さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

うどん棒 ちゃんぽんうどん

【うどん棒(高松市亀井町)】
うどん店のアルバイトから修業を積んで“クリエイティブな職人”に

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 15
  • 2022.01.20

全一話

うどん棒

うどん棒外観

2021年6月にリニューアルオープンしたうどん棒

お話:うどん棒創業者・十河宣夫さん(昭和27年高松市錦町生まれ)
聞き手・文:萬谷純哉

 高松市亀井町の「うどん棒本店」は、創業以来麺通たちに「伸びるコシ」と絶賛された珠玉の麺をベースに、比類なきスタイルのうどん棒型「ぶっかけうどん」や「チャンポンうどん」「たこ天」等々のオリジナルメニューで人気を集めた、フルサービスの老舗一般店。今は代も変わり、2021年にはリニューアルでメニューやオペレーションのスタイルも新しくなりましたが、その礎を築いてきた先代に開業からのお話を伺いました。

うどんに関わったきっかけは「川福」のアルバイト

うどん棒 十河さん

打ち場でうどんを打つ十河宣夫さん

ーーお生まれはどちらですか?

 高松市の錦町で、家は釣具屋をしよったんや。親は元々は小豆島の大部で醤油を作っりょってな、醤油と豆腐と仕出しもしよったらしい。私は小学校の頃に、法事やなんかで小豆島の親の里に連れて行かれよったわ。こっち(高松)で正月の雑煮は白味噌のあん餅でしよるとこが多かったけど、うちは関西風の吸い物の中にアゲや豆腐やニンジンとかが入っとってな。小豆島の醤油は関西の方によう運びよったから、小豆島の雑煮は関西文化が入っとんやろな。それで親は高松に来て錦町で釣具屋をしよったんやけど、釣具屋さんいうんは朝早くて夜遅いから寝る間ないし、というてそんなに景気のいい商売でもなかったみたいや。

ーー子供の頃のうどんの記憶はありますか?

 あんまりないなあ。錦町からちょっと西行ったところの扇町に玉売屋(たまうりや)いうんかな、製麺所が1軒あったかな。高松の駅前にも1軒あった気がするけど、それくらいしか覚えとらんな。まあ、小さい時はそんなにうどんに意識はなかったんや。法事やお祭りにもうどんの記憶はあんまりないなあ。何しろ学校から帰ったら勉強せんで、すぐ海へ飛び込みに行ったり釣りに行ったりばっかりしよったからなあ(笑)。

ーーということは、子供時代にはうどんとの関わりはほとんどなかったわけですね。では、学校を出てからはどういう経緯でしたか?

 就職して最初は大阪の高槻で住友重機のクレーンの整備しよったんやんやけど、そのうち第一次オイルショックが来て景気がいっぺんに悪くなってな。高松の釣具屋しよった親も「もうこれではいかん」いうて、高槻におった私に「食べもん商売に入ってくれんか」いうて言うて来たんよ。飲食はまだ食いっぱぐれが少ないいうことだったんか、それと私は4人兄弟の次男坊で、昔は次男坊いうたら一番融通がきくやろいうことで言うてきたんか(笑)。それで、私の親の知り合いがちょうど大阪におったもんで、そのつてで大阪の寿司屋で働くことになったんや。新規にできた店で、新婚さんの寿司屋でな。給料もほとんどないけど仕事を教えてくれるいうことで入ったんやけど、いろいろあって1年弱くらいで上がらしてもろうた。

 それから高松に帰ってきて、寿司屋とかいろんなところに働き口を探っしょったんやけど、なかなかなかったもんやから、高松にあるキャバレーの「レインボー」いうところでウエイターをすることになった。ところが、そこの従業員やら支配人やらが私の親の釣具の店のお客さんやってな、それで私がそこ行っきょるんバレて親父に怒られて(笑)。ほいで「明るいうちに仕事せえ」いうことになってな、ライオン通り歩っきょったら「川福」で「アルバイト募集」いう貼り紙があって、そこに飛び込んだんや。まだ19歳ぐらいの時やから、昭和46年頃か。それがうどんとの最初の関わりや。けど最初はやっぱ、ちょっとでも収入が欲しいから「川福」と「レインボー」と両方かけもちしよったんや。そしたら当時の「川福」の社長に「十河くん、うち一本にせんか」と言われて、それで正社員で「川福」に入ることになった。

ーー止むなしのアルバイトがうどんとの最初の出会いだったんですか。

 そういうことやな。まあ人生いうのはそういうもんや(笑)。

波瀾万丈の修業時代

ーー「川福」ではどんな仕事をされていたんですか?

