんやから、水車小屋の人はそれを使わせてもらっているということで、代わりに「おうどんの接待するんや」言うたら小麦粉をくれよったんやろね。昔はそういう感じで。

 その水車小屋は私が生まれた頃(昭和24年)くらいになしなったみたいで、私が嫁に来た時(昭和50年)にはもうなかったんやけど、植松さんいうのはね、石川県の方に行って、加賀の兼六園の前でね「どんすき」いううどん屋さんしよんじゃて。よう流行っとるみたい。その娘さんがな、娘さんいうてももう80歳近いんやけど、その娘さんに聞いたら、水車小屋をしよる頃には干しうどんやそうめんとかの乾麺を作っじょったみたい。

うどん好きは「四十九日」にもうどんを食べていた(笑)

法事にうどんは出ていましたか?
 法事の時もおうどんを食べますね。配ったりもしよった。宗派はここ(三豊市山本町)の家も大野原の実家も真言宗で、宵(前の日の晩)にね、おうどんを配りよった。おうどんを持って行ってな、それで法事を案内するわけ。法事の日は、うちは法事が終わった後で食べるけど、行ったらすぐうどん出してくれるところもあるんな。行ってお仏壇にお参りして下がったら、おうどんがもう出とる。お茶代わりやな。

 ほんだけど、3年とか7年とかの法事の時はおうどんを配っじょったけど、四十九日まではそんなことせんよ。うどんは長いから「悪いことが長く続いたらいかん」言うてな、四十九日まではおうどん食べたらいかん言われる。四十九日の間はな、お祭りのちょうさも触らんので。血が濃いければ濃いほど、百日とか1年とか触らんの。先のおじいちゃんが死んだ時も、お父さん(息子)も触らんし、孫も触らん。

 けどな、そういうのは人の前のことであってな、うどん好きな人はそんなこと関係なしにうどんを食べよった。今44、45歳の人が「おばあちゃんが死んだけん家では食べさしてくれんけん、店で食べようか」言いよったわ。うちも「そんなんええがな」言うてうどん食べよったけど。お父さんや1年365日で400玉くらいは食べよったんちがう? けど、親戚や友達がおるそこの家に行ってうどん食べたいう話は聞かん。悪いことはせん方がええけんね。

高松駅の立ち食いうどんと製麺所のうどんの記憶

お店でうどんを食べたのはいつ頃からですか?
 二十歳前(昭和40年代)に高松の美容学校に通いだしてからやね。大野原の家からバイクで観音寺の駅まで行って、朝6時半の快速の電車に乗るん。今は電車言うけど、国鉄じゃいな。ほんで1時間20分かそこらで高松まで行きよったんやけど、高松の駅の中にね、立ちうどん食べるうどん屋さんがあったん。あそこへ寄って食べるんが楽しみやった。

 高校の時にな、観音寺第一の新体操で有名な磯野先生がね「女の人は職を持って、何か技術を身につけた方がええよって」って話してくれた。芦原すなおのお母さんでな。直木賞の「青春デンデケデケデケ」の芦原すなおが私ら同級生なるんや。その頃、洋裁しよった叔母が高松の美容室の2階に住んどって「あんた美容師もええで」言うてくれて。それもヒントになって美容学校行くん決めたんや。

 それから美容学校を出て、高松で美容師になって。その頃には、楠上町のバス停のそばにあったおうどん屋さんで食べた記憶はある。そこの近くに製麺所があってね。そこでうどんを打っちょんやけど、釜のガバガバ沸きよるところに行って、どんぶり鉢があるからそれに「1玉、2玉」言うてうどん入れてもろて。ネギとダシは用意してくれとるけど、天ぷらはすぐ近くの八百屋さんみたいなお店で揚げたちを自分で買うてきて乗せて食べよった。店の名前は忘れたけど。

