さぬきうどんのメニュー、風習、出来事の謎を追う さぬきうどんの謎を追え

vol.32 新聞で見る讃岐うどん

新聞で見る讃岐うどん<昭和49年(1974)>

(取材・文:  記事発掘:萬谷純哉)

  • [nazo]
  • vol: 32
  • 2020.11.19

うどん店の広告が過去最高の盛況ぶり!

 荒井注に代わって志村けんがドリフターズに加入し、ガッツ石松が世界チャンピオンになった昭和49年ですが、四国新聞で見つかった「うどん」関連記事は5本だけでした。しかし一方で、うどん店や製麺会社の広告は単独広告と協賛広告を合わせて80本近く掲載されていて、この広告の大盛況を見る限り、讃岐うどん界はかなり活況を呈しているようです。データを紐解いてみると、『讃岐うどん全店制覇』(ホットカプセル刊)の2000年頃の調査で、大阪万博が開催された昭和45年以降、それまでのほぼ2倍にあたる毎年10~20店以上のうどん店がオープンし始めていますから(同調査は2000年の調査時点で閉店している店がカウントされていないため、実際のオープン数はもっと多いはずです)、新聞広告の盛況ぶりとも連動して、昭和40年代後半はまさに香川のうどん店の「第一次開店ブーム」の様相を呈していると言えます。

 では、まずは昭和49年のうどん関連記事から見てみましょう。

善通寺の「ジャンボ高木」が名物「食い逃げOK」で話題に

(2月25日)

2杯食べれば無料。善通寺のジャンボうどん、連日挑戦者でにぎわう

 「食い放題、このジャンボうどん2杯平らげたら食い逃げ可(無料)、3杯なら1年間ただで食べ放題」という風変わりな讃岐うどんの店が善通寺市内にお目見え、ジャンボうどんの挑戦にやってくる人たちで大にぎわい。

 このうどん屋さんは同市原田町の県道善通寺府中線沿いにあり、昨年10月にオープンしたもので、店主の高木利行さんさん(28)のアイデア。ジャンボうどんは直径28センチの洗面器のような大きなどんぶりに釜から上げたばかりのうどん玉が4つ(840グラム)入っており、これをタレにつけて一気に食べるシステム。店内に入ると「食べ放題、ジャンボに挑戦。2杯平らげると食い逃げ、3杯なら1年間食べ放題」と書かれ、この横には挑戦者表が貼られ、これまでにジャンボうどんに挑んだ人数が記入されている。

 これまでに2杯に挑戦した人は222人、うち160人が見事食い逃げに成功、62人は途中でダウン、1杯200円の代金を支払って退散。3杯に挑んだ人も多いが、これを平らげ「1年間食い放題賞」を得たものは今年2月8日に挑戦した1人だけ。「うどんは別腹」とうどん好きの人たちがジャンボうどんを平らげ、食い逃げしようと大にぎわいだが、「ジャンボうどん2杯はよいしょがいる」とダウンする人がほとんど。

 うどん通にはすっかりおなじみの「ジャンボ高木」(記事によると昭和48年10月オープンとのこと)の「食い逃げOKシステム」が紹介されていました。ちなみに、記事の中で釜あげうどんを「タレにつけて食べる」と書かれていますが、どうなんでしょう。当時の香川であれを一般的に「タレ」と呼ぶ習慣があったのか、あるいはこの記事を書いた記者が勝手に書いただけなのか(笑)。

東京の讃岐うどん事情と、「讃岐うどんの起源」の話

 続いて、当時の「東京の讃岐うどん」に関するレポートがありました。少し長いので、小分けにして見てみましょう。

(3月5日)

「東京だより」/手打ちがうける ふるさと売り込む30店余

 讃岐手打うどんは「讃岐」の代名詞。東京の「そば」に挑戦してすでに10年余、素朴なふるさとの味の輪を広げ、都内の至るところに“のれん”は広がった。急増する都内の地方出身者たち、加えて食べ歩きを楽しむレジャー、旅行ブームにより、讃岐うどんの味は深く静かに浸透してきた。人気の秘密は、原材料、加工技術のすべてが地元からそのまま持ち込まれたことによる。とはいうものの、「正統派讃岐うどん」が東京の“味覚の歴史”を変えるには道遠く、これからが本番と言えようか。

