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vol.2 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和20年(1945)>

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

  • [nazo]
  • vol: 2
  • 2018.07.05
 本プロジェクトの核となる「昭和の証言」と「開業ヒストリー」は「生活の中の讃岐うどんのシーン」の発掘作業ですが、それとは別の視点から讃岐うどんの歴史の真実に迫ってみようということで、香川県の地方紙「四国新聞」及び「香川日日新聞(四国新聞の前身)」の過去記事から、「うどん」に関連する記述を徹底的に発掘してみました。図書館で過去の新聞を1ページずつめくってチェックするという膨大な作業を元に、「地元の新聞が取り上げた讃岐うどんのシーン」から紐解く讃岐うどんの過去の編纂です。はたして「メディアの中の讃岐うどん」はどんな世相を映し出しているのか? 新聞記事の発掘作業に膨大な時間がかかるため、同時進行でチェックを終えた年から少しずつ紹介していきますので、どうぞ楽しみながら気長にお付き合いください。では、まずは昭和20年から。

「うどん」の記事は全く見当たらず

戦後の香川は「小麦どころ」ではなかったのか?!

 昭和20年(1945)は終戦の年。従って、8月15日の終戦日以前と以降で新聞記事の論調がガラリと変わっていますが、この年の香川日日新聞には「うどん」の記事も文字も全く見つかりませんでした。そこで、香川県の農産物の生産や県民の食生活に関連する記事を拾ってみると、6月(戦争末期)までの新聞記事には、「麦の生産」に関する記事がいくつも出てきました。

 まず、2月4日の香川日日新聞によると、前年(昭和19年)の秋に長雨があり、通常の麦蒔き(むぎまき)のうちの3分の1ほどが「遅蒔き」を余儀なくされた。さらにその後、今度は雨がほとんど降らずに土地が乾ききって遅蒔き麦の発芽が遅れ、2月になってようやく雨が降って遅蒔き麦も育ち始めたとのこと。つまり、終戦間際のこの年の春は、大事な麦の収穫がちょっと危ぶまれていたようです。

 ちなみに、香川では当時から米の裏作として麦が盛んに作られていましたが、新聞記事からは小麦(粉にして麺類等に加工される)なのか大麦・裸麦(麦飯として食べられる)なのかの表記がなく、讃岐うどん用の小麦がどういう状況だったのかがよくわからない。そこで、『戦後日本の小麦生産の地域的展開』という資料に当たってみたところ、昭和35年(1960)の四国の田畑における麦の作付け率として「小麦5.6%、大麦・裸麦20.6%」というデータが出てきました。

 これは昭和20年から15年後のデータであり、都道府県別データもなかったのですが、ここから推測すると、戦後すぐの香川県の麦作はその8割ぐらいが大麦・裸麦で、うどんの原料となる小麦は麦作全体の2割程度だったと言えそうです。

 さらに、同資料から「麦作(小麦、大麦、裸麦の合計)における小麦率」を計算して全国の地域別ランキングにしてみたところ、こんな結果になりました。

<麦作における小麦率(昭和35年推計)>
全国平均…42%
南関東……52%
北九州……52%
北海道……50%
東北………46%
北関東……45%
東海………42%
南九州……42%
北陸………40%
山陽………32%
山陰………28%
近畿………22%
四国………21%

 何と、四国は最下位! これを見る限り、昭和35年時点で「うどんどころ香川」は実は「小麦どころ」ではなく、むしろ香川は全国有数の「大麦・裸麦どころ」だったのかもしれません。ということは、香川県民は「わずかな小麦畑から穫れる小麦をめちゃめちゃうどんにして食べていた」ということなのか?(笑)

 ちなみに、讃岐うどんの歴史において、「なぜ香川に讃岐うどん文化が根付いたのか?」という疑問に対する説明として「香川は讃岐うどんに必要な小麦がたくさん穫れ、ダシを取るイリコ(カタクチイワシ)がたくさん獲れ、塩がたくさん作られ、醤油もあちこちで作られていた」とよく言われていますが、小麦に関しては作付け率から見ても作付け面積から見ても(何しろ一番小さい県だから)、どうも「香川は全国的に優れた小麦産地ではなかった」と言わざるを得ない。すると、「なぜ香川に讃岐うどん文化が根付いたのか?」の理由を再検証する必要が出てくるかもしれない…ま、「誰が必要としているのか?」という話もあるけど(笑)。

