香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市鶴市町・昭和7年生まれの男性の証言

戦時中は、農協の精米所で小麦と生うどんを交換

(取材・文:

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  • vol: 81
  • 2015.07.16

戦時中は、農協の精米所で小麦と生うどんを交換

昭和40年以前のうどんについてお聞きしたいのですが、7年生まれということは・・・。
 終戦が昭和20年やから、その頃は今でいう南高へ行っきょったんや。前は、中学校はなしに、高等科が2年。香川農業学校いいよった。終戦後、21年に香川高校になった。お昼は弁当を持っていきよった。
その頃、うどんはありましたか?
 あったよ。農協にの、うどん粉を持って行ったり、小麦持って行ったりしたわ。農協の精米部でうどんをこしらえてくれよったんや。農協の職員が米ついたり、麦ついたりしよった。ほいで、茹でる前の状態でとって帰りよったんや。
生うどんの状態ということですか?
 そうそう生うどん。それを持って帰って親が茹でよったんや。小麦持って行って、うどんに代えてもらいよったりもした。湯がく前のうどんにしたやつと交換するんや。お金払うんでもいい。小麦でもいい。
それがいつ頃ですか?
 戦争中やのぉ。子どもの頃やわ。小学校まではあった。何年生か忘れたけど。農協の精米所は全部機械でしよった。練るんも、混ぜるんも、延ばすんも機械、それを機械で切る。飯田町には山本の勘ちゃんとこ(製粉所)が戦前は水車でしよったけど、農協は戦前からモーターだったのぉ。そらそやわ、川がなかったけん、農協は水車やできん。うちは農協が近いけん、農協へ行きよった。

子どもの頃、うどんも醤油も味噌も自家製だった

家でうどんを打っていましたか?
 家でもしよった。農協で買うてきたんは湯がくだけやけど、家でも打ちよった。足で踏んで延ばして自分で切って湯がきよった。今と一緒や。今、うどん屋がしよること各家庭でしよった。
その頃はどんな食べ方があったんですか?
 うどんにダシをかけるか、つけて食べるか、まぁ、今と一緒やわ。打ち込みうどんにして、人参やなんか野菜を入れて食べよったこともある。しっぽくもあった。しっぽくも打ち込みうどんも醤油ダシや。味噌は煮込みうどんやの。まぁ、うどんの食べ方は今と同じようなもんや。生醤油うどんもあったよ。醤油を自分の家で作りよった。味噌も作りよった。どこの家庭でも味噌や醤油は作りよったんちゃうかな。
家で食べていたのは、祭りの時ですか?
 そや。祭りと半夏にはうどん食いよった。寿司とあげもんも。芋やレンコンを揚げて食いよった。あげもんは、今で言う天ぷら。祭りと半夏に食うんは決まっとった。盆にもうどんしよった。大晦日は年越しそばやけど、わしはそば好かんけん、うどん食べよった。年越しそばが本当やけど、ここらの人はうどん食べるんが多かったと思う。法事にも寿司とうどんが出よった。今みたいに豪勢なお膳はせんで。昔は家でしよった。

広場の「びっくりうどん」、田町の「田舎」、郷東の「宮西」

うどんの専門店は子どもの頃ありましたか?
 今のうどん屋みたいなんが、街に行ったらあった。この辺にはないけどの。子どもの頃やから、戦争前(昭和20年以前)やの。戦争中はなかったけど、前後はあった。でも、街中だけで、この辺りはなかった。街の食堂にはうどんもあったし、寿司もあったりした。ひとつは広場の辺りにあったのぉ。「びっくりうどん」言うんもあったのぉ。広場の辺だったと思う。今のNHKのそば。錦町か。ダイエーの映画館があったところの南行ったところにもうどん屋があった。「田舎」、今もその店はやっとる。戦後はよう映画なんかへ行って、帰りにうどんを食いよった。
戦時中を除いたら、うどん屋はあったということですね?
 そや。終戦後の昭和30年頃には、ようけうどん屋があったよ。常磐街の中にもあった。食堂にもうどんがあった。どの店でもうどんだけではなくて寿司もあった。ばら寿司。それか稲荷。戦前も戦後もうどん屋には寿司がつきもんだった。 
街中にはあったと言うことですが、この辺りは田舎やからなかった?
 ここらでうどん屋はなかったのぉ。そういや郷東橋の角っこに「宮西」いううどん屋があった。郷東橋の西手の北手の角っこの家。郷東の宮西は古いよ。だいぶ長いことあったよ。戦後すぐくらいから、私と同級生の親がしよったんやけん。後を継いで、今80歳くらいの娘とふたりでしよったわ。

映画とうどんが娯楽の王道?!だった

じゃあ、この辺りは宮西うどんぐらい? 香西の方はうどん屋なかったんですか?
 香西の方はあんまり行かんけんのぉ、街やのぉ。行くゆうたって我々の時代は自転車やけん。まだ車や持ってなかった。それか鬼無駅まで行って汽車で行くか。街へ行ったら映画じゃわ。わしらの若い頃は遊ぶゆうたら映画だった。それでうどんを食うて帰る。たいがいがうどんやわ。食堂でややこしいんは食べんかった。高いし。
うどん屋が安かったわけですね。値段は覚えていますか?
 うどんは安い。値段は覚えとらんのぉ。大きな食堂はいかん。ときわ座(映画館)の前にあった「ときわ食堂」なんかは洋食があって高かった。ときわ食堂にうどんもあったけど、うどんでも高かった。まぁ大衆食堂でみんな誰でも行きよったけど、安くあげようと思ったら、うどん屋に寄った。

戦前から昭和30年台まではフルサービスが主流だった

うどん屋のメニューはどうだったんですか?
 今と一緒。つけて食べるか、かけで食べるか。肉うどんとかは食べた記憶がない。子どもの頃や若い頃は、素うどんだった。ネギかけるくらい。それか淵がピンクで中が白いかまぼこを2つ、3つ乗せとるところもあった。
その頃のうどん屋のスタイルはどうでしたか?
 椅子に座って注文して持ってきてくれる。子どもの頃も昭和30年代も、セルフはなかったのぉ。セルフができたんはだいぶ後やのぉ。40年代に入ってからやのぉ。セルフだったんは、亀岡小学校のすぐ近く、今でもやっとる「竹清」。ワシが覚えとる中では、あそこが一番早よからセルフでやりよる。自分で玉取って、ゆすって、自分でダシかけて、天ぷらが欲しかったら乗せて食いよった。
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