 導入部は、当時の「東京の讃岐うどん」の簡単な背景から。
●東京都内に地方出身者が急増している。
●食べ歩きを楽しむレジャーや旅行がブームになっている。
●東京の「讃岐うどん」は10年余り前(昭和30年代終盤)に出店が始まり、次第に浸透してきているが、東京に根付くのはまだまだこれからだ。
といった内容です。そして、具体的な店が一軒、レポートされていました。

 先輩たちの地味な努力で“うどん族”は増えてきた。讃岐の味のチャンピオン・手打ちうどんは香川の別名と言えるが、その名を広めてきた特異な存在も見逃せない。その一つが、全国農協の総本山・農協ビル(東京都千代田区大手町)地階の「老舗」。経営者、調理人、材料とも生粋の讃岐産、讃岐をそのまま移植した感じ。高層ビルが林立するオフィス街・大手町のど真ん中、同ビルの地階にのれんを構え、やや古びた看板が“香川”を存在づける。全国農協500万のリーダー、宮脇朝男全国農協中央会長はうどん好き、この会長の肝いりでお膝元にできたのが同店。“生きた讃岐のうどん”をモットーに、去る40年5月、同ビル完成とともにオープンした。

 「以来9年、材料の一切を香川から取り寄せた。小麦粉はもちろん香川産。かまぼこ、いりこ、しょうゆに至るまで瀬戸内海産のものばかり。週3回の定期便で空輸している。経費はかさむが、讃岐うどんの“心”を味わってもらうため。そのかいあって、一度食べた人は何回も足を運び、常連もぐんと増えた」と“さぬき屋”経営者の上枝政信さん(高松市出身)は胸を張る。

 利用者は全国各地からの上京者が多い。昼食時には同店の出前が活躍、多い時には1日500杯近く扱うという。クチコミで全国に広がり、同店は讃岐うどんのPRセンターの役割を果たしているともいう。近くの国鉄本社からは、かつて四国総局に勤めたことのある人たちが、讃岐の味を求めてやって来る。もちろん、宮脇会長も食べに現れる。今では農協ビルの名物の一つ。一流ホテルや地方からの出張者が「支店を出せ」と勧誘に来るほどだ。

 いきなり農協ビルの地階の「老舗」とあったので「老舗」という名前の店かと思いましたが、記事を読んでいくと、どうも東京の大手町の農協ビル地階にある老舗の「さぬき屋」という店のようで、金子知事と並んで「讃岐のうどん通の第一人者」と称される宮脇朝男全国農協中央会長の“肝いり”でできた店だそうです。

 うどんは今でこそ庶民の食べ物となっているが、その昔は菓子として貴重品だった。歴史は古く奈良時代に遡り、唐から渡来した菓子の一種だった。「混沌」と言い、のちに食偏に改めた。「延喜式」の中には「餛飩(こんどん)」とあり、江戸時代に「饂飩」となり、広く庶民の味覚となった。

 続いて、うどんの起源に触れた一説がありましたが、ここでも「奈良時代に唐から渡来した」という説が取り上げられ、「空海(平安時代)が中国からうどんの原型を持ち帰った」という話には触れられていません。

 ちなみに、ここまでに新聞に出てきた「讃岐うどんの起源に関する伝承」の記述は、

●昭和44年(奈良時代伝来説)…「うどんの歴史は遠く奈良時代に中国から渡来した唐菓子だといわれ、最初はアンコ入りでした。名前も、餛飩、温飩、饂飩となり、江戸時代からうどんと呼ばれるようになったといわれます」(東京の讃岐うどん店「うどん坊」に掲げられた「饂飩由来記」という表示看板の中の一文)