 当時、旧高松空港の中で高松商運が「川福」の名前でうどんをやっりょったんやけど、私は朝6時にそこに入って、飛行機の一便、二便、三便まで先輩と一緒にやって、交代の先輩が来たら私は外に出てお土産やなんかの配達に回ってな。配達が夕方5時くらいに終わったらまた空港の店に入って、最終便が出て店が閉まるまでおって、それからライオン通りの本店に帰って、ラストの深夜2時まで働いて、それから次の日のうどんを仕込んで…

ーーものすごい労働時間ですね!

 うどんは肉体労働よ。えらかったわな。夏は暑いし、冬は水が冷たいし。

ーー当時の「川福」さんは相当繁盛していたみたいですね。

 「川福」は確か、会社が「有限会社川福」と「川福食品」と「讃岐川福」と「大阪川福」の4つあったと思う。私が「川福」で仕事しよる時に香川県人会や大平正芳さんやいろんな人から「大阪で店出さんか」いうて勧められて、それで当時の「川福」の次男坊が大阪のミナミに「大阪川福」の1号店を出したんや。そしたら「うどんすき」が当たってものすごく儲かったみたいで、それからどんどん広げていって一時は大阪に10店舗以上持っとった。あと、大阪の社長の奥さんが仙台にも3店舗出したな。

ーー今、過去の新聞に載った讃岐うどんの記事や広告を発掘してるんですけど、確かに昭和40年代からライオン通りの「川福」だけでなくて「川福食品」や大阪の「川福」の広告が何回も出てきました。

 とにかくあの頃の「川福」は、ものすごく忙しかったな。当時の大手の「かな泉」や「源芳」「さぬき麺業」なんかといろいろ競争しながら行っきょったような気がする。私が「川福」におった時に、皇室の方々もおいでになった。昭和天皇が皇太子ご夫妻(今の上皇さまと上皇后さま)と一緒においでになった時には、「川福」の先代社長と一緒に私もおうどんをお出しした。皇室の方で一番ようおうどんをお出ししたのは、高松宮殿下やな。殿下は高松によう来られよった。あと、皇室の方々が高松のホテルにお泊まりになった時も「川福」からうどんをお出ししとったことがある。まあ、たいがい大平さんや金子知事さんの絡みやったけどな。で、そないしよるうちに今の嫁はんと知り合うて、付き合うようになったんや。

ーー奥様も「川福」で働かれてたんですか?

 うん。仕事で話しよるうちに付き合うようになったんやけど、私は朝から晩まで店で働きよるし、片や嫁はんはある程度仕事したら家に帰るわけで、けど嫁はんも家におったって一人やし、そんなこんなで店が終わるたびにデートしよってな。ある日、駆け落ちしたんや。

ーーえーっ!

 社長に「結婚さしてくれ」言うたんやけど、「まだ若いから、もうちょっと年とってから」いうて止められた。けど、今やったら自分でもわかるけど当時は若かったから、うちの嫁はんが駐車場の私の車に荷物積んで、私の仕事が終わるん待っちょって、それで仕事が終わったらそのまま車で出て行った(笑)。出て行ったいうても高松市内におったんやけどな。それで、私は以前は鉄鋼関係の整備とかもしよって、溶接したり、”あんこう”言うて電気溶接とかの免許を持っとったから、そういう仕事をしよったわけや。

