さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.12 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和30年(1955)> 

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

  • [nazo]
  • vol: 12
  • 2019.08.01

香川のうどんに「讃岐名物」扱いの気配はまだまだ見えず

 昭和30年は観音寺市をはじめ1市15町6村が新しく誕生した「昭和の大合併」の最盛期の年ですが(「昭和29年」参照)、新聞記事からは讃岐うどん界に目立った大きな動きは見えません。過去の新聞記事や「昭和の証言」「開業ヒストリー」等から見る限り、この時期の香川県におけるうどんは大まかに、
①工場規模の製麺会社が「乾麺」を生産販売する。
②小規模の製麺所が「ゆで麺」を作って食堂や個人に売る。
③個人が家で日常の補助食や催事用にうどんを作って食べる。
という3つの局面に分けられるようですが、そのいずれも「新聞が記事に取り上げるようなトピックス」ではなかったようで、昭和30年に入っても「うどん関連記事」はほとんど載っていませんでした。それでも何とか無理やり、ほのぼのとした「生活の中のうどん」のシーンが窺える記事を3本だけ見つけましたので、期待せずにご覧ください(笑)。

うどん関連記事もほとんど載っていませんでした

 まずは、「警察手帳こぼれ話」というコラムに「うどん屋」が出てきました。

(1月13日)

連載/警察手帖こぼれ話① “気ィつけまいよ”

 星がこぼれそうに美しい霜夜である。時計が1時を打ったのを聞いてからはさすがに人通りはハタと絶えて、電柱やポストの影が長々と道に黒く横たわっているのが何となく無気味である。年末警戒もこう手持無沙汰では全くどうかと思う。せいがないことおびただしい。もう少し何か現れてくれないと一向件数があがらなくて、またやかましいK部長から「うどん屋へでも入っていたのじゃろう」などと疑われては太いしくじりだ。全くあの時はとんでもない思い違いで、怪しいとにらんで職務質問をしたS村の二人の若いものの言うことがちょっと変だったので、後で今まで遊んでいたというTうどん屋へ確かめに行ったら、いつも愛想のよい娘のNちゃんが「寒いだろう」と出がけに無理に熱いお茶を入れてくれたのを、折角のわが管轄内の代表的七等身嬢のサービスだから公僕の一員として有難く頂戴してフウフウさましながらちょっとのれんから顔を出した処に、ショボショボの電灯をつけたK部長の自転車がスーッとやってきて「オイオイ」とやられたのには全くギャフンだった。Nちゃんが弁護してくれたので始末書だけは助かったが、あわてて呑みこんだお茶の熱かったこと熱かったこと。(以下略)

 警察の“職場日記”みたいな連載が始まったようです。しかし内容を見ると、「事件が起こらないと“せい(張り合い)”がない」とか「我が管轄内の代表的七頭身嬢」とか「(女性署員の)お茶のサービス」とか、今なら“炎上屋”の餌食になりそうな表現が警察から何の躊躇もなく出てきて、それを新聞も平気で載せるという、そういう時代です(笑)。そこで職務質問したS村の二人の若い者が「うどん屋で遊んでいた」とのこと。そこから、このうどん屋は長居のできない大衆セルフみたいな店ではないだろうこと、また当時のうどん屋は「若い者が遊ぶところ」でもあったことを無理やり窺ってみました(笑)。

 続いて、お怒りの読者投稿の中に「うどん」の文字が。

(1月15日)

読者投稿/こだま 病院はアパートだ

 香川県では赤字の保健財政を建て直すため、近く悪質者の差し押えなど強行方策をとるそうですが、これが通り一ぺんの事務処理に終わることなく実効をあげるためには、受診患者一人一人の病状はもちろん、さらに細かな態度振舞いまで観察するだけの努力がなければだめだと思います。わたしが入っている外科病棟には、普通人顔負けのピンピンした元気な患者が二、三人います。その人たちは医者の指示する病院給食以外に、近くの飲食店からうどんやぜんざいを注文して食べ、土曜日などは見舞いに来た友だちのオートバイで街を女の人と乗り回しています。しかも夜は“銭湯に行く”と当直の看護婦さんに言ってダンス・ホールに通い、朝帰りなど平気で“病院はアパートだ”とうそぶいています。こんな患者を取り締まらなくては、いくら保険料滞納防止などと帳簿上のことばかりに目を光らせても、片手落ちだと思います。その意味で、病院巡回の検査班などを作ってはどうでしようか。(高松市・入院患者)

 入院しなくてもいい人が入院したり病院に行かなくてもいい人が病院に行ってたら保健財政は当然悪化しますから、今も昔もこんな患者は大変困ったことです。でもここは「新聞で見る昭和の讃岐うどん」なので、“福祉の便乗者”論は専門家にお任せして、とりあえず「昭和30年に病院の近くの飲食店がうどんやぜんざいの出前をしていた」という情報だけを未来に遺しておきましょう(笑)。

 次はイベントの話題。

(8月1日)

5分間に8杯半 津田町 うどん早食い競争

 香川県大川郡津田町商工会では夏ガレ対策として7月9日から土曜デーを始め、諸催物を行って人気を集めているが、30日の土曜デーにはうどん早食い競走が催され、大にぎわいであった。5分間でうどんをたくさん食べた者が勝ちという趣向。出場者はさすがわれこそはの自信満々の者ばかりで、うどんを食べるというより呑みこむ方で、机上に並べられたうどんが1杯、2杯と平らげられる度に観衆からヤンヤの声援が飛んだ。結局、大川郡神前村の○○さんという目の不自由なオッサンが5分間で8杯半のうどんを平らげて見事優勝し、橋本副会長からうどん100杯分の引換券の他、商品をもらって至極満悦の体で引きあげた。

 「うどん早食い競争」は昭和30年にすでに行われていたことが、これで確定。しかし、いくら「うどん早食い」というあまり上品ではない競技とは言え、優勝者を「目の不自由なオッサン」はないでしょう。これがもし岩手の「わんこそば」の大食い大会なら、優勝者をどう扱ったか? と想像すれば、香川における「うどん」は当時(というよりかなり長い間)、あまり「文化的」な扱いをされていなかったのではないかと思いますが、どうでしょう。

 続いて、「うどん」の文字が見えたコラムとレシピを2本。

(7月2日)

コラム/一日一言

 夏至から数えて11日目が半夏生(はんげしょう)である。たいてい7月2日がそれにあたるが、今年は3日。香川県ではこれを簡略にして「はんげ」といっている。出雲地方では「はんぎ」さんと呼ぶ。田植えの終わりどきと考えられている地方が多く、農村に関係の深い日である。農家では田植えの労苦を慰めるため、一日休業してダンゴを作って神仏にそなえたり、家族一同そろってウドンを食べたりする。

