香川県民のさぬきうどんの記憶を徹底収集 さぬきうどん 昭和の証言

高松市築地町・昭和12年生まれの男性の証言

疎開した屋島で、祭りの時だけ食べた

(取材・文:

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  • vol: 17
  • 2015.07.10

疎開した屋島で、祭りの時だけ食べた

小さい頃に家でうどんを食べましたか?
 戦争が終わる昭和20年まで屋島東町の壇ノ浦辺りに疎開しとったけど、地元の氏神さんになる大宮八幡神社(屋島)の祭りの時だけ食べた。祭りは10月の中頃にしとったと思う。
祭りの時、うどんをどのようにして食べていましたか?
 しっぽくうどんにして食べとった。母親が麺から作っとったなぁ。粉はどうしとったか憶えとらんが、生地を打ったり捏ねたり、包丁で切ったりして、手間が掛かっとった。そやけど今みたいな麺やのうて、がいに太かったで。ダシは煮干しだけ。エッ!? 鰹や昆布? そんな贅沢なもん、入れるもんな(入れるわけがない)。
盆や正月には食べませんでしたか?
 田舎におったから、そんな贅沢なことをするもんな(するわけがない)。うどんだけやのうて、大晦日の年越しそばも食べんかったし。紋日(祝い事の日)以外はうどんを食べなんだ。
戦争前、屋島にうどん屋はありましたか?
 疎開先(屋島東町)の辺りにはなかった。製麺所も。琴電の屋島駅から屋島ケーブル(2005年に廃線)の登山口駅までの通り沿いには、うどんを食べられる食堂が何軒かあった。今も営業している「ひろせ」とか。どこも地元の人やのうて、お遍路さん相手の店やった。

戦後すぐは高松駅の近くにあったという「アズマヤ」

初めて店でうどんを食べたのは?
 「アズマヤ」で食べたのが最初やったように思う。昭和25年に疎開先の屋島から、写真屋をしている兵庫町の叔父の家に移ってな。叔父の家は間口が5間もあって広くて、入り口を二つに分けて一方を写真屋に、もう一方を貸店舗にしとったんやけど、そこにポーラ化粧品の高松支店が入ってな。それで東京からポーラの人(従業員)が度々やって来て、その人によく「アズマヤ」へ連れて行ってもらったんや。
現在は栗林公園前ですが、以前は高松の中央通り沿いにあった「アズマヤ」ですか?
 そうや。やけどもともとは高松駅の方にあった。兵庫町に「くつわ堂」があるやろ。その横に高松駅へ向かう北に進む道がある。それが昔、駅前通りやったんやけど、その通り沿いに「アズマヤ」があって、そこで初めてうどんを食べた。一杯8円か10円やったやろか。ちなみにその頃、名刺判の写真(白黒)の現像代が一枚15円しよった。

 「アズマヤ」ゆうたら、今でこそ喫茶店やうどんのイメージが強いけど、もともとはぜんざいが本職やった。当時「ぜんざいはアズマヤで、おしるこは片原町にあった「平安堂」ゆうて有名やったで。

 「アズマヤ」のうどんはあっさりしたダシで、椎茸なんかの味がよく出ていて美味しかった。中央通り沿いに移ったのは、私が高校生だった昭和28年頃やったように思う。

学校も生徒の利用を許可

中央通り沿いの「アズマヤ」もよく行きましたか?
 中央通り沿いの方は確か2階が喫茶店になっとったやろ。通っとった高校(高松第一高等学校)では、生徒の喫茶店への出入りを禁止にしとったんやけど、なぜか「アズマヤ」だけは例外で、行ってもええことになっとった(笑)。だから女学生がよっけおって、他の高校の女学生もおったし、恥ずかしいから行かなんだ。それと、高校の学食にもうどんがあったから、そっちのうどんをしょっちゅう食べよったしな。

メニューはうどんだけ!? 昭和30年前後の高松一高の学食

当時(昭和30年前後)、通っていた高松一高の学食で食べたうどんは?
 一杯10円のかけうどん。具はネギだけ。おばちゃんが作ってくれとった。セルフやない。学食は講堂の横にあって、男子学生がよっけ食べに行っとった。学食ゆうても、メニューはうどんだけやったけど。

 そうそう、うどんのチケットがあったな! 5枚綴りで50円なんやけど、買うたらチケットが1枚サービスになって、うどん一杯、得したことになるんや。チケットをよう買うたで。

高松のうどん文化に風穴を開けた!? 「川福」のざるうどん

馴染み深いうどん店は?
 兵庫町から築地町の生家に戻っても高松の商店街は近所やったらから、その辺りにあったうどん屋には、できた時分からよく食べに行ったで。

 例えば川福。今はライオン通に本店があるけど、最初にできた場所は今とちゃうかった。三越のすぐ南側にフェリー通りに抜ける道があるんやけど、最初はその道沿いにあったんや。フェリー通りから入って2軒目くらいのところやったかな。昭和40年くらいに。それ以前は琴平の川べりでしよった。それが店名の由来にもなっとるんとちゃう? 当時の香川県の金子知事が勧めたこともあって高松に店を出したらしいんやけど、そこで生まれて初めて、ざるうどんを食った!!