 ところが、「川福」の社長やら嫁はんの母親やら私の親やら兄弟が「顔合わして話せんか」いうて言うてきてな。それで話し合いをすることになって、「もう一ぺん川福に戻って仕事して、落ち着いてから式挙げんか」ということで、親が道を作ってくれた。けど後でわかったことやけど、それはかみさんの方の家族が「娘に帰ってきてもらいたい」という一心から出してきた話だったらしい。娘を帰らすのが一番で、こっち(自分)は用がなかったわけや(笑)。

ーー「娘を拐かした悪い男」扱いだったんですね(笑)。

 そうそう(笑)。まあ、ええようには言われんけど、それでも帰るとなったらこっちにもプレッシャーかかってくるけんな。で、「川福」に戻ることになって、それからまた修業や。その頃の川福はいつもお客さんが行列しとったから、店の仕事は大概やらせてもろたし、外の仕事も、大阪や横浜や九州や札幌の百貨店やホテルの手打ちイベントみたいなのも全部行かせてもろた。そういう経験の中で、いろんな人との付き合いもできてな。

 それで、私は「10年を目処に自分で商売やろう」と思ってたんで、ちょうど10年目の昭和57年に独立して「うどん棒」を始めたんや。自分でも10年よう辛抱したなと思うけど、当時の「川福」の従業員やらもみんな助けてくれてな。だから辛抱できた。独立した時にはみんなものすごく応援してくれた。

昭和57年、30歳で独立して「うどん棒」を開店

ーーというわけで、「うどん棒」が誕生しました。開業時はどんなお店だったんですか?

 最初は亀井町の今の店のすぐ近くの路地のまた路地みたいな場所で、6坪で客席は8席だけの狭い店で始めた。当時あのあたりで一番力持っとったんは「都由(つゆ)」さんで、他には田町にあった「讃岐平野」とか、常磐街の方に「瀬戸」っていううどん屋さん、それと「丸山製麺」もあったな。 

ーーすると、それなりに激戦区の一角に、小さい店を出店されたと。

 そうやな。それでも当時のこの辺はものすごく人の多いオフィス街で、テナントビルには会社関係がいっぱい入っとって、昼になったらものすごい人が出てきよったから、うちも最初からそれなりにお客さんは来てくれた。それと、年金もらいよるような年配のお客さんもようけ来てくれよったな。年金支給日の後はそういうお客さんが来て、いつもよりええもん食べて帰りよった(笑)。

 あとは、出前も結構あった。多い時は1日に15軒ぐらい出前に行っきょった。周りに雀荘がいっぱいあってな、雀荘の出前はいっぺんに10人、20人いう時もしょっちゅうあったから、ええ商売になりよったわ。

瀬戸大橋博で250席の大規模うどん店を切り盛り

うどん棒 旧店舗外観

うどん棒 旧店舗店内

リニューアル前の店舗

ーーその後、今の店に移って規模も大きくなったわけですね。

 そう。あと、瓦町駅の北の踏切の「豚太郎」の二軒西隣に「瓦町店」も出した。夜だけのうどん屋やったけどな。そうこうしよるうちに、瀬戸大橋博に出ることになってな。

ーー瀬戸大橋博覧会に「うどん棒」が出店していたんですか。

 いや、店は「川福」が出したんやけど、当時の「川福」に外に出せる職人の余裕がないということで、うちに「やってくれんか」という話が来てな。「川福」はうちの親方やから、親方の頼みは何としても聞いてあげないかん。それで結局、うちが「瓦町店」を閉めて博覧会の「川福」のうどん屋を切り盛りすることになったんや。

ーー博覧会の「川福」はどれくらいの規模の店だったんですか?

 客席が250席で、調理場だけでも25坪あった。そこで、多い時で1日に3000~3500食ぐらい出たかいの。従業員は交代含めて45人ぐらい。そうでないと回らんのや。私は給料制で行ったんやけど、博覧会はほんまにええ勉強になった。

オリジナルメニューを次々に生み出す

ーー「うどん棒」は最初からフルサービスの店だったんですか?