嫁ぎ先は「齋藤店」といううどん屋さんをやっていた
 高松で6~7年おって、昭和50年にここ(三豊市山本町)へ嫁いできた時、ここは「齋藤店(さいとうみせ)」いうおうどん屋さんをしよったん。おばあさん(姑さん)がイリコや昆布やかつお節や買うてね、ダシ取りよったん。うどんも昔は自分とこで打ちよったらしいけど、私が来た時は、財田の役場の前にあった橋村生麺所からうどん玉を取り寄せよった。
「齋藤店」はいつ頃まで営業していましたか?
 うどん屋はやめてもう20年近いわな。おばあさんは93歳までは店をしよったから、平成15年頃までは十分しよった。元気だったで、おばあさんは。ここら辺でみかん作ったりタバコ作ったりする人から「今日、うどんを何ぼ頼まい」とか「かき氷を何ぼ頼まい」言うて注文が入るんです。かき氷もしよったんですよ。それで、みかんやタバコをしよる人は忙しい時は手伝いを雇うとるからそういう人の分も頼んできて、そしたらおじいさんが、うどん鉢が3つ4つ入る木の箱、「おかもち」言うんですか、それに入れて持って行きよった。私が嫁に来た頃、そなんしよりました。

 おうどんはおいしかったですよ。今でも60過ぎた人に会うたら、「あんたんきのおばあさんがしよったうどん、おいしかったのにな。今もしよったら、恐ろし…恐ろし…さぬきうどんいうんかな…

『恐るべきさぬきうどん』ですね(笑)。
 それじゃいな。「それに載らいな(載りますよ)」いうて、今でもそう言う人がある。

家で「松茸の入ったうどん」も食べていた

三豊市に嫁いでから、他のお店にうどんを食べに行くことはありましたか?
 たまには行きよったけど、あんまり食べに行かんかったなあ。この辺はすぐそこの国道377のとこに「かな山うどん」があるし、そこからこっち来よったら「まんりょう」いうんもあるし、うどん屋さんはあるんはあるけど、私らは自分とこでおいしいうどんがあったから、あんまり外で食べようと思わんかった。

 行ったいうたら、おばあさん(お姑さん)と満濃のヒマワリ見に行った時に、山の中のうどん屋さんに行ったのは覚えとる。家の中で薪で炊きよって、「ぬるぬる」とか「あつあつ」とかいううどんがあったわいな。あと、善通寺の何とかいうとこも行ったけど、おばあさんが「列んで食べるほどでもないのお」言うて。自分が作って店で出しよったけんな。だけん、うちはあんまりよその店では食べんな。

 おばあさんのうどんは毎日のように食べよった。嫁いできてこっちで美容室をやり始めてから、お昼ご飯におばあさんが家で作ったうどんをおじいさんが毎日おかもちに入れて美容室まで持って来てくれよった。大体かけうどんで、たまには肉うどんとか、松茸が入っとったりしましたけどね。

家で松茸入りのうどんですか!
 40年ぐらい前まで、ここは松茸の本場だったからね。子供らに「よそで迷子になったら『松茸がようけ生えるとこや』言うたら河内村に連れて帰ってくれる」いうて言いよったくらい、松茸で有名な土地だったん。おじいさんは毎日、こんな大きな竹で編んだタナカゴに松茸を60kgぐらい負うて降りて来よったそうですよ。山に入ったら8畳くらいの広さのところにグルグルグルっと輪に描いて一面に松茸が生えとってね、その真ん中ですき焼きしたりしよったらしい。そりゃ昔はすごかったそうですよ。私が来た時はだいぶ減っとったけど、それでも今に比べたらまだまだあった。今思えば夢みたいな話やけどな。

●編集部より…「讃岐うどん」と「四国八十八カ所」と「お接待」は“三題噺”のようにセットでよく語られますが、「明治時代から地域の人がボランティアで、お寺で年に一度、お遍路さんにうどんのお接待をしていた」という具体的なお接待の内容が初めて出てきました。今も初詣等の行事やいろんなイベントの会場などで行政や団体の予算でやっている「うどんのお接待」はありますが、明治時代から続くこういう形のボランティアお接待は、もうほとんど残っていないかもしれません。また、「“まんばのけんちゃん”をうどんに乗せて、濃い目の少し甘辛いダシを少しだけかけて混ぜてうどんにからめて食べる」という「百葉うどん」も、本邦初登場です。ただし、「百葉うどん」は「お接待の時だけ作って家では作らない」そうですから、お遍路さんしか食べたことのない幻のメニューかもしれません(笑)。

ページTOPへ