●昭和44年(奈良時代伝来説)…文献によれば、うどんは奈良朝時代に中国から伝わった唐菓子の一種である。小麦粉のだんごにアンを入れて煮たもので、最初は「こんどん」と呼ばれ、転じて「うんどん」となり、江戸時代になって「うどん」と名前が変わり、現在のような線状の麺類となったのである。(詩人・河西新太郎氏による山田竹系著『随筆うどんそば』の書評コラムの中の一文)

●昭和45年(奈良時代伝来説)…うどんの歴史は古い。遠く奈良時代に中国から渡来した唐団子だといわれ、最初はアンコ入りだった。名前も、餛飩(こんとん)、饂飩(うんどん)、饂飩(うどん)となり、江戸時代から「うどん」と呼ばれるようになった。(佐々木正夫氏のコラム「うどんの由来」の中の一文)

●昭和48年(平安時代伝来説=空海起源説)…讃岐の手打ちうどんの始まりは弘法大師が唐から秘法を持ち帰り教えたものと伝えられている。(金刀比羅宮で行われた献麺式の記事中、担当記者が書いた一文)

…の4本で、ここに今回再度、「奈良時代伝来説」が出てきました。こうなると、昭和48年に唐突に出てきた「空海(平安時代)起源説」について、「この記者は一体何の根拠でこの一文を書いたのか?」という疑問が出てきますが、いずれにしろ、讃岐うどんの起源はもともと「奈良時代伝来説」が断然主流であり、どこかで何かの理由で「空海起源説」が出てきて、それが今日、なぜか「奈良時代伝来説」はすっかり忘れ去られ、「空海起源説」だけが語り継がれている…ということのようです。途中で一体何がどうなってそうなったのか、続報を待ちましょう。

 続いて東京レポートはもう一軒の「東京の讃岐うどん店」を紹介していました。

 最近はチェーン店流行りだが、讃岐うどんの販売系列にもこれが生かされてきた。都内に11カ所のチェーン店を持ち、生のうどん販売、手打ちのうまさを家庭に広めた企業体がそれ。「四国のうどんというより、手打ちの懐かしさが人気を呼んだ」とファミリー食品(東京都渋谷区)の古市社長(高松市出身)は言う。「古市庵」として5年前に渋谷のデパートで実演販売したのが始まり。1回食べた人を「四国に行ったら必ず本場のうどんを食べてみよう」という気にさせたという。言うなれば「逆輸入」の形で広めたわけ。

 加工技術者は1年間、本場で習わせ、小麦粉も厳選、配合もマル秘。うどんの延ばし方に特徴があり、機械うどんにはない歯触りの良さを売りにしている。関東一円の大手スーパー、百貨店を巡回して実演販売し、「うまいものは必ず売れる」を合い言葉に主婦の好みに沿って販売、家庭内に浸透させた。

 今や都内では「讃岐の手打ちうどんの“のれん”を出すだけで売上が急増する」と、その知名度はめざましい。讃岐出身の経営する店だけでも都内にざっと30数軒はあると言われ、銀座、新橋、蒲田など各ターミナルで“讃岐の味”を生かしている。

 東京で「ファミリー食品」という会社を経営する高松出身の古市社長が「古市庵」という名前でデパートで讃岐うどんの実演販売を始め、都内11カ所にチェーン店を持つまでに伸びているとのことです。記事によると、「讃岐出身者が経営する讃岐うどん店は都内にざっと30数軒はある」とのことです。ざっとした情報ですが(笑)。

多田野鉄工がうどんのミニショップモデルを発表

 続いて、うどんビジネスの新しい試みが一つ。

(3月12日)

讃岐うどんに人気 多田野鉄工のミニ売店

 本場の讃岐うどんを新しい小型店舗で拡張販売する「ミニショップ」が「ジャパンショップ74年」(第3回店舗システムショー)に出展され、人気を集めた。「新しい商業環境を繁栄する店づくり」をテーマに5日から11日まで東京・晴海の東京国際貿易センターで開催されたもの。店舗開発研究会などの主催で、香川からは多田野鉄工が出展。総数150社が新しいスタイルの店舗を披露した。多田野鉄工の「ミニショップ」は地元から取り寄せた原材料を使ったうどんの実演販売を試み、1日平均1000人が訪れた。