 これと似たことは日本のあちこちにあり、長崎県の一部ではあずき飯をたき、麦粉のダンゴを作り、おみきとともに畑の神にささげる。関東地方では新小麦の穂をとって焼きもちを作り、神に供え、おさがりを食べるところが多い。青森県三戸郡では「半夏生が過ぎて田植えをすると、一日につき一粒ずつ収穫が減る」という。香川県でいう「半夏半作」のたぐいであろう。「半夏生までに田植がすんでいないと収穫が大いに減少する」の意である。日本の国土は南北に長いので田植えの時期も一様ではないが、ともかく半夏生が日本の農業における一つの区切りと考えられていることは間違いない。

 半夏生の日に林やヤブに入ってはいけない、とのいい伝えのある地方も多い。焼もち好きのじいさんが焼もちを食べつくして竹林に入ったとか、あるいは日照りで焼き殺されたからこの日は竹林に入ってはいけない、というタブーが東京都下にも長野県にもある。民俗学のほうでは、半夏生は何かモノイミが守られていた日であろうとみているようだ。

 「はんげのハゲあがり」という言葉がある。福家惣衛氏の「香川県民俗誌」によると、「この日が晴天だと今までの雨天続きもこれで終わるが、雨天だとなお雨が続いて、梅雨中に降った雨と同じだけ降ると言われている」と説明がある。「ハゲあがり」は「晴れ上り」がなまったものとする説もある。今年の梅雨明けは7月中ごろだと言われている。せっかく田植も順調に終ったことだし、あとは適量の雨ということになってくれれば有難い。もっとも半夏生に晴れたからといって、豪雨災害への備えを怠るわけにはいかない。無事に海水浴シーズンに移って、人の心も「晴れ上がる」ようになりたいものだ。

 1980年に香川県製麺事業協同組合(現本場さぬきうどん協同組合)が半夏生によく当たる8月2日を「うどんの日」に制定して以来、半夏生と農作業(田植え)とうどんをセットにした話は県内メディアでよく見聞きするようになりましたが、「うどんの日」の影も形もない昭和30年にすでにこの手のコラムが見つかりました。言葉遣いを変えただけで何十年も使い回しのできる記事です(笑)。

(1月17日)

広告 寒さも吹き飛ぶカレーうどん

寒い日に一家揃ってフウフウして食べる温かいカレーうどんは格別な味です。美味、栄養、経済の三拍子揃ったお料理で、好き嫌いを云うお子様でもこればかりはおかわりの連続です。
エスビーカレー(姉妹品/エスビーコショー・カラシ)

 エスビー食品が広告で「カレーうどん」を推奨していました。カレーライスは戦前から日本中に広まっていたようですが、この広告の文面からすると、カレーうどんも昭和30年には全国民的にかなりポピュラーになっていたと思われます。

(7月10日)

きょうのおそう菜「朝鮮風冷しめん」

▽材料(4人前)=ひやむぎ2束、豚もも肉30匁、塩大さじすりきり3分の2、こしょう少々、ねぎ1本、レモン汁または酢大さじ半杯、さらしねぎ少々。
▽作り方=豚肉は塩をまぶして10分くらいおきます。水5合に塩を加え、豚肉とねぎを入れ火にかけ、煮立ったら弱火にして30分ぐらい煮ます。肉をとり出し、汁はこして冷たくしておき、豚肉は冷えてからできるだけ薄く切ります。ひやむぎは湯をたっぷりわかしてゆで、冷水にとって冷えたら水を十分切ります。冷たいスープを塩、こしょう、レモン汁で味付し、どんぶりに分けて入れ、冷えたひやむぎを1人前ずつ入れ、上に豚肉をのせ、さらしねぎをふりかけていただきます。氷を浮かせるといっそうおいしくいただけます。

 冷や麦を使っているから、中華麺を使う今の「韓国風冷麺」とは麺が違うようですが、豚肉とか酢の入ったスープあたりが「朝鮮風」ということでしょうか。朝鮮半島は昭和30年にはすでに南北に分かれていましたが、「韓国風」じゃなくて「朝鮮風」と書かれているように、この頃はまだ日本国内では朝鮮半島全体を「朝鮮(北朝鮮、南朝鮮)」と呼ぶような時代だったのでしょう。

 というわけで、昭和30年の四国新聞で「うどん」の文字が入った記事はこれだけです。繰り返しますが、この頃の香川では、うどんは乾麺として盛んに県外に売られていたけど、社会的には「地元の新聞で扱うほどの特産」扱いはされておらず、また、うどんは庶民の食べ物として定着していたけれど、社会的には「地元の新聞で扱うほどの郷土料理やグルメ」とは見られていなかったのだと思われます。

製麺に関する記事は「乾麺」のみ

 続いて製麺関連の記事が一つ発見されましたが、やはり生麺ではなく「乾麺」の製麺です。

(2月23日)

最適は農林54号 後藤主基高校教授の研究結果 県産小麦での干麺製造

 香川県立主基高校後藤虎三郎教諭は文部省から29年度科学奨励研究補助金(1万円)の交付を受け、県産小麦による干メンと優良品種の摘出の研究を行っていたが、このほど結果がまとまった。

 まず同校実習田に県内産小麦のうち新中長、四国18号、中生相州、農林11号、同26号、同51号、同54号、同67号の8品種を栽培、同一管理によって収穫、製粉ののち、同一加工室で品種別に製造した。ついで品質試験を行ったものだが、味と弾力では新中長が一番よく、以下農林26号、同56号の順となっている。純白度では農林54号、同51号、同11号の順、光沢では農林26号、同51号、同54号となっている。これらを総合すると、県内産小麦では結局味、色、光沢のそろったものは農林54号、同26号、新中長となり、これが干メン製造には良品種ということになっている。

 香川県立主基高校が乾麺に最適な県産小麦の研究を行い、「農林54号が最適だ」という結果を発表した、というニュースです。昭和26年の記事では、県産小麦の優等と1等は「農林6号」が占め、2等、3等に「農林26号」が並んでいましたが、そこに「農林54号」の名前はありませんでしたから、農林54号はおそらくその後から出てきてこの年に「最適」の評価を得たのだと思います。しかし、別資料によると、この10年後の昭和40年頃の香川県産小麦はまた「農林26号」が大主流になっています。どういうことか? 途中で農林54号に何があったのか? 何かの力が働いたのか? そのあたりは後の新聞記事で何か出てくるかもしれませんので、詮索しないでおきましょう(笑)。ちなみに、「主基高校」というのは現在の農経高校の前身です。

