さぬきうどんのあの店、あの企業の開業秘話に迫る さぬきうどん 開業ヒストリー

【田中屋製麺所(高松市仏生山町)】
戦前戦後の仏生山の「素麺文化」から「うどん」への移行までを駆け抜けた、まさに“生き字引”の製麺所

(取材・文:

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  • vol: 13
  • 2018.03.19

第一話

田中屋製麺所・前編

 高松市仏生山町のお成り街道で、平成3年まで営業していた「田中屋製麺所」。戦前から続いてきた素麺製造から始まり、うどん作りそして食べさせる製麺所へ、戦後から平成の始めまでの話を、ご主人の山本さんに聞いた。

聞き手・文:篠原楠雄
お話:「田中屋製麺所」ご主人・山本さん(大正13年生まれ)

<戦前~昭和20年代>

仏生山は昔、素麺処だった

仏生山のお成り街道沿いにある店舗跡。壁の上部に残る看板と、青いテントが営業当時の名残です。

仏生山のお成り街道沿いにある店舗跡。壁の上部に残る看板と、青いテントが営業当時の名残です。

 昔はこの通り(仏生山・お成り街道)に素麺屋がよっけあったんや。手延べ素麺な。一番南の方のちきりさん(ちきり神社)の下には道路が広いやろ。あそこら辺は、まつやさんがお素麺干すために広げとったんや。まつやさんは松平の殿さんな。頼重公(高松藩初代藩主・松平頼重)の時代やけん、初代くらいだろな。

 元々、平池(へいけ)からあそこに「上車・中車・下車」ていう水車があったんや。平池のユルから水出すやろ。それで水車を回して、粉を挽いた分を素麺にして。ほなけん、小豆島よりこっちの方が素麺古いんぞ。小豆島はあとから組合作っての、乾燥麺やなんかしかけたから。昔の仏生山は素麺処であったんじゃわ。「田中屋製麺所」はもう早よからあったんで。素麺は明治時代だろの。ほんで、この「田中屋」は、元はうちのお袋のオッサンになる人の息子が素麺をしよったんや。私は山本やけど、屋号が「田中屋」なんは田中いう人がしょったからや。それをそのまま引き継いだけん。

 私は多肥の方の農家の子でな。生まれは昭和でない、大正や。小さい頃のうどんいうたら、買わずに皆、家で打っちょったな。皆、各家庭にうどんを打つ打ち板と麺棒、セイロとかな、そなもん持っとった。

 農家で貧乏やから、小学校でも高等2年(当時尋常小学校の次にあった高等小学校)にしか行けんけんの。お金のようけあるヤツは高校入るけど、金がないもんは、もう高等2年で終わりや。丁稚奉公に行たり、大工の手下でも行たり、左官の下手間行たりの。今頃と時代違うけん。

 うちや、三反五畝(さんたんごせ)のこんまい田んぼしかなかったんで。ほいで、親父がおらんしな。4つから親父の味、知らんけん。農家で貧乏やから、兵隊いたら死なないかん。これはどうぞしていかないかんと思て、試験を受けて呉の海軍工廠(こうしょう)入ったんや。その頃は海軍工廠とかな、鉄道員養成所、そいから逓信講習所とかそんなもんがあって、タダで勉強させてくれよった。それを受けて受かって、ほで今の中学校3年の時に行ったわけ。

 そこで見習い工を2年して、技術を覚えるために実習で1年海軍に兵隊に行った。船という物はこういう物で、戦艦だったらこういうもんやと、勉強しとかないかんけんの。一番に乗ったんが戦艦の扶桑。巡洋艦の鬼怒や妙高にも乗ったで。その後、補習科に2年行って、海軍の養成所に入ったんや。戦争済むまで呉でおった。技術があるんでな、召集がかからなんだんや。そのために海軍に兵籍置いて予備役になっとった。