 同社は昨年に続き2回目、ニューモデルでお目見え。店舗だけでなく、厨房、看板、什器房に至るまでワンセットでリースしていく方針で同店舗の拡張を狙っている。同社の傍系で同店舗の販売に当たるタダノ・エンタープライズ社の池田営業部長は「うどんの場合、原材料から経営、調理のノウハウまでを店舗と同時にパックにして世話していく」と言っており、店舗設備だけでなく「うどん屋」そのものも含めた方法で販売する。

 「ジャパンショップ74年(第3回店舗システムショー)」という店舗の総合見本市が開催され、香川の多田野鉄工(現タダノ)が讃岐うどんのミニショップを発表しています。具体的な店舗スタイルはわかりませんが、設備とノウハウをワンパッケージにして売り出して、フランチャイズ制か何かで全国に多店舗展開するみたいなビジョンが窺えます。その後、計画がどうなったのかはわかりませんが(少なくとも現在はその面影がありませんが)、世界に羽ばたく「クレーンのタダノ」がかつてうどん業界に手を出そうとしていたというニュースが出てきました。

うどんの漂白がまだ横行している…

 続いては、「パック入り讃岐うどん」の商品に過酸化水素を基準以上に使っていた業者に回収命令が出た、というニュース。

(7月27日)

“漂白うどん”改善を 東京都・食品機動監視班が摘発

 東京都衛生局の食品機動監視班は26日、過酸化水素を使用基準以上に使って漂白、殺菌したパック入りの「即席さぬきうどん」を東京都内のスーパーマーケットや食料品店約100軒に出荷、販売していた香川県丸亀市○○製粉所に対し、香川県を通じて改善指導と製品の回収を要請した。同監視班の調べによると、違反品はポリ袋入り(190~300グラム)の「讃岐手打式うどん」「さぬき太打うどん」「さぬきうどん手打式製法」の3種。

…(中略)… ○○製粉所は終戦直後、製粉所として開業し、6年ほど前から現在の生うどん作りをしている。従業員は家族を中心に約10人で、「讃岐うどん」として1日平均1万5000玉ほど生産し、このうち8割近くを東京方面へ出している。独自に検査装置も持っているが、責任者の○○さんは「ご迷惑をかけて申し訳ありません。二度とこのようなことのないように十分注意していきたい」と話している。

 讃岐うどんと「過酸化水素水による漂白」の関係について、これまでの新聞記事からわかってきたのは、

①昭和40年代に入って外国産小麦(主にアメリカ産、カナダ産)がうどんに使われ始めると(それまでは外国産小麦のほとんどが給食等のパンに使われていたと推測される)、色の白さで劣る県産小麦が県民から敬遠され始めた。(「昭和42年」参照

②そこで、県産小麦を使う県内の製麺業者は、漂白作用と殺菌作用を持つ過酸化水素を使って県産小麦の粉を漂白し始めたが、許可量を上回る過酸化水素を使って麺をより白く見せようとする業者がかなり出始めた。(「昭和44年」参照

…という流れですが、昭和49年になっても摘発される業者がいたということは、この時点でも、「それなりの量の色の黒い県産小麦がうどんに使われていた」ということなのでしょうか。しかし、県産小麦の収穫量は昭和45年以降、ほとんど壊滅状態が続いているのですが(「昭和45年」参照)、どういうことなのでしょう。「8割近くを東京方面に出している」とありますから、東京で競争に勝つために外国産小麦で作ったうどん商品をより白くしようとしていたのかもしれませんが。

燧灘産イリコダシの推奨者が登場

 次は、いろんなうどんの話を盛り込んだ「一日一言」から。

(9月6日)