 それにしても、新聞に載る「産業としての讃岐うどん」は、やはり圧倒的に「乾麺」です。1990年代中盤に勃発した讃岐うどん巡りブーム以降、工場生産の讃岐うどんはおみやげ用の「半生うどん」が全盛になり、紹介されるうどん店も「玉売りを発祥とする製麺所型うどん店」が人気の中心になっていますが、この頃は「半生うどん」はまだ影も形もなく、「製麺所型うどん店」も全く新聞記事に取り上げられるような扱いではありませんでした。

「善通寺そうめん」と「牟礼町のそうめん」が登場

 うどん関連の記事は以上。続いて、毎年のように登場する「そうめんの生産」の記事が3本見つかりましたので紹介します。まずは、定番の「小豆島そうめん」の動向から。

(1月5日)

アルバイトも動員 小豆島ソウメン生産に向かうハチ巻

 香川県小豆島の名産手延ソウメンは毎年12月から3月までの4カ月間に1年間の需要量を生産してしまうので、目下その最盛期で、全島で150戸、池田町だけで100戸のソウメン製造工場では従業員を増員し、アルバイト高校生も参加して生産に大童である。冬季のソウメンは美味で、3年間もの保有が利き、製造工程でも3時間で乾燥ができるという便があるので、農閑期を利用して約3万箱(1箱4貫800匁入り)が生産される。産量は昨年と大差なく、原料が少く値上げしているので、昨年の平均相場1箱1270円よりは少々高くなる見込み。原料の小麦は総て香川県産を用いるので味は上々。京阪神、中国、九州、四国地方へ飛ぶような売れゆきを示している。

 小豆島の手延べそうめんはこの時期すっかり小豆島の名産であり、「京阪神、中国、九州、四国地方へ飛ぶような売れゆきを示している」とのことです。「小豆島そうめんの原料の小麦は全て香川県産」とありますが、昭和26年の記事で、「香川県産小麦は岡山産、兵庫産と並んで『三県小麦』と呼ばれる良質を誇っていた」とありましたので、小豆島そうめんの品質も推して知るべし。名実共に「名産」だったと思われます。

 続いて、「善通寺そうめん」と「牟礼町のそうめん」は初めて新聞記事に出てきました。

(6月24日)

数千箱を連日出荷 善通寺そうめん 生産最盛期に入る

 菓子とともに市の主要産物であり年間約300万円の生産価格をあげる干うどん、そうめんの需要最盛期が近づき、今、市内の製造業者は干うどん、そうめんの生産に大童で、連日数千箱が国鉄善通寺駅から全国各地へ出荷されている。

(7月26日)

製メンの需要増える 牟礼村農協、生産に大童

 香川県木田郡牟礼農協組加工部では今、製メンの増産に躍起となっている。同郡は精米、精麦、製メンに分かれ、今まで製メンの生産量は1日100貫程度に止まっていたが、最近需要注文が増加してきたので加工の多い日には1日200貫を越えるようになり、庭先は白すだれのように乾されたソウメンでぎっしり詰まり、部員たちは加工出荷作業に文字通り汗だくで懸命となっている。

 香川県のそうめん生産は、ここまでに小豆島(言わずと知れたそうめんの名産地)、仏生山(そうめんを干すために道幅を広げたというエピソードがあるほどのそうめん産地・「昭和27年」参照)、豊浜(県下有数の乾麺産地)が記事になっていましたが、善通寺市と牟礼町もそうめん生産が盛んだったようです。参考のために、「善通寺市の工業生産品実績」が掲載されていましたので紹介しましょう。

(3月24日)

菓子、パン業トップ 善通寺の工業生産品実績

 善通寺市の工業生産品実績がこのほど市統計課でまとまった。最も生産量の多いのは菓子及びパンで、製造業者37、従業員186名によって1年間に8355万9000円(製造加工価格)の菓子類、パンが生産され、同市の主要産業になっている。また、全工業生産品の1年間における総生産金額は2億7978万2000円で、その主なものは次の通り。

・菓子及びパン………8355万9000円
・インサイドベルト…4000万0000円
・製材…………………2260万8000円
・カンメン……………1600万9000円
・清涼飲料水…………1258万4000円
・家具建具…………… 925万5000円
・オブラート………… 700万0000円
・粘土カワラ………… 632万4000円
・農機具……………… 552万4000円
・玩具こけし花かご… 305万4000円
・角マット…………… 260万0000円
・和傘…………………  96万1000円
・毛皮…………………  15万0000円

 昭和30年時点で、善通寺市の工業生産品実績の1位は「菓子及びパン」、2位は「インサイドベルト」(ベルトの中に入っている芯みたいなもの)ですが、4位の乾麺の生産額は年間1600万円とあります。これがどのくらいの数字かというと、昭和28年の記事中に「香川の乾麺製造が月産4000万円」とありましたので、単純計算すると年産4億8000万円。ということは、善通寺市の乾麺生産の「1600万円」は県下全域の約3%に過ぎず、かなり小規模だったことがわかります。事実、7月22日付けの追い記事では「善通寺市には見るべき大工業がなく、大部分が菓子製造、清涼飲料製造などの小工業、家内工業である」と書かれていましたから、善通寺市の工業は総じて家内工業規模の小さい製造業で占められていたと思われます。

 ちなみに、同じ記事中に「戦後、善通寺市の新名物としてクローズアップされたこけし人形、花かご…」という表記がありましたが、この数字を見ると、クローズアップされたものの、大して大きな産業にはならなかったようです。また、1位の「菓子・パン」も今ではほとんど消えてしまって、「菓子処・善通寺」などという姿はどこにもありません。昭和30年の善通寺市の主要工業だった「菓子・パン産業」は、一体いつ、なぜ衰退したのか? 興味のある方は、どこかで盛衰を調べてみてください。

県の地元物産PR作戦が続々と

 では続いて物産関係を。この年は、県外での物産展出品をはじめとする地元物産の販売促進に関する記事がいくつも載っていました。まずは、物産展と見本市のニュースから。

(5月7日)

四国の観光と物産展 11日から札幌で開幕 会場の準備OK 今日、県の第一陣出発

 四国の観光と物産展は、いよいよ来る11日から北海道札幌市今井百貨店で15日まで会期5日間の幕を華々しくあける。昨年6月下旬に同百貨店で開いた同展が異常な人気を集め、この種の催しとしては戦後最高の結果を収めたので、再び道内に四国の物産、観光熱を呼び起こそうと4県知事揃って現地に出向き、道内に確固とした新販路を打ち立て、場合によっては道内に4県の共同斡旋所を常置する話し合いも急速に具体化するのではないかと関係者は注目と期待を寄せている。