 私が海軍工廠で作んりょったんは軍艦の大砲。例えば大和な。大和は私が昭和13年に入った時には、もう早や作んりょった。図面もしてな。大砲ドーンと打ったら、打つショックがグーンとこっち来るやろ。その圧力を、駐退機ちゅうんが受ける訳や。ほんで今度は推進機で元へ戻すん。そんな細かい構造やからな。大砲の中は、まあ1つの工場(こうば)やな。大和の大砲は40何センチてゆうけどの、図面には何センチって書いてなかった。秘密やったからの。けどあの頃は若いから、書いてのうてもある程度よう頭に入っりょった。今はもうバカんなってしのたけどの(笑)。

食糧統制時代は親戚が素麺の委託製造をしていた

 ほんで終戦後帰って、マキタ鉄工所の設計入ったんやけど3年ぐらいしてやめて、高松の方で飲料水の卸し業とかいろいろ商売をしよったん。ほんでまあいろいろ事情があって、うちのお袋のオッサンになる人の息子が素麺をしよった「田中屋」を買うたんが昭和28年や。

 アンタら「統制経済」いうの知らんだろ。食糧統制。その時の素麺屋は、政府から小麦粉をもろて素麺の加工しょった。もろた粉を素麺に加工して、ほんで何キロか来たら向こうへ品物を渡すわけ。そうゆう時代があったんや。

 その頃は、この香川県にも素麺屋がよっけあった。大っきいのがな。鬼無(高松市鬼無町)には「シモカワ」言うん、東行ったら「シライ」さん、「ハスイ」さん。今、三木町で「藤井製麺」ゆんがやんりょるやろ。ほいから、今大きんなっとる香南(高松市香南町)の「石丸」。あれもあの頃、素麺やんりょったやろな。

 仏生山でもな、戦争中は姫路から来た「倉橋」いうとこが素麺しよったんや。播州いうたら姫路の方やろ。あっちの方は、素麺が盛んなけんの。そこが統制が始まった月に辞めたん。倉橋さんは、今はこの南で喫茶かなんか大きにしよるわ。ほんでそこでしよった機械を「田中屋製麺所」に持って来て、私の親戚が政府の委託を始めたわけや。

 昭和の26、7年頃に統制が撤廃して、政府からの委託の加工いうんがなしなったんやわ。そうすると、自分で仕入れて、自分で加工して、自分で販売せないかんやろ。自由経済になったけん。ほんで商売がうまいことできんようになった。それでまあ、私が商売したりしよったから、ちょっと手ー挙げての。金がないのに買うて。あの頃で100万円ぐらい借金したんじゃ。私がまだその時、32、3か。ようやったと思うわ。それが昭和28年じゃ。

終戦直後の高松は今と全然違っていた

 余談やけど、私ら帰って終戦してちょっとこまは、まだヤミ(市)があったしな。米でも、ちょっと隠して持って行ったら、すぐ儲かっりょった。その代わりに、お巡りさんに捕まったら全部取られるし、刑務所・留置所に泊まらされるしの。その頃は、まあ無茶したわな。うん。

 市役所の方から、ずっと東行くやろ。ほな今のライオン通の角っこにライオン館いうんがあって、その道のこっち手に、引揚者の店がバラック建てでずーっと並んどったんで。あれ、何ゆう名前だったんかの。そいから、今の築港には国際マーケットちゅうんがあった。築港の駅があって、その前に広いとこがあって、それは中国人とか朝鮮人とか商売しよったん。その頃、私が高松の商売しよる時に、そっちらも行っきょったんや(笑)。

 常磐街から突き当たった所には、映画館があったんじゃ。常磐映画館…常磐座の前には、大きい「常磐食堂」があっての。あれは、ジロウさんいうんがしょったけどな。それと溝渕のジュキチっつぁんいうん知らんかの。常磐街を、あれだけ発展さしたんはこの人。一宮の人やけどな。瓦町の駅から田町のとこ突き当たるまで、あっこは元々田んぼで、昔サーカスが来よったん。それが常磐街になったけんの。想像できんやろ。