 そう。やっぱりセルフはセルフのやり方いうんがあってな、私らみたいな修業した職人は、ダシの作り方ひとつとってもセルフのやり方にあんまり合わんのや。

ーーすると、メニューも結構あったんですね。

 かけ、きつね、月見、かやく、天ぷらうどんあたりの定番メニューに、山かけ、なめこ、鍋焼き…あと、天ぷらうどんの冷たいやつで「冷や天」とかな。「ざる」と「天ぷら」を合わせた「ざる天」いうのを出しよったんやけど、雀荘のお客さんが麻雀しながら猪口のダシに麺をつけて食べるのが面倒やということで、それなら「一つの器の中に麺とダシと天ぷらを一緒に入れたらええ」ということで、「冷や天うどん」を作ったんや。

ーー「冷や天」と言えば、今は「おか泉」のぶっかけうどんの「冷天おろし」が有名で商標登録もしてますが、「うどん棒」の方が早かったんですか。

 「おか泉」ができたのは平成に入ってからで、うちは昭和57年から「冷や天うどん」をやっりょったから、「冷や天」はうちの方が大分早いな(笑)。まあうちは商標は取ってなかったけど、かまんのや。真似されるいうのは、それはそれで職人冥利に尽きることやから。職人としては「真似されたら本物」やと思うとる。

ぶっかけうどん

錦糸玉子の乗ったぶっかけうどん。現在本店のぶっかけうどんは大根おろしに変わっていて、写真のぶっかけうどんは大阪店で食べられます。

ーー「うどん棒」の「ぶっかけうどん」も他の店とは違いますね。

 揚げの刻んだんや錦糸を乗せたようなぶっかけうどんな。今で言う「ぶっかけうどん」は、「川福」では「田舎うどん」って言いよったんや。田舎の農家の人が片手間でうどん玉にダシをちょっとかけて食べるようなうどんということでな。それがのちに具材がいろいろ乗って「肉ぶっかけ」や「エビ天ぶっかけ」やいうて賑やかになってきたけど、うちは「川福」の「田舎うどん」ではないのを作ろうと思って、ああいうオリジナルメニューに「ぶっかけうどん」いう名前を付けて出したんや。

ちゃんぽんうどん

ちゃんぽんうんどん

 「ぶっかけ」だけやのうて、他にもよそのうどん屋にないメニューをいろいろ作りよったで。今も残っとる「ちゃんぽんうどん」も当時は他では見たことがなかったから、うちが相当早かったと思う。最初店出した時に「川福」から「なるべく川福と違うメニューを出せ」いうて言われとったから、そうやって常に新しいメニューを考えよったんや。

ーー中でも特に人気だったメニューはありますか?

 「天ぷらうどん」やな。「うどん棒」は最初、「天ぷらうどん」で名前が広まったんや。何でかというと、その当時の天ぷらうどんはエビ天が主役で、ほとんどエビ天くらいしか乗ってなかったんや。けど、このあたりのサラリーマンは単身赴任が多かったんで、それを見て「一人暮らしは野菜不足になりやすい」と思って、カボチャやナスの天ぷらに海苔や大葉の天ぷらも乗せて「野菜天うどん」いうのを出したら評判になった。地元の旬の野菜を使うてな。天ぷらは天ぷら鍋を2槽持っとって、魚介類と野菜は別々に揚げよった。海老なんかはアレルギーを持っとる人がおるから。

ーー気配りも細やかですね。

 まあ、アレルギーのきつい人は先に言うてきたりしよったから、それなら先に手を打っといた方がええということでな。

職人としての思い入れ

たこ天

地ダコの天ぷら

ーー「うどん棒」といえば、「タコ天」も人気メニューですね。

 単品で出っしょる地ダコの天ぷらな。うちのタコは柔らかいから1人で2人前とか3人前とか食べる人もおって、多い時はひと月にタコだけで200キロぐらい使うこともあった。タコは茹でたんを揚げたら固うなるけど、生で揚げたら柔らかいまま揚がるんや。だからうちのタコ天は必ず生から揚げる。生のタコを揚げよったら油が劣化するんが早いけど、ええのを出すのが最優先やからな。