 県ではすでに貨車1両を借り切り、県下の特産品400種類、約5000点を送り出し、会場の備えつけもほとんど終わったという。県からは第一陣として7日午前11時45分高松桟橋発宇高連絡船で大野経済部長をはじめ関係者4名、丸亀からウチワ製造工5名、バスガイドのうぐいす嬢ら総勢15名が現地に繰り出すほか、12日には金子知事も渡道する。

 金子知事のお名前が出てきました。昭和25年~49年まで6期も知事を務めた金子知事は、「出張には必ずお土産に讃岐うどんを持って行って、讃岐うどんを全国へ積極的にPRした」という話が伝えられていますが、それがいつ頃の話なのか、昭和20年代なのか30年代なのか40年代なのかが定かではありません(何しろ長期政権でしたので)。おみやげ用の讃岐うどんはおそらく「半生うどん」だと思いますので、「半生うどん」がいつ頃できたのかが判明すればおよその時期がわかるのですが、昭和30年時点では「県下の特産品」にうどん商品が出てきませんので、半生うどんはたぶんまだではないでしょうか。とりあえず続報を待ちましょう。

(10月3日)

盆栽錦松も出品 東京で初の県物産見本市

 初の香川県物産見本市が12日から14日までの3日間、東京国際観光会館で開かれる。この出品物には文新堂、欣生舎など県下31業者からの漆器、手袋、アジロ盆、郷土ガン具、うちわ、日傘、模造真珠など7品目224点が出品される。この見本市には、特に全国的に名高い香川郡上笠居村の盆栽が地元の積極的な要望にこたえて錦松、黒松などを10ないし15鉢出品することになっており、近く東京で本格的な紹介を行い、全国への販路拡張をはかる。

 県外への物産展出展はこれまで、昭和28年に福岡で開催された「四国物産展」、同じく東京で開催された「第3回全国農村工業副業展」、そして昭和29年に北海道で開かれた「四国4県の観光と物産展」の3つが新聞に載っていましたが、昭和30年は、北海道で2年連続になる「四国の観光と物産展」と東京で初の香川県単独出展となる「香川県物産見本市」の2本立て。この数年、県は明らかに地元物産の全国への売り込みに力を入れているようです。

 物産展と見本市への出品品目を見ると、うちわ、漆器、手袋といった現在も健在の物産に加え、「盆栽」が初お目見えしました。記事には「特に全国的に名高い香川郡上笠居村の盆栽」とあります。香川郡上笠居村は、現在の高松市鬼無町です。江戸時代に端を発すると言われる鬼無の盆栽は、この頃すでに確固たる地位を築いていたようです。

 あと、今ではほとんど聞かない「模造真珠」が、相変わらず名を連ねています。模造真珠の主産地は仁尾町で、昭和28年の記事によると「生産会社2、企組1、個人300、従業員2070人」とあり、大阪に次ぐ全国2位の生産量(ほとんどが輸出用)を誇っていたようですが、今ではほとんど産業遺産になってしまいました。

 一方、県内の物産は展示会や見本市への出品だけでなく、他にも支援体制が動き始めています。

(6月10日)

県物産の進出狙う 近く出品協会誕生

 香川県では本格的な自由競争時代に対処し、県下物産の県外進出拠点として販路の拡張に務めてきた東京丸ビル内の県物産東京斡旋所と大阪斡旋所の販売経営を、県出品協会に委託する。

 県出品協会では本月末に設立総会を開き、県下業者約100人を構成メンバーとし社団法人組織で新発足、特産品の販路拡充とデザイン指導の充実などをはかることになった。この手始めとして、従来県が経営していた東京、大阪両斡旋所の即売を一定の手数料を払って引受けることになった。また、栗林公園内の県商工奨励館を総工費300万円で8月に改修し、9月から各業者の展示会を連日開くほか、未使用の本館2階をフルに活用し、講習会や会合に使う。また事務所を本館に置き、デザイン研究や業者指導を行う計画である。

(6月10日)

14日に県物産のデザイン検討会

 香川県経済部では、「県下物産のデザインが複雑化し、新鮮味にかけている」と先に来県した猪熊弦一郎画伯、剣持通産省工業技術院意匠部長らから指摘され、時代にマッチしたデザインの研究を要望する声が強くなっているので、デザイン検討会を14日午後1時から県商工奨励館で開く。出席者は県、各市観光課長、高松工芸高関係者のほか、漆器、手袋、うちわ、ガン具、日傘など県下各物産代表業者、工芸作家、意匠研究家など約50名で、現在のデザインを検討、反省し、新しく脱皮をはかることにより新鮮味のあふれた商品化をはかることになった。なお、県が常置を計画しているデザイン指導委員会といった研究機関も人選委嘱を受けた猪熊、剣持両氏らの手で着々と準備が進められ、来月中には発足の予定。

 県内の物産業者で構成された社団法人「香川県出品協会」なる組織が発足し、それまで県が東京と大阪で行っていた物産斡旋業務が出品協会に委託されました。併せて栗林公園の中にある商工奨励館を改修し、そこに出品協会の事務所を置いて県産品振興の拠点にしたとのことですから、「出品協会」は民営化と言うより、今もよくある予算措置が重複した行政の外郭団体のようなものでしょうか。そしてさっそく、出品協会は「県下物産のデザインの刷新」に取り組むことになったようです。「複雑化し、新鮮味に欠けている」というのがよくわかりませんが、いずれにしろ、猪熊先生と通産省の偉いさんにデザインを指摘されては、行政絡みの団体はそこから動かざるを得ません(笑)。

小豆島の話題が続々

 続いて、毎年のように紙面に紹介される小豆島の物産ニュースですが、昭和30年も頻繁に取り上げられていました。まずは、小豆島の「川野醤油」が大阪の公設市場の指定商品に選ばれたというニュース。

(5月26日・夕刊)

大阪市場を一手に 進出する小豆島しょう油

 大阪市内40の公設市場で販売するしょう油は、全部小豆島しょう油にこのほど決定した。大阪市経済局ならびに公設市場側では、品がよく安く300万市民に責任をもって勧められるもの一銘柄を指定し、これを大阪市章を配したレッテルで売り出すことになり、利き味審査の結果、小豆島内海町川野しょう油株式会社製品に決定、契約が成立した。6月1日から一斉発売の予定で、2リットルビン詰100円である。

(5月28日)

小豆島の川野しょう油を指定 大阪府で公設に

 大阪市では安くてよいしょう油を市内40の公設市場で販売するため、市販品の抜取り検査を行っていたが、このほど香川県小豆郡内海町「川野しょう油」が大阪市経済局指定に決定。6月1日から“公設しょう油”として大阪市章を配したマークで、同市場で一斉に売り出されることになり、27日500箱(1箱10本入)の第1回出荷が行われ、伝統を誇る小豆島しょう油の品質の優秀性が証明されたものとして、小豆島しょう油業界の明るい話題となっている。なお、価格は2リットルビン詰で並100円、特製130円で、大阪市では今後、みそ、ソースなども指定制を実施する計画といわれている。