 ほんで田町とか藤塚通りとかいうのは「あさくさ街道」ちゅうよったんや。何でかいうたら、下肥をこっちの農家の人がタンゴに積んで帰って田んぼの肥やしにするから、道が朝臭いけん(笑)。その頃の汲み取りは、小学校でも何でも、皆入札するわけや。百姓の人が「ウチが受け取ります」言うて。今頃は、汲み取ってもろて金払いよるやろ。昔は、汲み取らせてもろて、汲み取った人がお米を持って行っきょったんや。「ケツ一升」言よったんかの。一人おったら、一人のケツが米一升なり二升なり。そんな時代があったんじゃ。

素麺作りは苦労が多かった

 ほんで、自分で素麺の製造して販売し始めたわけや。ここでずっと素麺作って、裏へ干っしょったんよ。この向こうの、今家建っとるとこ。その向こうに倉庫があるん。今、皆寄って剣舞教えよるけどな。そこも素麺取り込んだりの。あの頃は、男衆(おとこし)2人と束する人2人雇て、こっちとうちの家内とでしよった。

 うどんより素麺の方が作るん難しいんで。素麺の乾燥を外でやるんは、5月6月は物凄く難しいん。湿度がなしんなって温度が上がったら、もうポロポロになるけんな。この頃は皆、調節のある部屋でしよるやろ。その方が心配がないけん。

 ようけ失敗したど。「何でこなんなるんか」と思て泣いたこともあるわ。倉庫に取り込んで、朝行ったら全然ないんや。全部、肩から割れて落ちてしもとん。やけどその頃はな、全部また水にかして(浸して)次のに練り込むん。今度練り込んだヤツでできたもんは、サクうて粘りがないんやけどの(笑)。いろいろあったわ。そやけん、「この素麺はどんなんか」いうのは見たら分かるようになった。それも手触りでの。

 素麺は、初めはよーけ片栗粉みたいなん付けて出っしょったんで。この頃は、ほとんどなんちゃつけとらんやろ。あれは、乾燥剤っちゅうんができてからの。

 素麺の機械はの、大分前から、戦争中からあった。なんてゆう名前か忘っせたけど、岡山に製麺機作んりょるとこがあったはずや。今、法然寺が「龍雲学園」しよるやろ。あすこの素麺の機械は、あすこにあった「マツノ」いう素麺屋から行ったんや。「マツノ」がやめてから。

 複合機いうんがあっての、こっちとこっちに粉を入れるとこが2つずつあって、粉入れたら生地が1つのロールに巻いて出てくる。それから4段、5段、ダーッと、8寸、6寸、4寸、5寸いうて伸ばしていて、最後に素麺になるん。それがズーッとレーンになっとって、その頃から大体、今頃のに近いよなもんやったわな。

 ほんで、裏で干すんに天気でアレやいかんからいうんで、そこの隅へ乾燥機据えてな。ボイラーで火炊いて、穴開けてパイプ通して2階へ熱風送った。そこへあの階段のとこから、そーっと素麺が自動で上がって行くようにして。ドーッとチャッと切ったら上がって行って、向こうにそっと並ぶ。そうなるように自分でこっしゃえた(こしらえた)ん。こいな機械作るんは得意やったけんな。

 設備がいるから、あの頃は「川田」や「石丸」は、あんまり製麺しよん聞かなんだの。製粉は「シモカワ」やらあっちのほうの所へ、小麦を持っていって粉に換えて来る。「ハスイ」さんや「シライ」も製粉しょったん。そこら辺で粉持ってきての、ウチで麺に加工して持っていなっしょったん。向こうでは7掛け位でもろて、皆に渡すんは6掛け半にしたら半分儲かるやろ。そういう時代があったんや。

高松市

田中屋製麺所

たなかやせいめんしょ

高松市仏生山町

開業日 昭和28年以前

閉店

現在の形態 製麺所

(2018年3月現在)

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