戦争末期の香川は県民一丸で「麦作」体制

 さて、3月に入ると、香川日日新聞では「非常事態だ! 全力で麦の収穫をせよ!」という論調の記事がいくつも出てきます。3月1日のコラムでは、農水省の技師の方がコラムに寄稿し、「現在のわが国の戦局と食糧事情はここまで生育した麦を決してあきらめず、ものにしなければならぬときであり、今からならそれも可能である」という書き出しで、麦を少しでも多く収穫するためのアドバイスを列挙しています。曰く、「水田の裏作で麦を作っているところは再度水を引け」「畑で麦を作っているところは井戸を掘れ」「心を込めて除草しろ」「降雨量の少ないところは人糞尿を10倍に薄めて撒け」「決してあきらめずに最後まで頑張れ」等々。ちなみに、「田畑に人糞尿を撒く」というのは昭和40年頃まで行われていたのでご記憶にある方も多いでしょうが、とにかくお国の役人からこんなコラムが出ること自体、兵站事情がかなり切迫していたことが窺えます。

 続いて、6月1日付けで「兵農一如、麦秋の農村へ善通寺師管区部隊出動」という記事が出てきました。内容は、善通寺の歩兵部隊をはじめとする兵隊さんに「業務に支障のない範囲で、農村の麦刈りと田植えにできるだけ出動せよ」という指令が出たというもの。歴史を紐解けば、戦国時代に織田信長が当時としては画期的な「兵農分離」というシステムを生み出して天下を獲って以来、近代まで「戦は兵農分離」が常識だったはずですが、6月と言えば終戦の2カ月前。それだけ戦局が切羽詰まっていたということでしょうか。

 さらに、6月4日には「高松市役所の職員が市の土地を改良して麦作を行った」という記事。6月13日には「三豊郡の1万8000戸の農家が麦の供出を行った」、「引田町の国民学校で高学年生が麦刈り、低学年製が砂運びの勤労奉仕を行った」という記事。まさに県民総出の感のある麦の収穫作業が続いていたことが窺えます。

 ただし、「昭和の証言」や「開業ヒストリー」には、こんな時期でも「どこそこにうどん屋があった」とか「何もすることがないけど食べて行かないかんから、うどん屋でもするかいうて始めた」とかいった話がチラホラ出ていました。ということは、「戦時中でも庶民の間では讃岐うどんはそれなりに動いていたけど、それは新聞で取り上げるほどのものではなかった」ということだと思います。従って、戦時中の讃岐うどんのシーンはどうも新聞より「昭和の証言」や「開業ヒストリー」から読み解くしかないのですが、いずれにしろ、戦時中の庶民生活には一元的に語れないような様々なシーンがあったことは間違いないでしょう。

戦後の露店には「うどん」の店が出てこない

 戦争末期における麦生産や食生活の記事は、6月13日の「麦の供出」等の記事を最後に全く見られなくなりました。そして、7月4日に高松大空襲、8月15日に終戦。そこから3カ月以上経って、11月23日にようやく香川県の食生活に関する記事が出てきました。記事は「戦災都市高松に露天商や飲食店の数が増えてきた」というレポートですが、そこで売られていた商品や値段を本文から拾ってみましょう。

(11月23日/香川日日新聞)

ふえる街頭商人 おでん屋も登場 天ぷら一皿三円

 戦災都市高松にも衣食住問題をめぐり深刻な暗影が投ぜられているが、これはまた皮肉な“金さえあれば不自由なし”の露天商人および飲食店の数が激増してきた。ここでは飲食物を筆頭に、鍋でも石鹸でもおよそ日常生必品の大部分が立ちどころに間に合う。