コラム「一日一言」

 (前略)… 「東のソバに西のうどん」と言うが、「西の中でも讃岐うどん」と言いたいところだ。県下でも、つい最近までは各家庭に一本ぐらいは“めん棒”があって、喜びにつけ悲しみにつけ、誰でも曲がりなりにうどんを打ったものだ。自家製だから、各家庭によって風味が違う。…(中略)…

 2年ほど前、文芸評論家の福田宏年氏が『旅』という雑誌に“お国自慢”を書いていた。もちろん、讃岐うどん推奨者だ。「ダシはイリコ(煮干し)に限る。それも燧灘産の、黄色く輝く秋イリコに限る。トロ火でじっくりダシを取り、できれば焼け火箸を突っ込んで臭みを取れば申し分ない」と細かい調理法を添えての味自慢だ。 

 福田夫人は京都生まれだそうだが、「結婚した時、私は何はともあれ家内に母からうどんの打ち方を習わせた」という。うどん作りには「土三寒六」とか「夏三寒六」という言葉がある。夏なら塩1に水3の割合で小麦粉を練る。うどんは粉の種類、塩加減、練り方、気候によって微妙に影響される。うどんの風味は酒の醸造に似ているかもしれない。「讃岐うどんが観光的にも有名になって味が画一化した」という“うどん好き”の声も聞く。…(以下略)

 「つい最近までは各家庭に一本ぐらいはめん棒があって…」とあるように、昭和40年代後半あたりまでは、まだまだ家でうどんを打つという習慣が残っていたようです。確かに三豊市詫間町の筆者の家でも、昭和40年代は父親が時々家でうどんを打っていました。

 そして、ここで初めて「讃岐うどんのダシ」の材料として「燧灘産のイリコ」、すなわち「伊吹島のイリコ」が出てきました。香川県の煮干しイワシ漁やイリコ生産に関する記事で、昭和20年代後半~30年代初頭にかけて一番たくさん出てきたのは「東讃のイリコ」でした。次いで、たまに「小豆島福田湾のイリコ」にも触れられていましたが、「伊吹のイリコ」は昭和32年にようやく登場。しかも、その時の記事は、東讃のイリコは「大盛況!」、小豆島福田湾のイリコは規模は小さいながらも「活況を呈している」というテイストだったのに、伊吹のイリコは「水揚げサッパリ」という見出しで紹介されていて、一番マイナーな扱いでした(「昭和32年」等参照)。

 そしてその後、煮干しイワシ漁やイリコ生産の記事はほとんど新聞に載らなくなったので、途中経過がわからないまま、ここで突然「うどんのダシは燧灘産のイリコに限る」という話が出てきたわけです。ということは、「昭和30年代中盤から40年代後半にかけての間に、香川県産イリコの本場が東讃から燧灘(伊吹島周辺)に変わったのではないか?」という推測ができるのですが、どうでしょう。興味のある方は水産関係の漁獲量の推移等の数字に当たって、客観的データから紐解いてみてください。

 あと、さっきの記事に出てきた「タレ」ですが、文芸評論家の福田宏年氏はやっぱり「ダシ」という言葉を使っています。かけダシが「ダシ」で、つけダシが「タレ」だ、という理屈も出てきそうですが(笑)。

佐々木正夫先生のうどんエッセイが再び登場

 加えてもう一つ。この年の5月29日に「かな泉」の大工町店が新装されて「本店ビル」としてオープンしたのですが、そのオープン広告(何と、協賛広告を集めていない「かな泉」単独の新聞全面広告!)に佐々木正夫先生がエッセイを寄せていましたので、当時の貴重な讃岐うどん情報として御紹介させていただきます。

(5月29日)

「かな泉」広告エッセイ

「日日是饂飩」(佐々木正夫)

 東京の作家や画家の中には、うどんの好きな連中がワンサといる。先生たちが高松へお越しになったとき、わたしは、いつも本場の手打ちうどんを食べていただいている。楠本謙吉、新田次郎、佐多稲子、中野重治、吉行淳之介、早船ちよ、開高健、三好徹、永井路子、芝木好子、棟方志功先生などご案内したが、なかには、おかわりを注文してくれる先生がいるからうれしくなってくる。