昔の「川福」で初めてざるうどんを!?
 オープンしてすぐ叔父に連れて行ってもらったけど、旨かった! 余りに旨かったから、お代わりしたし(笑)。それまで高松に、ざるうどんなんてなかったように思う。うどん言うたら、かけうどんやった。かけうどんゆう言い方も、当時はあんまりしてなかったな。素うどんって呼んでたわ。

 ほいで、叔父の分も含めてざるうどんを全部で3つ頼んだんやけど、会計の時に叔父が1000円くらい払とったんを憶えとる。当時、普通のうどんが一杯20円か30円くらいやったと思うから、かなり高かったなぁ。

元は製麺所だったという「かな泉」

オープン当時のエピソードを知る街中のうどん店は他に?
 フェリー通りにあった「かな泉」。あそこもよく食べに行ったけど、もともとは店ではなかった。かな泉食料商会ゆうて、うどんの玉を専門に作るところやった。

 昭和30年代の話やったと思うけど、三越の横にある郵便局で配達をしている人が、腹が減ったらかな泉にうどんの玉を買いに行っとってな。その場で食べるために、醤油を持参して(笑)。かなり盛況やったようで、それをヒントにして店をオープンさせたんや。
 それと店名の由来。社長だった泉川さんに聞いたことがあるんやけど、開店する際に社長のお姉さん夫婦だった金集(かなづめ)さんにいろいろと協力してもらったらしい。珍しいその方の姓にもちなんで、「かな泉」としたそうや。

 あと街中でよく知っている店は、4、5年前に店をたたんだけど美術館通りにあった「源芳」。僕の古い友達がしよってな。だから毎週のように食べに行っとった。源芳ができたんもかなり昔やなぁ。え~っと、手元にある資料によると昭和22年になっとるな。ここは国鉄の連絡船にうどんの麺を卸しとった。

瀬戸大橋が誕生するまで運行していた連絡船のデッキで食べられたうどんですか?
 そうそう。当時、連絡船のうどんを卸しているのは源芳ともう一軒だけで、源芳は船が高松港に着くたび、100玉か150玉くらい持って行ってたそうや。

満潮の時の納品が大変だった連絡船

そんなにも!?
 せいろ一つに25玉入っとんやけど、それを段重ねにして、桟橋から船のデッキへ直接納品しとったんやって。船の出入り口や通路にはお客さんが通ってたり、並んで待ってたりしていたから、立ち入ることができなんだそうや。

 それで納品する時、引き潮の時は船の位置が低いから問題ないんやけど、満潮の時は高いから、せいろをかなり上まで持ち上げなアカンかったそうや。万歳して持ち上げることになるんやろな。それが特にえらい(しんどい)って友達が言っとったわ(笑)。

 「源芳」は多い時で一日に麺を一万玉くらい作っとったそうや。当時の香川県で一番よっけ麺を作っとったんとちゃう? もちろん、一万ゆう数は連絡船用の麺だけやのうて、いろんなところに卸しとった麺も含めてやけど。そう言えば、「丸ふく」にも卸しよった時があるって話しとった。

「丸ふく」って、そば屋の?
 「丸ふく」は今はそばが看板やけど、昔はうどんも同じようにやっていて、そのうどんの作り方は「源芳」が指導したそうや。その関係で麺も卸しとったって聞いた。

 それと、珍しいところでは松山東高校の同窓会にも何度か麺を送っとった。同窓会の企画で連絡船のうどんを再現したらしい。当時、修学旅行か何かで連絡船に乗ったんやろな。JRから銅鑼(どら)も借りて、銅鑼の音を鳴らしてからうどんを食べたそうや。自分も連絡船の写真を持っとったから、その同窓会に貸してあげたで。

まる一匹のどじょううどん

名店や老舗店の名前がかなり挙がりましたが、個性的なうどんを食べさせてくれる店も高松の街中にありましたか?
 憶えているのは片原町の古天神の前にあった店で、名前は「はじま」って言っとったかな。そこで、どじょううどんを食べた。昭和40年代の半ばくらいに。大きなどじょうがまるまる一匹、うどんの上にのっとった。エッ、食べた感じ? ちょっと骨っぽかった。食べると口の中が〝ジャカジャカ〟した(笑)。店主はもともと善通寺で映画館を経営してたんやけど、それがダメになってうどん屋を始めたはずや。最近まで店をしよったように思う。

 どじょううどんは、JR鬼無駅から東の方にあった店でも食べたことがある。昭和40年代か50年代に。そこも食べると口の中が〝ジャカジャカ〟したな(笑)。

 それと街中ではないけど、昭和30年代に香川でたらいうどんを食べさせてくれるところがあった。

湧き水を使ったたらいうどんが食べられた?

昭和30年代に香川でたらいうどんの店?
 「湧泉(ゆうせん)亭」って名前の店やけど、ここはあんまりよく憶えてない。でも確か、たらいうどんをやってたように思う。高級な店で文化人や著名人も行っとったようや。いつまであったかは知らん。
場所は?
 庵治(高松市)に閼伽井(あかい)霊泉っていう湧き水の場所があるんやけど、そのすぐそば。うどんにも湧き水を使っとった。アッ、そうや! 「湧泉亭」の箸袋がある。持って来るからちょっと待ってな…。
 これが「湧泉亭」の箸袋や!!
この時代にうどん屋でオリジナルの箸袋って凄いですね。
 箸袋の裏に閼伽井(あかい)霊泉の紹介文が書かれとるな。「今から約千年の昔 弘法大師の手によって…」。これあげるから、古いうどん屋を調べるときの何かの参考にして!
貴重なお話と箸袋、しっかりといただきました。どうもありがとうございました。
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