香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市庵治町・昭和8年生まれの女性の証言

うどんよりも、〝いただきさん〟から仕入れる魚の方がずっと身近だった

(取材・文:

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  • vol: 101
  • 2015.08.26

うどんよりも、〝いただきさん〟から仕入れる魚の方がずっと身近だった

小さい頃に家でうどんの麺を作っていましたか?
昭和10年代に家で作った記憶はないな~。庵治で麺を作るという習慣は、あんまりなかったんとちゃう? 家でうどんを食べる時は、製麺所なんかから玉を買って来て、かけダシだけ作っとった。たまにな。 そやけど法事なんかで両親の里に行った時は、粉から作ったうどんが出てきとった。里は父が香川町で、母が大川町やけど。
ダシは庵治の魚介類をいろいろと使って仕上げていたんですか?
いやいや、そんなことはない。店で買った煮干しを使っていただけや。鑑札がないと、庵治の漁港で魚は買えんからな。一般の人には売ってもらえん。 その代わりに、昔は〝いただきさん(※)〟が何人もおった。うんば(乳母車)を押したり、リヤカーを引いたりして、男の人だけではなく女の人も朝から魚を売り歩いとった。今と違って、昔は魚もぎょうさん(たくさん)獲れとったしな。そのいただきさんから魚を買って、朝から刺身を食べることも珍しくなかったで。
うどんよりも刺身の方が身近だったんですね(笑)。
そうやな(笑)。小さい頃は普段、うどんをあんまり食べなんだ。何かの節目や行事の時も。大人になって飲食店をやり始めてからは仕方なしに食べるようになったけど。

店で余ったうどんを仕方なく。喪中の時も知らずに

仕方なしに?
店でうどん玉を仕入れとったんやけど、全部が売り切れになることはまずない。だから、余った玉で煮込みうどんを作って晩御飯にしとった。毎日のように。(育ての)父親が亡くなった直後もずっと食べとったんやけど、四十九日の法要が行われる何日か前に、家を訪れていた兄嫁から「食べたらアカン!」って注意されてな。そこで初めて、不幸があった時にうどんを食べるのは縁起が悪いことと知った。そやけど、不幸が「長引く」ことはなかったで(笑)。
仕方なしにうどんを食べていたから逆によかったのでしょうか(笑)。ちなみに、庵治で店を始めてどれくらいになるのですか?
両親がやっていた年数も含めると、おおかた80年近くになる。うどんを使い出したのは私がやり始めてからやけど。

峠にあったうどん店は、もとは商店街の近くにあった老舗の製麺所

うどんはどこから仕入れていたのですか?
近くに「北」さん言う製麺所があって、そこから。小さい頃にうどんを食べる時もそこからうどん玉を買うとった。「北」さんは旧商店街の北の方にあって、あちこちの店に玉を卸しとった。店で食べることはできんかったけど。ず~っとそこで店をしよって、30年か40年くらい前(昭和50~60年頃)に峠に移った。
どこの峠ですか?
八栗の方から庵治にやって来る時に必ず通る海端の峠があるやろ。「アルプス」と「ホワイトマリーン」言う喫茶店があるとこ。その二つの喫茶店の間に移ったんや。で、移った時に店の名前を「味呂(あじろ)」と変えて、店で食べられるようにした。 ここが流行ってな。店はよく目立つし、景色はいいし。ある時からお土産うどんも始めて、さらに当たった。で、そっちの方が忙しくなって、少ししか玉を仕入れていないうちみたいな店には麺を持って来てくれんようになった(笑)。「味呂」は3~4年前(平成23~24年頃)に店を閉めたんかな。

漁師が朝から通った、握り寿司とうどんが食べられる一軒

当時、他にうどん屋はありましたか?
漁業組合の前に「岡田」さん言ううどん屋があった。ここも小さい頃からあったな。「北」さんとこも「岡田」さんとこも、昭和20年代にはすでにあった。
「岡田」さんとこは、店で食べることもできた。もちろん麺も自分とこで作っていて、あちこちに卸しとったけど。焼きうどんなんかも食べることができて、途中から寿司も始めた。その時に店の名前を「寿司とら(虎? 寅?)」と変えた。 「寿司とら」には一仕事を終えた漁師さんが朝御飯を食べによく訪れとったよ。でも、うどんやなくて魚が目当てやったと思うけど。酒も入るし。「寿司とら」は7~8年くらい前(平成20年頃)まで営業しとったんかな。昔、庵治にあったうどん屋はその2軒くらいのはず。うどん屋は少なかったなぁ、お好み焼き屋は10軒くらいあったけど。

銀座通りと呼ばれていた庵治の旧商店街には当時、映画館や劇場が存在した!

エッ!? そんなにたくさん?
今でこそ、庵治では店の数が少なくなっとるけど、昭和20~30年代はもの凄く多くて賑やかやった。旧商店街沿いに並ぶ家はほとんどが店をやっていたで。いろんな店が何十軒ってあって、高松に行かんでもこと足りた。銀座通りって言われとったし。
旧商店街は庵治の銀座ですか?(笑)
信じられんかも知れんけど、「金龍館」って言う映画館と、芝居や漫才をする劇場もあった。劇場は途中で「龍明館(りゅうめいかん)」と名前を変えて映画もやり始めた。どっちも経営者が同じで、日本の映画を上映しとったな。 映画をし始めた時は、大人の入場料が確か100円やったように思う。テレビなんかもまだ普及していなくて娯楽のない時代やから、それはそれは人気やった。映画館を訪れる人の自転車が商店街にズラ~っと並んで、店からの文句もあったぐらいや(笑)。商店街には家の軒先を利用した食堂が何軒かあって、そこでうどんが食べられる店もあった。でも、麺を打っているところはなかったし、どこも長いことは営業してなかったよ。それにしても、当時の商店街は夜遅くまで賑やかやったなぁ。今は静まり返っとるけど(笑)。

※当日の朝に水揚げされた新鮮な魚を路上などで販売する行商人。

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