 タコ自体も瀬戸内海で獲れたええやつを仕入れよる。だけど、タコは価格の変動が大きいんよ。漁の少ない時期には単価がヒラメと変わらん時もある。大きいタコは安いけどどうしても大味になるから若くて小ぶりのタコが一番ええんやけど、そんなのは普通に仕入れたらなかなか値段が合わんでな。庵治の漁師さんとか、長年付き合いしよる人にいろいろ教わりながら、今もずっとタコの仕入れルートを探っしょる。まあ、それなりに安くてええタコを仕入れる方法は持っとるけど、それでも安い時にタコを買いだめてストックすることはある。

ーー職人の食材に対するこだわりと思い入れですね。

 天ぷら一つとってもいろんな衣の作り方があってな、「通し揚げ(注文を聞いてから揚げる)」と「揚げて置いておく天ぷら」では衣がまた違うし、食材によっても衣の付け方が違うたりな。ただ、うどん屋ではそういう職人気質も度が過ぎてはいかんと思うとる。私の息子が7年ぐらい日本料理を修業しよったこともあって、一時、うどんをやりながら懐石料理も出っしょった時があるんやけど、やっぱりうどん屋はうどん一本でいかなうまいこといかん。特に讃岐のうどん屋いうんは、日本料理みたいなのに近づけすぎるとあんまりよくない。やっても「うどんすき」ぐらいまでやな。

ーー麺作りに対するこだわりは何かありましたか?

 まあ私が思うとるだけやけど、麺に芯まで火が通る感覚というかな。朝練ったうどんは、昼茹でるのと夜茹でるのでは置かれた時間が違うから、私は昼と夜で茹で時間をちょっとずつ変えよった。そうすると麺にスッとうまいこと火が入ってな、ノドに張り付きながら撫でていくような、いわゆる“ノド越し”のええ麺ができるんや。

 小麦粉は私もいろんな粉を使ってきたけど、香川県の粉は悪くはないんや。ただ、扱い方を間違うといかん。以前の香川の小麦は、収穫してから店に届くのに時間がかかっとったのがよくなかった。だから、県の職員に「小麦粉を地元に卸すんに1年も1年半も経ったようなのはいかん」いうて言うたことがあるんや。ASWみたいな小麦粉やったら製粉してちょっと置くくらいでなかったらいかんけど、内麦いうんはそういう訳にはいかんいうてな。でもいろいろ改善されて、今は「さぬきの夢」もだいぶええ感じで使えるようになってきとる。

ーーまさに職人の感覚ですね。ちなみに、お弟子さんはとられてるんですか?

 弟子というわけではないけど、今も教えられることは教えよる。ただ、今時の若いんは、どうも短時間で覚えようとする傾向があるな。「給料いらんから教えてくれ」いうて来たのもおったけど、それが「3カ月で覚えたい」とか言うんや。私らは最低10年は修業してきたような職人やから、「そんな“にわか職人”はよう作らんから、他に行ってくれ」いうて断ってきたけど、息子に「今の時代にそんなこと言いよったらいかん」言われてな(笑)。

 まあそれでも、なんやかんやで今まで100人ぐらい教えてきたかな。そういう子らはたいがい独立して、倉敷やら姫路やら東京やら青森やら全国のあちこちに店を出したけど、今残っとるんは、山口に一つと九州に一つぐらいや。どっちもうちの3年半ぐらいおったけど、やっぱり考え方が甘いやつはどっかで頭打ちするんやろな。

 あとは、地元の製麺機メーカーに頼まれて指導に行ったこともある。機械を使うと短時間の研修でうどんが作れるけど、ほんとに芯まできれいに火が通る麺を作ろうと思ったら、やっぱり人間の手の感覚でなかったらいかん。そこのところが機械ではなかなか再現できんのやけど、息子の言う通り、この時代に「みんな10年以上修業して職人になれ」いうのも無理があるからな。まあ、機械に使われるんやなくて、「機械を上手に使え」ということかな。

ーー「職人の技」と「機械の技術」の融合が、今の時代のうどん作りの落とし所かもしれませんね。貴重な話をどうもありがとうございました。

  • TAGS: 
  • 関連URL: 

ページTOPへ