さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

小野うどん 家族

【小野うどん(三豊市高瀬町)】
手打ちうどんの専門店なのは開業当時から。1世紀余・4代続く老舗店。

(取材・文:

  • [history]
  • vol: 8
  • 2016.09.15

第一話

小野うどん・前編

聞き手・文:羽野茂雄
お話:三代目小野修(昭和12年3月5日生まれ)千恵子(昭和13年8月6日生まれ)ご夫妻
   四代目小野繁(昭和38年7月31日生まれ)ひとみ(昭和40年7月15日生まれ)ご夫妻

三豊市の山側を走る県道沿いに建つ小野うどん。

三豊市の山側を走る県道沿いに建つ小野うどん。

 高松、丸亀方面から国道11号を西へ。善通寺市と三豊市の境を接する鳥坂峠を越えたあたりから妙に心が弾みだす。高瀬農協会館を過ぎてすぐに東へ曲がると、なぜか懐かしいような「手打ちうどん小野」の看板が見えてくる。4代100年以上も続く理由は何か。店に入るとそのわけがわかる。ご近所らしい作業着のお客さんも多い。「2玉つか(下さい)」。お客もお店も自然体だ。手作りにこだわり続ける味は多くのお客さんをとりこにしている。「どこのうどん屋さんもそれぞれうまい。だから讃岐うどんは面白いんです」と話す四代目店主の小野繁さん。1世紀以上の長い歴史が紡ぎだす空気感は素晴らしい。

<明治〜昭和初期>

ーー 明治43年(1910年)の創業で、繁さんが四代目ということは、繁さんのひい爺さんが創業者ですか。はっきり歴史が残っているらしいですね。すでに105年が経過している超老舗ですが、最初から現在地ですか。

千恵子
高瀬町上高瀬(現在は三豊市高瀬町)の田井の常会場のある県道大日線の四つ辻で店しよりました。田井は上高瀬の一つの中心地で、観音寺と善通寺を結ぶ国鉄バスの停留所がありました。店の向かいに有名な白井さん(近隣に鳴り響いた眼科医)があって、遠方からバスで通院する患者さんがようけ利用してくれました。白井さんはその後、国道ぶちに移転しましたけど、ずっとお世話になっています。鬼ケ臼山(頂上に大岩のある伝説の山。標高209メートル)も勉強の神様として参る人が多かったきん、行き帰りに利用してくれよりました。最近、里山が人気になって、登山道もきれいに整備されて、また鬼ケ臼に登る人が増えてきましたわ。
明治か大正時代にもらった「5つ玉そろばん」。

明治か大正時代にもらった「5つ玉そろばん」。

ーー それまでは何をしよったんですか?

千恵子
切手、たばこ、塩など専売ものを扱う商店だったようです。けど、それだけでは食うていけんきん、おじいさんの小野頼彦とおばあちゃんのヌイが明治43年にうどん屋を始めたんや。水道はなくて、泉の水を使いよったそうです。白井先生に教えられて、タンクの底に砂を入れて水をろ過して飲み水にしよった。さすがお医者さんは言うことが違いますわ。

明治か大正のものやと思うけど、家に銘酒金陵が全国酒類品評会で優等賞を受賞した記念でくれた5つ玉のそろばんがあって、「小野ヌイ」って名前が書いてあります。酒は商店の時も扱ってなかったって聞いていますけど、どうして金陵の記念品があるんかな。

ーー うどん店は玉売りですか? それとも店で食べさせていたのですか? (笑)。

千恵子
当時から頼彦が自分で打ったうどんを店で食べさせる専門のうどん屋でした。玉の卸しはしてなかったみたいです。食べた人が持ち帰る玉売りはしていましたけど。さあ、値段はわからんなあ。明治やけん、何銭とかやろな。メニューは、かけうどんと醬油かけるんしかなかったようです。出汁を入れるとっくりとうどん鉢が残っていますけど(写真あり)、うどん鉢は今のよりだいぶこんまい(小さい)で。今のように大や小やいうのはなかったんかもな。

ーー いろいろ取材してみると、昔はうどん玉は製麺所から買って食べさせていた食堂風のうどん店が多かったようですが、小野うどんさんは最初から手打ちで出していたというわけですね。

千恵子
えっ?! 自分とこで打つのが当たり前やと思っていたのですが、珍しいことですか。知らんかったなあ。おじいさんが打っていたのは間違いないことですよ。

ーー 小麦も作っていたそうですね。農業と兼業ですか。高瀬にも製粉の水車小屋があったのでしょうか?

千恵子
うちは農家で、小麦も作りよりました。みのとき(農繁期)になると、うどん屋を休んで田んぼをすることもあったげなで。それは二代目の私の両親の代になってもおんなじやったけど。水車はこの辺にはなかったな。高瀬川でも上流の麻の方へ行ったらあったらしい。佐股の水車、小野水車、藤村水車、久保井水車、岩瀬水車などがあったけど、いずれも戦前までに廃止されてしまったと聞いています。

ーー 二代目はどなたがやられていたんですか?

千恵子
初代の頼彦とヌイに子どもがなかったけん、頼彦の甥の隆雄とヌイの姪のトシ子が夫婦養子に入って二代目を継いだんです。隆雄は、食う米に困らんよう、田んぼを買うて百姓しながらうどん屋をしよりました。忙しい時はうどん屋を休むこともあったみたいです。2人で頑張っていましたが、トシ子が昭和23年に38歳で早死にしてしもて、隆雄は昭和59年に72歳で亡くなるまで長いこと寂しい思いをしていました。
昔は少なかったという天ぷらも、今では種類豊富になりました。

昔は少なかったという天ぷらも、今では種類豊富になりました。

ーー 二代目の営業の様子を聞かせてください。

千恵子
いつごろかは思い出せんけど、父の隆雄の代に、田井の常会場の前から今の店がある場所に移ってきました。今の駐車場のあたりに納屋があって、そこにテーブルを2つ置いて8人が座れるようになっていました。その後、5〜6人ぐらいの席は増やしました。メニューはかけうどんと醤油かけたんだけ。天ぷらも、くずし屋さんが持ってくる出来合いのものしか置いてなかった。

私の昭和10年生まれの兄の小野明男(としお)がカンガク出て大同生命へ勤めよったんやけど、早期退職して兵庫県尼崎の市役所近くで借家してうどん屋を始めたんですわ。やっぱり、親の子やなあ。隆雄がわざわざ教えに行きよりましたわ。

ーー カンガクって、クワンセイ学院(関西学院)のこと? その時代にしたらがいに頭が良かったんですね。

後編に続きます

小野うどん外観

三豊市

手打うどん 小野うどん

おのうどん

〒767-0001

三豊市高瀬町上高瀬1953-1

開業日 明治43年

営業中

現在の形態 セルフ

(2015年7月現在)

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