 ただしその価格は驚くのほかなく、いまその主なものを買出行脚してみると、まず桟橋駅附近某喫茶店ではふかしいも三切れに茶一ぱいが二円。ここから高松本駅に向う途中の一露店には、アルミ鍋一つを四十五円で売っている。さらに内町三越前へ足を伸ばせば、ずらり並んだ大道商人、小魚三匹に里芋三切れが一円五十銭、いもあんまき、小さなお好み燒き、いもの天ぷら一個ずつに漬物、蜜柑少量を添えて三円、タニシ四ツざし串十五本で一円、出刃庖丁二十六円、鋸百六十円、その他ボタン類、ゴム紐……さらに片原町では風流な「おでん」の看板が目につく。天ぷら一皿三円、大根三切れのおでんが五十銭で相当客足をひきつけている。(文章表記は読みやすいように現代仮名遣いに直しています。以下同様)

 国立公文書館で公開されている『戦災概況図高松』で確認すると、記者が取材した桟橋駅付近~高松駅、内町三越前、片原町はいずれも「被爆著シキ地域」または「一般被爆地」となっていましたが、大空襲から5カ月後、終戦から3カ月後の高松中心地域には、すでに露店、大道商人がたくさん並んでいたようです。しかし、香川なら一番に出てきそうな「うどんを出す店」の記述がここに全く出てこないのはどういうことか? そのヒントになりそうな記事が、2日後に載っていました。

(12月5日/香川日日新聞)

餅や団子も売れぬ 露天商人に監視の眼

 食糧管理法によって米、麦、甘藷、馬鈴薯、大豆など主要食糧およびこれらを原料とする食料品の勝手な売買は禁じられたので、県防犯課では、最近高松市内の焼跡、各駅附近に出没する露天商人のうちで、この法規に触るものは厳重取締の目を光らしている。例えば、小麦粉の団子に大根を二切三切入れ醤油汁をかけたようなのは、この取締りをうけるわけ。高松三越が三日、餅を販売しようとして高松署から注意をうけたのもこの法規に違反するからである。

 なるほど、うどんは食糧管理法(昭和17年施行)で「勝手な売買が禁じられていたもの」に該当するから、露店で勝手に出すわけにはいかなかったのか。ちなみに、甘藷(サツマイモ)も勝手に売ってはダメだとされているけど、11月23日の記事中にある「ふかしいも三切れ」は喫茶店で売ってたらしいから、許可を取っていてOKだったということでしょうか。

 それにしても、天下の高松三越(昭和6年オープン)も「餅」で注意を受けたとは、巷でかなりヤミ商売が蔓延してて、取り締まりが相当厳しくなっていたんでしょうね。戦後、「することがないから、うどん屋でもするか」という発祥のうどん屋が結構あったみたいですが、それもちゃんと許可を取らないと勝手にはできなかったのだろうと…ま、店の開業だから当然ですけど(笑)。

 ちなみに、12月3日の香川日日新聞に、岐阜県の会社から「手動式製粉機」の広告が出ていました。広告文に「能率絶大、優美堅固、農家に歓迎される新型」とあったので、こいつは特に農家向けに販売拡大を図っているようです。「昭和の証言」や「開業ヒストリー」では戦前から「農家は収穫した小麦を製粉業者に持って行って粉に挽いてもらっていた」という話がたくさん出てきますが、そこへ「手間賃がもったいないから自分ちで粉にしませんか」という売りで展開しようとしている機械だと思います。ただ、どれくらい普及したのかはわからない。いずれ「昭和の証言」で手動式製粉機を買った人が出てくることを期待しましょう。

 といったところで、昭和20年の新聞には「うどん」の記事は全く見当たらず。ここから見る限り、戦後すぐの「讃岐うどん」は地元では「全く記事にならない存在」だったようです。もちろん、地域にうどんが存在していなかったのではなく、当たり前すぎて記事にするまでもないという存在だったのでしょうが、同時に「うどんは讃岐名物」という意識もほとんどなかったのだと思われます。

(昭和21年に続く)

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