 棟方画伯は、「うまいデシュネ」を連発しながら、ダシを全部飲んでしまい、おまけに、箸を一本くわえて「紋次郎が手打うどんを食いマシュ」などと、わたしを笑わせた。最近、第一回川端康成文学賞に決まった作家の上林暁先生もうどん好きで、わたしは上京のたびに“生うどん”をお土産に差しあげているが、客人であるわたしがいるのに「早く食べさせてくれ」と客人に請求される。…(中略)…

 讃岐っ子であるわたしにしても、“日々是饂飩”で、うどんを食べない日はない。出張で四国を離れていると、あのコシコシした手打うどんが恋しく、ノドがグウグウ鳴る。連絡船が高松に着くと、いちばん先に上陸してタクシーを好きなうどん屋さんに走らせる。

…(中略)…

 うどんの良し悪しは、箸でうどんをチョン切ると、その断面が鼓のように弧を描いているうどんが最高、と教えられている。わたしという男は、ここ数年、県内に二千軒以上もあるといわれるうどん屋さんを食べ歩きしているが、鼓のうどんには、めったに出くわさない。塩加減、粉の練りぐあい、湯で加減のすべてが百点でないと、鼓うどんにはならない。いつ寄ってみても、鼓うどんを食べさせてくれるのは、西讃で二軒、東讃では三軒しかない。薄口のダシはたっぷり、ツルッ、ツルッとすすり込む手打うどんのノドの感触。わたしは、讃岐で生れたことをありがたく思っている。

 まず冒頭は、佐々木先生の交友関係とうどんのエピソード。続いて、「連絡船で四国に帰ってきたらすぐのタクシーでお気に入りのうどん屋に行く」とあります。連絡船のうどんは昭和44年に始まっていましたから、これをそのまま読めば、「佐々木先生は連絡船のうどんを食べてなかったのではないか?」という疑惑が出てきました(笑)。

「エッジの立った麺」のうまさが、すでに語られている!

 そして、麺通の注目は何と言っても最後の一節。佐々木先生が絶賛する(というか教わったらしい)「鼓の弧のような断面を持つ麺」は、まさに今で言う「エッジの立った麺」そのものではありませんか。ああいう麺がうまいという話は、どうも相当昔から言われていたようです。ちなみに佐々木先生、その“鼓うどん”を出す店が「西讃で2軒、東讃で3軒」と、実に思わせぶりな書き方をしていますが(笑)、どこでしょうね。「西讃より東讃の方がうまいうどん屋が多かったのか?」と思われるかもしれませんが、たぶんこの頃は高松市が東讃に含めて語られていた時代なので、ここで言う「東讃」には高松の店が入っていると思われますが。

「香川にうどん屋は3000軒ほどある」という思い込みの起源?!

 そして、また「県内に二千軒以上あると言われるうどん屋」という表現が出てきました。新聞に載った「香川のうどん店の数」については、昭和47年に佐々木正夫先生がエッセイの中で「香川県内にはうどんを食べさせる店が二千軒もあるといわれる」と書かれ、同年に山田竹系さんも「香川県下にはうどんが食べられる店が二千二百軒ほどある」と書かれていました。いずれも「うどんを食べさせる(食べられる)店」という言い方をされていましたので、その数字にはメニューに「うどん」がある食堂やレストランも含まれていると考えられますが、今回のエッセイの中では「県内に二千軒以上もあるといわれるうどん屋さん」と書かれ、うどん専門店が2000軒以上あったかのような言い回しになっています。

 実は、筆者が地元香川でタウン情報誌を発行し始めた昭和50年代の前半頃、地元マスコミの間では、「香川にはうどん屋が3000軒ぐらいある」という話がまかり通っていました。そして、それを誰も検証することなく、1990年代に筆者がスタッフたちと香川のうどん店を実際にくまなく数えて「約650軒しかない」ということを発表するまで、我々の知る限り誰もが「3000軒」という数字を疑ってなかったという記憶があります。