 小豆島の醤油は、昭和26年に四国新聞主催の「讃岐名産十傑選定」でマルキン醤油が第1位に選ばれるなど、早くから小豆島の代表産業となっていました。また、昭和28年の県の特産品調査では、醤油産業(県下全域)の月産売上高は25億円で、2位の農機具の1億1000万円をぶっちぎって第1位。同ランキングでは、そうめんを含む乾麺は月産4000万円、オリーブは月産50万円と発表されていましたから、小豆島の醤油は県下特産品業界において圧倒的な地位を築いていたと言えます。ちなみに、「川野醤油」は昭和37年(1962)に他の数社と一緒にマルキン醤油に吸収合併されました。

(10月7日)

大売れのオリーブ名 はては風呂にまで利用

 明治以来オリーブを試作、経済的栽培に日本で初めて成功した小豆島では、観光地としてもオリーブが呼びものとなり、土庄、高松間を結ぶ関西汽船の優秀船が「おりいぶ丸」と名付けられたのをはじめ、島一周遊観バスも「おりいぶ号」があり、はてはオリーブ風呂まで出現。秋のもみじ客のみやげものはオリーブオンリーとも言え、ちょっと列記すると次の通りである。「オリーブもち、オリーブ羊かん、オリーブもなか、オリーブせんべい、オリーブこけし、オリーブ人形、オリーブそうめん、オリーブもろみ、オリーブビスケット」

 今やオリーブ関連商品は、オリーブ牛、オリーブ豚、オリーブはまち、オリーブサイダー、オリーブコーラ、オリーブラムネ、オリーブ茶、オリーブドレッシング、オリーブチョコレート、オリーブソフト、オリーブジャム、オリーブコスメ各種等々止まるところを知らず、オリーブネーミングも国体キャラの「オリーブ君」に野球は「オリーブガイナーズ」等々あちこちに溢れ返っていますが、昭和30年にすでにこんなに展開していたんですね。

 対して「うどん」も今、うどんソフト、うどんスナック、うどんかりんとう、うどんキャラメルに、うどんタクシー、うどん駅、うどん脳、「カマタマーレ」、そして「うどん県」と、なかなか負けてはいません。あとは、うどんを食べさせて育てた「うどん牛」と「うどん豚」と「うどんはまち」を作れば完璧(笑)。

 加えて、この年の年末に小豆島をテーマにした座談会が掲載されていましたので、物産と観光に関する部分を抜粋して御紹介します。

(12月28日)

座談会/小豆島の産業と観光

人情や風俗も紹介 産業も観光とタイ・アップ

司会 産業と観光事業をマッチさせる方法について、商工界を代表して岡田さん、どうぞ。

岡田 観光と商業者の関係は、間接的には商業者は恩典を受けているが、直接観光客からものを買ってもらわないので関心は薄い。面白い例を申し上げると、一昨年、ここの繊維業者が従来大阪、岡山方面から仕入れていたのを土地の業者が直接自分で作るようになったところ、大阪方面の本職の人が作っていた時より売上げが多くなった。このように、土地の業者としては着眼のいかんによっては観光と結びつくことができる。しかし、商業者としては目前の利益を追いやすいので、商工会としては直接観光に直結した商品に目をつけたい。オモチャにしても島独自のものを考えたい。こうしたことにもっと力を入れたら次第に熱意が加わってくると思う。観光客が一人でも多くなれば、全部へプラスする。他の産業にしても間接的には利益を受けている。年間何億と島へ落とす金が回り回って島をうるおしているわけだ。最後に農業と漁業に対する認識を一層深めないと小豆島観光の発達はむずかしいことを付言したい。

司会 それでは篤農家の方にご意見を承りたい。

山本 農民の立場からいうと、小豆島は乳牛、畜産の島としたい。「仮に観光客がたくさん来ても農民に利益はない」という考えを捨てて、観光客を楽しむようにさせたい。そのために牛乳を観光客に消費してもらい、牛乳風呂で接待したい。かようにして身体を健康にすると共に健康体で仕事をしてもらい、余ったのは大阪や四国四県へ出荷したい。

石井 小豆島の一角の豊島から来た者だが、ここは酪農の盛んなところで、面積に比して牛の数の多いことでは県下第一だ。山本さんのご意見と全く同じで、現在は都会へ補給しているが、島民と観光客に健康のために飲んで頂きたい。

八木 島の手延ソーメンは300年の歴史を誇っている。販路は九州が主体で、観光とも縁は深い。カキ栽培にも関係している。目下、池田のマーガレットを宣伝してもらっている。ここでは20町歩のカキを作っている。マーガレットの販路は京阪神方面です。観光シーズンには桟橋あたりで切り立ての花を花売娘に売ってもらうと量は少くとも宣伝になるし、生産者も観光客も恩恵に浴するからお互いに協力したいと考えている。

司会 九州のどの方面を市場としているか。

八木 主な販路は長崎。全国的には第一は播磨の製品、次は岡山の「松の雪」、第三は小豆島の「島の光」となっている。ここは年産3万5000から5万箱、長崎ではソーメンのことを「小豆島」と呼んでいるほどだ。ソーメンのお陰で小豆島の名を高めているわけだ。最近は阪神方面へも出している。戦前10万箱も作っていたが、この頃は池田だけしか作っておらず、この仕事は朝早く起きてやるものだから「同一収入なら他の仕事をやろう」と嫌われてきた。しかし、農村も不景気になってきたので昨年から業者の数も増え、本年は昨年に比べて1万箱増となった。販路については全然心配はいらない。

三宅 乳牛を飼育して堆肥をオリーブに回している。昭和25年に250頭であったのが、現在500~600頭になった。今後2000から2500頭に増加させて瀬戸内海のチチ島にしたい。それには第一番に道路を作って、大鐸(編集部注:小豆島内陸部の大鐸村=おおぬでそん)を完全牧場にし、放牧場として一家団らんの場にしたい。自然の美だけを称える観光客は1~3回来たら飽きるが、何かあとに心残りをさせたい。それにはおいしい肉と乳を安くサービスすることだ。

