さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

【田中屋製麺所(高松市仏生山町)】
戦前戦後の仏生山の「素麺文化」から「うどん」への移行までを駆け抜けた、まさに“生き字引”の製麺所

(取材・文:

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  • vol: 13
  • 2018.03.22

第二話

田中屋製麺所・後編

昭和30年代の高松のうどん店と製麺組合

 「さぬき麺業」いうたら、あの「寝ても覚めてもうどん」の。その頃、高松に製麺組合いうんがあったんや。今でもあると思うわ。その製麺組合が出資してな。初めはスパゲッティいうんを作んりょったんや。私も組合に入っとったから、そん時になんぼか株買うとるわ。今はもう証書放ったけどな。それが元で「さぬき麺業」ができたん。

 そん中で芯になってやっりょったんが、今の香川さんのお父さんや、中原さんや上原さん。皆でやっりょったんが、段々と個人的になってな。今はあそこ、株式会社にしとんだろ。香川さんは川部(かわなべ・高松市川部町)かの。中原さんは、今檀紙(高松市檀紙町)の方でしよるかも分からん。円座の向こうの琴平街道、あっこや。それから番町(高松市番町)の「源芳(閉店)」さん。あっこももう変わっとるやろの。

 後は、常磐街から突き当たった所に交番所があるやろ。そのちょっと南に行った所になんとかいううどん屋があったわ。アレも役員しとった。花ノ宮町でしょった上原いうんも役員におったな。塩江街道行ったら、こう曲がるやろ。曲がるとこのもひとつこっちに道ができとん。そこなへんにあったはずや。元々栗林公園の東門の所に、ずっと並んでこんまい店があったんじゃ。

 その頃の店は皆、私ら製麺業者が作ったうどんの玉を受けて温めて出っしょった。店でうどん作って食べさせるんを始めたんはな、さっきも言うた「源芳」。あの人はオオツキゲンタロウっちゅうんから「源芳」な。この人とは心やすかったから。植田の同年兵だってな。ここも元々、玉卸っしょったんや。何年頃かの、もう忘っせたわ。

 ほれからほら、瓦町の駅からずっと北行ったとこが、本店であったんや。そうそう、「かな泉」。ここも途中から食べさしたと思うな。あの人は私より2つか3つぐらい下やろ。あっこらでも「うどんが足らん」言うて、うちが朝から作って持って行ってあげよったんで。あれは高松でようけ儲けての。半生やなんやゆうてして。なんであれ潰れたんかいのー。

 昔の一時な、うどんを過酸化水素水に浸けよったんじゃわ。薄いんに浸けたら日が持つ。とにかく美味しいうどんを日持ちさすゆう事を考えよった。それでも袋詰めで出したら傷む。そなんしよるうちに、半生のうどんが出かけた。あれは何年頃やったかいの。あの乾燥剤いうんか、あれが普及してからやわ。

 それと戦後すぐぐらいから、元々高松にはうどん屋さんが加工の委託を受けて学校給食なんかにするうどん持って行っきょった時代があったん。小麦粉もろての。その小麦粉は、政府からもらいよったアメリカのやけん、パン粉みたいなやつで固うて難しいんや。それをどうやって作ったらええかとかの、いろいろ研究しょった。

 私がここまで知っとんは、製麺組合におった時に監査になっとったからや。その頃はな、高橋さんいう人が組合長しよったの。オオツキさんやって、もう上の方の人やったけんな。「かな泉」はあんまり顔出っしょらなんだの。私がうどん始めたん、どっちかいうたら遅いけんな。素麺から替えたけんな。ま、替えてすぐ監査にされたわけやけどの。毎年、総会して一杯やって。監査に行たらお膳出してくれての(笑)。そやけど、一緒にしよった人らはもう皆死んでもうておらんだろ。皆、次の世代になっとるわ。

 その頃高松でな、一回、うどんの機械の宣伝会みたいなんもしたこともあるぞ。たぶん昭和30年代やろな。結局それは、うどんの機械の会社が資料残しとらんけんの。ひょっとしたら知っとる人がおるかも知れんから、誰かに聞いてみいや。新聞に載っとるかも知れんから見てんまい。

 博覧会もあったんで。産業博覧会ちゅうんか、そんなんが高松あったはずや。27、8年頃かな。中央通り、今の市民公園(中央公園)のあすこに、ドーム型の体育館みたいなんがあって。あすこ球場(高松市民球場)だったやろ。で、あの通りを「記念道路」言いよったんや。

中華の生麺も卸していた

 私は中華麺もしよったからな。中華麺の生の玉をな、各うどん屋に卸っしょったん。ほいから、今の即席ラーメンみたいなボイルしたやつ。あれも研究しよったけど、資金がのうて。

 それから大阪で売っりょったスープを買うてな。高い上の馬と書いて「高上馬(こうじょうま)」いうとこで、麺類のいろんな薬味売っりょった。そこから材料買うて袋詰めにして、そん中にスープ入れるん。今も置いとるやろ。岡山から来よるなんとか言う麺や。それをボイルして生麺にしたら、3日や4日持っちょったけん。そんなんもして卸したりしたけどな。結局はもう大資本がなあ。あの「石丸」やって、あれ「明星ラーメン」の資本が販売取ってくれたんで。

<昭和60年代~平成>

卸しの減少とともに食堂スタイルへ

 ほんでうどんを卸していっきょったんやけど、それも段々と減ってきてな。今度は店で食べさすよんなった。それが昭和60年頃からや。その時には、こっちへ、またこんまい釜こっしゃえての。今、うちの車置いとるとるやろ、あすこで食べさせて。メニューは、ほとんどかけうどんやった。ほんで平成3年になって、ちょっとワシが病気しての。4ヶ月入院して、皆に得意先の分を頼んで。もう息子も「せん」言うての、平成3年にやめたん。

高松市

田中屋製麺所

たなかやせいめんしょ

高松市仏生山町

開業日 昭和28年以前

閉店

現在の形態 製麺所

(2018年3月現在)

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