さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

ゴールデンウィークの山越の行列(2006年)。

【山越うどん(綾歌郡綾川町)】
讃岐うどん巡りブームの“総本山”「山越」の歴史は、思いも寄らぬ形態の「田舎の飲食業」から始まっていた。その破天荒な先史から製麺屋の開業、「釜玉」の発祥、そしてブーム到来の顛末やいかに。

(取材・文:

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  • vol: 5
  • 2016.05.25

第一話

山越うどん・前編

聞き手・文:田尾和俊
お話:山越の二代目大将、奥さん

<昭和20年〜昭和30年>

山越の店頭(平成26年)。

山越の店頭(平成26年)。

 映画『UDON』の本広監督をして「キング」と言わしめた、讃岐うどん巡りブームの総本山。そして、今や全国区となった讃岐うどんメニュー「釜玉」の発祥の店。しかし、ブーム以前の平成3年(1991)頃までは、うどんを食べに来るお客さんは1日に20人もいなかったという、名も知られない田舎の製麺所だった…。その発祥からブーム到来までの経緯を、今日の山越を築いた二代目大将と奥さんにお伺いしました。

戦後〜昭和30年代の山越は、綾上の田舎でただ一軒の”ダンスホール”だった?!

ーー まず、大将が子供の頃の記憶からお話しいただけますか?

大将
私は昭和16年生まれだから戦前のことは何も覚えとらんのですけど、物心ついてからの聞き覚えでは、親父は昭和6年頃には木炭車を買うて運送屋をしよったらしい。だけど、その頃はまだ馬や牛で人間が移動しよった時代やから、道はデコボコで狭くて、しょっちゅう牛や馬に邪魔されて通れんで、何かあんまり仕事にならなんだとかいう話を聞いたことがあります。 あとは田んぼもしよったし、飲食の店もしよったと聞きましたな。それから、昭和19年に高松の林の飛行場の建設が始まって、それを作るのに駆り出されて仕事に行きよったらしい。荷物を運んだり、人夫を何人も雇ってしよった言うから、人夫のまとめ役のようなものもしよったんかもしれんな。それから、親父がいろいろ芸人を呼んで興行を打ったりもしよったと聞きました。まあ、そうやってコロコロと仕事を変えながら、いろいろ変わったことをしよったらしい。そんなこんなで一儲けしたんじゃろな。

それで終戦になって、終戦後は、田んぼと飲食だけにしたみたいです。今はないけど、ここに藁葺きの母屋があって、その中で飲食の店をやりよったんです。そこでうどんも出したり中華そばも出したり、夏は氷かきも出したり、お好み焼きもしたり、酒も出したりしよった。

ーー 当時、こんな田舎に(失礼)そんなにお客さんがいたんですか?

大将
それがおったんや(笑)。近所の人が食べに来よったし、終戦後で仕事にあぶれたアウトローみたいな人もよう来よった。そういう人らはしょっちゅう2階で夜通し麻雀しよって、私は小さい時に2階の麻雀のガラガラいう音でよう目が覚めよった(笑)。そんなんが終戦後しばらく続きよったんや。

ーー その頃、食堂で出してたうどんは製麺所から買ってたんですか?

大将
戦前戦後あたりは、この辺に製麺所はなかった。その頃はどこでも家でうどん打ちよったから、玉売りをしても買いに来るような人はおらん時代ですから、この辺ではその頃は製麺所は成り立たなんだんじゃろな。だからうちも、店で出すうどんは親父が自分で作りよった。私が小学校に行き始めた頃(昭和23年頃)から、親父が私を負ぶってうどんを踏んだり、自分も踏まされたり手伝わされたりしよったから。けど、店で出すのと家でちょっと食べるぐらいやから、そんな量ではないで。あとは、ここらのお寺が「お講(飲み食いする寄り合いのようなもの)」をする時に、親父がそこでうどんを作って食べさせたりもしよったけど、それは年末ぐらいだけや。家でもそんなにうどんを食べた覚えはないなあ。昭和23年に小学校に行き始めて、昼ご飯にうどんを食べに戻りよったぐらいや。給食がない時代で、学校がすぐそこにあるから昼休みに家に帰って、うどん食べてから学校に戻りよった。それぐらいかな。

まあとにかく、この辺では当時、製麺で商売が成り立つような時代じゃなかったんやろなあ。普通の家の人は買いに来んし、店に卸す言うても、飲食の店は村ではうちぐらいしかなかったから卸先がない。

ーー その「飲食の店・山越」は、流行ってたんですか?

大将
昭和27年に私の母親が亡くなって、それで親父も一人になったんで田んぼを全部売ってしもて、家を改装して飲食だけに一本化したんです。そこから、ちょっと派手になったというか…(笑)。大きいというほどではないけど、部屋が6畳4つに4畳半2つに台所があってな、私が小学校6年ぐらいの時(昭和28年)に、店に仲居さんが3人おった。

ーー それは「田舎の飲食店」のレベルを超えてます(笑)。

大将
それで、その頃活発だった青年団とか常連さんがしょっちゅう来てドンチャンドンチャンやってましたな。
奥さん
「ダンスホールもしよった」って聞いたよ。こんな田舎で(笑)。

ーー ダンスホール!

大将
ダンスホールというか、団体さんが来たら部屋の間仕切りを取っ払って大広間にしてな。その畳の間で仲居さんがリードしてみんなで踊りよったようなことやろと思う(笑)。宴会でそんなんをしよったという話じゃないかな。

ーー その形がいつまで続いたんですか?

大将
昭和40年まで。
奥さん
私が昭和40年に主人と結婚して、それから「うどんの製造卸し専門」にしたんよ。

ーー “ダンスホール”に嫁いできてすぐにうどん屋に(笑)。

奥さん
嫁いできてというより、ずっと知ってたからその流れでね。私は小学校6年の時にここ(山越)へ来たから。

ーー ん??? どういうことですか? 小学校6年で嫁いできた…わけないですよね…

奥さん
誰がそんな無茶なことするんな(笑)。小学校6年の時に、私のお母さんが山越のお父さんと結婚して、愛媛から私を連れてここに来たん。山越のお父さんも再婚、うちのお母さんも再婚。

ーー 親同士が結婚して、その子供同士が結婚したんですか!

大将
そうや(笑)。
奥さん
だから主人と私は最初は子供同士で、形の上では兄妹になるんやろか。それが二人とも大きくなって、うちのお母さんが「どうせうちの子や外に嫁に出してもすぐ戻されるわ」思ったんやろな。それで、しょうがないからもろてもろた(笑)。
大将
まあ、そういう時代だったんかな(笑)。

ーー えらい情報を頂きました(笑)。

中編に続きます

山越の店頭(平成26年)。

綾歌郡綾川町

山越うどん

やまごえうどん

〒761-2207

綾歌郡綾川町羽床上602-2

開業日 1941年7月

営業中

現在の形態 製麺所

http://www.yamagoeudon.com/

(2015年7月現在)

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