田井 別にこれという考えはないが、百姓をしていると道路の必要を痛切に感ずる。島の住民は百姓を土台にしている。従って、農民のありのままの姿を見てもらいたい。また、農民は農民として文化的農民でありたいと思う。農民は今まで生活に恵まれなかったが、農民の内的資源を掘り下げて生活の向上に資したい。島は日本の代表的縮図であり、そのなかで生きている百姓の真の姿を見せたい。山嶽地帯の傾斜地農業は労力がいる。また資源があっても採算がとれない。従って観光道路も必要だが、農道も狭あいな面積で生きていく百姓には必要だ。都会の喧騒に悩まされている人に、心のふるさととして直接島の住民にふれて、その悩みが解消するようにまでなりたい。こうしたことが全国の農村の悩みを解消するヨスガともなる。島民の皆さんは、こうした傾斜地農業に苦しんでいる人に目をつけて、救うという大きな人情味を持って頂きたい。

司会 次に観光と旅館について。

三枝 旅館の経営者だが、今までの経験からみてここは優良なたばこができる。農業と観光は実に密接だ。山上に花を植えて観光客を楽しませるなどはよいことだ。信仰・産業・観光の三者は結びつきが強い。白浜へ地蔵さんを作ったら灯台もできて皆喜んでいる。甘露温泉も人気があり、四方指まで自動車で行けるようになって地価も上った。

土岐 24年までの観光客は「小豆島とはどんなところか行って見よう」という軽い気持だったが、『二十四の瞳』以来、大きな期待を持って来るようになった。従って、旅館業者としても今後はむずかしくなってきたと思う。「映画ではよかったが、実際の小豆島はそうではなかった」というのでは反ってマイナスになる。また皆さんのお話のように牛乳がたくさんとれるので、余ったのはチーズ、バターを作ってお客さんに喜んでもらいたい。

中塚 よそから島をあこがれて来る人は景色だけでなく、人情、風俗などすべてを見ようとする。従って、これらを一種の産業と考えて育てたい。現実的には乳、肉、果物、魚などをもっと積極的に観光と結びつける方法を考えたい。現在、観光によってどのくらいの金が落ちているか統計にはないが、推定2~3億と見ている。(以下略)

 昭和30年の話ですが、何だか今もよく似たことをやっていますね(笑)。

高松市と丸亀市の繁華街、そして坂出港の様子

 では、ついでに連載コラムから高松市と丸亀市の繁華街の様子をご覧ください。

(2月15日)

連載/30年あれこれ…高松の繁華街

内町辺は三味の音 呉服屋ではほとんどが座売り

 戦災、そして復興と、丸亀町はじめ高松市内の商店街はほとんど昔の面影を止めず、近代的な姿に変わった。しかし昭和初期の高松に住み、商店街の中で育ったわれわれにとって、雨上がりには一面のぬかるみとなる道幅5メートルの丸亀町通りはもとより、唯一の娯楽であった肥梅閣、世界館、大和座の映画や芝居、あるいは銀ブラにちなんで「片ブラ」としゃれた夏の宵にそぞろ歩きの末、“天神さん”の境内に並ぶシルコ屋、うどん屋で舌つづみを打ったことなど、田舎のお得意へ半年毎に掛取りに行くという至極ノンビリした商売とともに、なつかしい思い出である。

 当時の商店街はそれぞれの特色を持っていた。嫁入りのタンスや長持がいれば鍛冶屋町、普段着(和服)がほしければ北古馬場町へ出かけるという風だった。現在の三越付近に常盤橋という橋があって、そこから明治生命あたりまでが丸亀町通りといわれ、一丁目から四丁目まであった。70余軒の商店のうち呉服屋が約7割を占め、店先で通行人に呼び込みを掛けて競い合った。嫁入りのウワサを聞き込むと、早速定紋入りの荷箱を積んだ車をひいて売り込みに出かけたものだ。のんきな時代ではあったが、こと商売ともなればそうもゆかず、先を競って出かけた。ところが行ってみると、同業者の定紋入りの車が門先に止っており、スゴスゴ引き返すこともあった。

 何分現在と違って、洋服といえば小学校教師、鉄道員、郵便局員の詰襟や中学校教師、県庁、市役所職員などの背広が主なところだっただけに、和服が主で、まだまだ洋服は珍しがられていた。そのころ洋服店といえば、二丁目に高松でただ一軒の「西山洋服店」があったくらいのもの。各商店とも間口が広く、呉服屋は紋を染めた「紺のれん」を戸口に下げ、半間の土間を隔てた奥の畳の間で“座売”といって和服姿の番頭が上り込んだ客を相手に品物を売っていた。嫁入り支度の買物客であろうものなら、一日がかり「ああでもない、こうでもない」とねばられたもの。おまけに買ってもらおうと思えば、昼飯時には、うどんぐらいはサービスしていた。

 呉服屋の奉公人は満20才になるまでは「兼吉」「松吉」という風に名前の下に吉をつけて呼ばれ、1円50銭ぐらいの月給をもらって店売りを手伝った。徴兵検査を終えるとようやく一人前として認められ、「兼吉」が「兼七」に、「松吉」が「松七」に出世(?)し、大っぴらにたばこ入れを腰に差して外交に回った。呉服屋に次いで多かったのが下駄屋と日用品店である。

 このほか、呉服屋では北古馬場町一帯に田舎客相手の店が30~40軒も並び、繁盛していた。田舎から出かけて来た人たちが、テンビン棒の両端に下げた「よかご」に買物を入れて帰ってゆく姿がよく見られたが、今はその名残りもない。兵庫町では現在の協和銀行付近に「勧商場」といわれる一郭があって、昼間はバラック建ての菓子屋やおもちゃ屋が店を並べていた。

 そのころ高松市内の盛り場を代表していたのが片原町の“天神さん”一帯で、映画館、芝居小屋、飲食店などがあり、現在もなおその面影を止めている。また、三越の北側に「浮世小路」という通りがあって、料理屋が並び、イキな三味線の音が聞こえ、百間町とともに色街を代表していた。内町辺には「イキな黒ベイ見越しの松」の何々寓という家も多かった。

 ライオン通りは現在の半分程度の店数で、夜など物騒で歩けないほど淋しかった。ここに「トキワ屋」というモス地専門の呉服屋があったが、その後、高松で初めて婦人服地を売り出して大いに珍しがられた。南新町には「舶来屋」といわれる当時としては珍しいシャツ、クツ下、婦人下着などを売る衣料品店が4~5軒あって、当時のモボ、モガ達が大いに利用していた。その後、北古馬場町の「三河屋」という呉服店が座売という一般の販売方式を改め、店頭に陳列ダナを置いて商品を飾り、市内の業者を驚かせたが、やがて一般の業者もこれを真似るようになった。通町、塩屋町は当時から各種の卸業者が店を並べ、なかなか盛大であった。何分当時は普通の商店でも年に小作米の4~5俵はあったので、至極のん気に商売ができたようだ。

 高松出身の年配の方には懐かしい固有名詞がたくさん出てきますが、昭和30年になるともう「昔の姿が消えて近代的になった」という話になっているのは、今も昔も変わらぬ回顧のパターンですね(笑)。続いて、丸亀駅周辺、浜町界隈の状況。戦前の風景も交えながら、こちらも「昔からずいぶん変わってしまった」という話です。

(2月16日)

連載/30年あれこれ…丸亀浜町界隈

軒を連ねた掛店 七銭洋食の出現で一騒ぎ

 丸亀市の“人民広場”といえば国鉄丸亀駅前の通り。メーデーには労働者が集まって気勢をあげ、名物お城祭にはここで変装競争やら獅子舞等が賑やかに繰りひろげられ、誓文払のときには豪華賞品を陳列した福引抽選場が設けられる。駅前広場は市の繁華街の中心であり、玄関口であるだけに、好個の大衆会場として利用され、人民広場の名があるわけだが、いま市の昔を知るものが丸亀を訪れて一番驚くところは、この駅前の変化であろう。

 今から30年前の丸亀駅は古色そう然たる平屋建だった。しかも五段の石段の上に建てられた駅舎であり、駅前は幅わずかに4メートル余りの猫額大の道路があり、名物坊太郎餅、高島屋パン店などが密集していた。昭和7年になって、郷土部隊が征途に上る場合、駅前広場の狭アイから大混雑を呈するところから、軍部の要望により、ここの拡張が計画され、住家の買収、広場の拡張工事費として23万5000円が計上されるに至った。この買収交渉は困難を極め、時の大柏市長、山地助役、西山市議らのあっせんで、ようやく幅12メートルの道路が完成したのが昭和15年。現在の二階建モダン駅舎への改築は17万円で同18年12月10日に完成したが、当時の買収価格は坪平均250円。今ではそれが10万円でも売り手はなかろうといわれる繁華街の中心になった。

 「目玉の松ちゃん」で少年ファンの血をわかせた映画の殿堂「地球館」の大火は、大正15年の秋。これがチャンスとなって現在の鉄筋の地球館が再建され、丸亀唯一の人道、車道を誇る舗装道路が地球館前に完成、今では30年前をしのぶよすがもないほどの近代都市が現出した。

 地球館の裏街は今でこそ「浜町銀座」とか何とか謳って、ネオンの色も美しい名物食堂街が建ちならび、例の「二十四の瞳」のロケでも世に知られたが、大正時代までは浜岸をひかえてウドン、ソバなどを売る商店のテント小屋が並んでいたものだ。その後、許可を受けてトタンぶきになり、ついでに食堂街へと発展した。今もこの界隈を「浜町の掛店」と呼ぶゆえんであり、約20軒の食堂に共同便所がわずかに1カ所といった掛店の名残りを止めているが、ここの食堂街に今から30年前、丸亀ではじめての洋食屋が開かれて人気を呼んだ。西洋料理が一皿7銭であった。昨今では「映画を観て、お茶をのみ、ホールで踊る」だが、当時の若い衆の間では「地球館で活動を観て、白木屋で西洋料理を食べる」というのが、そのミチの合言葉だった。浜町界隈もまた、丸亀発展の一断面といえるのではなかろうか。

 そしてもう一つ、坂出港がますます発展しているという記事。

(6月1日)

坂出港は第2位 神戸税関管内外国貿易額・港別順位

 大蔵省主税局税関部で発表された4月期上旬分の外国貿易額の港別順位は次の通りで、坂出港は全国第12位、神戸税関管内では神戸に次いで第2位となっている。

①横浜 ②神戸 ③名古屋 ④大阪 ⑤東京 ⑥四日市 ⑦門司 ⑧小樽 ⑨下津 ⑩若松 ⑪岩国 ⑫坂出 ⑬長崎 ⑭函館

以下略。なお、29年度中における輸出入額は24億1111万9000円に達し、躍進の一途をたどっており、輸入額は19億9059万8000円、輸出額は4億2052万1000円で、神戸税関区内では輸入は4位、輸出6位であったが、本年は更に一段の飛躍を遂げて管内第2位となったものである。

 東の高松繁華街、西の丸亀繁華街、そして四国随一の貿易港として発展する坂出港。このあたりが、当時の香川県の商工業の三大中心地だったようです。

昭和29年の四国新聞に載ったうどん関連広告

<民間企業>

●農林省指定・内外精麦飼料/杉本精麦工場(観音寺市)
●日清製粉KK特約店/株式会社紀州屋(観音寺市)
●高畑製麦製粉乾麺工場(善通寺市)
●日清製粉株式会社坂出工場(坂出市)
●製粉・製麺/日讃製粉株式会社(多度津町)
●四五銭亭(高松市県庁前)
●肥料米穀精麦/井上重雄商店(大野原町)
●和食・洋食・中華料理/大衆地下食堂(高松桟橋前・琴参ビル地階)…改装開店
●高松タムラ食堂(高松市)…新築落成
●麺類製造卸/高橋繁一商店(高松市内町・大劇北側)
●ヤマセ醤油(綾歌郡国分寺町)
●醤油醸造元/合名会社井筒屋(引田町)
●県民党公認県議会議員候補/旅田彦市(選挙広告)
●共栄製麺株式会社(高松市)…火事見舞い
●肥料飼料石油砂糖雑穀類卸販売・搾油製粉製麺製パン・食肉加工製造/四国物産株式会社
●手打うどん専門/有限会社金泉食糧商会(高松市大工町)
●日清製粉特約店/株式会社金谷商店(高松市通町)
●日清製粉特約店/株式会社太田商店(高松市通町)
●日清製粉特約店/株式会社高須商会(坂出市本町)
●村上製粉所(高松市東ハゼ町)

<求人広告>

●香川県製麺協同組合
(1月11~13日、11/30~12/2、9、25~27)
△ウドン製造見習/年令20才前後
△ウドン玉取/年齢不問
いずれも数人募集、住込可能な者

●長尾公共職業安定所
(8/14、16、17、22)
△女子雑役/20~40才、通歩合制(某製麺所)

●高松公共職業安定所
(2/2、3)
△男子うどん製造職/要経験、住3000円~10000円(某生うどん製造所)
(2/5、6)
△男子配達人/25才迄、住食3000円、製麺組合
(2/18、19、26、27)
△女子うどん玉取り/20~46才、通食付、日給100円(製麺組合)
(3/13~16)
△男子うどん配達人/15~40才、通日収150円、住日収100円(食付)(製麺所)
(3/19、21)
△男子うどん職人/うどん製造経験要、住月収食付4000~5000円(うどん製造所)
(3/21)
△女子うどん玉とり/40才迄、通月収食付3000円(製めん所)
(4/3、4、6、7)
△男子うどん職人/うどん製造経験者、住月収食付2000~8000円(うどん製造所)
(4/3)
△女子うどん玉とり/40才迄、通月収食付3000円(製めん所)
(4/4、6~13)
△男子配達人/若い人、住月収食付3000円(製麺協同組合)
(4/8)
△うどん職人/うどん製造の経験者、住月収食付3000円以上(うどん製造所)
(4/9~11、25~30)
△女子うどん玉とり/20~46才、通日収食付100円(製麺協同組合)
(5/1、2、5、6)
△女子うどん玉とり工/16~20才、住月収3000~4000円(製めん所)
(5/2)
△配達人/15~20才、住月収3000円(食付)(製麺協同組合)
(5/2)
△男子店員/18~19才、住月収3000円(そば屋)
(5/11~16、18、19)
△男子製麺配達人/16~20才、住月収2500円(某製麺所)
(5/11~16)
△女子製めん工/住月収3700円(川島町製めん所)
(5/19)
△女子製めん工、うどん配達夫/16~20才/住2000円(市内某製麺所)
(6/21~23)
△男子製造工/18~19才、住2000円(製麺所)
(6/24~27)
△男子うどん製造工/18~19才、住2000円(うどん製造所)
(6/30、7/1)
△男子うどん下手間工/15~20才、通日収150~200円(製麺工場)
(7/10)
△女子うどん玉取り/20~35才、通食付(三度)3000円(某製麺組合)
(7/11~18)
△男子配達人/20~25才、月収3000以上(某製麺協同組合)
(7/31、8/1)
△男子うどん職人/経験1年以上、住月収手取3000~10000円(市内某うどん製造所)
(8/7~10)
△配達人/18~30才、住月収手取4000~5000円(市内某製麺所)
(8/7~10)
△女子工員/18~50才、通三食付2500~3000円(市内某うどん製造所)
(8/18~22)
△男子配達人/18~25、通月収3000円(市内某うどん販売店)
(8/26、27)
△男子うどん配達人/16~25、住月収2000円以上(市内某うどん(生)製造所)
(8/28、29)
△女子料理人/27~40才、中華そば炊事、通日収200円、夜間のみ営業(市内某屋台店)
(12/3~6)
△男子手打うどん製造職人/20~50才、通…一人前打てる人、住…月収三食付10000、夫婦者にても可、農村の方で仕事の間で内職的に月に10日でも15日働くような人にてもよい(高知市某うどん製造所)
(12/8、10)
△男子配達人/20才前後、学歴不問、住月収3000円(市内某製麺工所)
(12/10)

●坂出公共職業安定所
(1/13、14、19~2/8、2/10~15、17)
△男子配達夫/20才迄、住込食事付1500円、通勤3000円(某うどん店)
(2/22~24、26~3/8)
△男子製麺工/20才迄、経験不問、通勤日収100~200円
(3/30、4/3、4、6)
△男子雑役/18才迄、義務了者、通勤日収100~120円(某製麺所)
(8/30~9/5)
△男子配達人1名/20才迄、通、義了、日120円(市内ウドン製造所)
(9/14、16~19)
△男子配達人2名/16~20才迄、通、義了、日100円(市内ウドン製造所)
(11/16~22)
△男子配達夫/16~20才、義務了者、通勤日収100円(市内某うどん製造店)
(11/30~12/3、5、6)
△男子配達夫/16~20才、通住学歴不問、月2500円(市内ウドン店)

●丸亀公共職業安定所
(3/14、16、18、19、22)
△女子乾麺結束工/15~50才、義務教育了、通日100円(善通寺某精麦所)
(4/4、7~11、13、14、16、19、20)
△女子結束工/15~50才、義了、通日収80~100円(善通寺市某精麦所)
(4/29~5/2、5~7、9)
△男子配達夫/15~20才、義務了、住込2000円(善通寺某ウドン製造所)
(6/22~27)
△男子うどん製造見習/20才以下、住込1500円(琴平某食堂)
(11/8、9、12、14~16)
△男子製めん見習/20才まで、住月収2000円(丸亀某商店)
(11/9、14~16)
△女子製麺手伝/15~26才、通住可3000~4500円(市内某製麺所)

●観音寺公共職業安定所
(1/10、12、15、16、18)
△男子製麺工/20~30才、経3年、通住不問、住6000~10000円(郡内某製パン工場)
(1/19、20、21~25、27~2/1)
△女子製麺工/17~25才、通日収150円(市内某製麺所)
(2/2、4~7)
△女子干麺結束工/17~30才、通勤日収150円(市内某製麺所)
(2/8、10~15)
△男子製麺工/18~40才、通日収150円、経験不要(市内某製麺所)
(2/16~19、21)
△女子製麺工/20~40才、通日収150円、住3000円(市内某製麺所)
(4/21~26)
△女子店員/30才位まで、住込3000円(郡内某ウドン店)
(5/9、10、12、13、15~17)
△男子うどん配達夫/16~20才、住2000円(市内某製麺所)
(6/30~7/6)
△男子製麺工/16~20才、住3000円(市内某製麺所)
(6/30~7/6)
△男子製麺工/18~30才、通日収300円(郡内某製麺所)
(7/7~10)
△男子製麺兼配達/16~18才、住3000円(市内某製麺所)
(7/7~12)
△女子店員兼女中/15~30才、住2500~3000円(市内某ウドン店)
(7/15~18)
△女子製麺工/17~30才、通日収150円(市内某製麺所)
(8/2~4、6、7、9、10)
△女子店員/18~30才、住3000円(市内某ウドン店)
(8/23~26、28、30~9/5)
△男子うどん配達人/17~20才、住2500~3000円(市内某製麺所)
(9/22~26)
△女子店員/18~30才、住3000円(市内某ウドン店)
(11/4~7、10~15)
△男子手打うどん職人/30才迄、熟練者、住5000~7000円(郡内某製パン工場)
(11/17~20)
△女子ウドンヤ店員/18~23才、住3000円(郡内某ウドン屋)

 「讃岐うどん」は地域の物産としても産業としても新聞記事には全く出て来ませんが、職安の求人欄には膨大な数の「製麺工、うどん職人、配達人、乾麺結束工、店員」等の求人が載っていました。ここから、当時の讃岐うどんの世界は、
・製造業としての乾麺製造は盛んに行われていた。
・小規模の製麺所におけるゆでうどんの製造(食堂や個人等への玉売り)も盛んに行われていた。
・しかし、県は讃岐うどんを地元の物産としては売り出していなかった。
という形が見えてきます。先述しましたが、「地元の物産」に名前が出てこないのは、おそらく売り出せる物産としての商品化(要するにおみやげ用の半生うどん)が、まだできていなかったからではないかと思います。果たして「半生うどん」はいつ頃世に出てくるのでしょうか。 

(昭和31年に続く)

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