 当時は「一体誰が何の根拠で3000軒と言い出したのか?」と思っていたのですが、もしかすると佐々木先生のこれかもしれません(笑)。この「県内に二千軒以上もあるといわれるうどん屋さん」という表記がマスコミ人に「香川にはうどん屋が2000軒あるのだ」と思い込ませ、その数字に尾ひれが付いて“ウソのサンパチ”で「3000軒」になったのかもしれない…と。半分冗談だけど、半分は「きっとそうだ」と思ってますが(笑)。

うどん店広告の両巨頭は「かな泉」と「さぬきうどん」

 では最後に、大盛況の「うどん関連広告」を見てみましょう。冒頭で触れたように、昭和49年の四国新聞に掲載されたうどん関連広告は単独、協賛合わせて80本近くもあり、全部の画像を載せるとスペースを取り過ぎるので、今回は広告主を分類しながらリストで紹介していきます。

 まず、「うどん専門店」の部で、広告掲載回数の多かったのは、年間9回広告を打っていた「かな泉」と「さぬきうどん」。ここ数年、この2社が「うどん広告」の両巨頭です。

 このうち、「かな泉」の広告の中に記載されていた店は、「紺屋町工場、大工町店、屋島店、宇野店、福山店、広島店」の6店舗。そして、前出の通り、5月29日に「大工町店」が「大工町本店ビル」となって新装オープンしました。これまで、新聞紙上では工場を持つ紺屋町店に「本店」という記述が載っていましたが、ここで本店が大工町に移ったのかもしれません。

 一方、「さぬきうどん株式会社」の広告に載っていた同社のうどん店は「栗林本店、高松駅前店、ドライブイン南店、屋島店、徳島店、岡山店、大分店、小倉店、大阪店」の9店で、かなり県外に展開しています。併せて、「讃岐製粉株式会社」と「讃岐素麺株式会社」の2社がグループ会社として併載されていました。

さらに県下17店(のべ27本)のうどん店広告が登場

 「かな泉」と「さぬきうどん」以外のうどん店広告は、以下の17店(のべ27本)が見つかりました。このうち、単独で広告を出していたのは「川福」のみで、あとは全て企画物や特集物の協賛広告です。各店に付いていたキャッチフレーズも一緒にご覧ください。

<6本>
名物わかめうどん・実演手打うどん…「番丁」(高松市県庁裏門前)
<3本>
政府登録ざるうどん……………………「宗家・川福」(高松市ライオン通)
<2本>
手打うどん………………………………「いずみや」(高松市常盤町ダイエー地下名店街)
打込どじょう汁・手打ちうどん………「羽島」(高松市片原町古天神)
釜上げうどん……………………………「井筒」(住所記載なし)
<1本>
手打うどん………………………………「さぬき一番」(高松市南新町本店、兵庫町支店)
手打うどん………………………………「山鹿」(高松市内町)
手打ちうどん・釜あげ…………………「すゑひろ」(高松市中野町)
さぬき名物手打うどん…………………「きみや」(高松市トキワ街)
手打うどん………………………………「桃山」(高松市南バイパス勅使店)
……………………………………………「富田乾麺手打うどん部」(高松市・観光通り)
打ち込みうどん、遠国そば……………「八十八庵」(長尾町)
手打ち釜あげうどん……………………「讃州屋」(善通寺市)
釜あげうどん……………………………「田村」(丸亀市田村町・丸亀スターレーン)
実演手打うどん…………………………「まさや」(牟礼町)
讃岐手打うどん…………………………「うしだ」(善通寺市)
……………………………………………「源内」(志度町)

うどんを出すレストランや料理屋の広告は6店(のべ10本)

 続いて、うどんを出すレストラン、料理屋、喫茶の広告が6店(のべ10本)。

讃州うどん料理………………「ゆたか」(高松市中新町交差点南)
源平鍋・うどん料理…………「源平庵」(丸亀市)
讃岐手打うどん・信州そば…「和風レストラン・いちばん」(高瀬町)
手打うどん・和風料理………「ダイイチ」(高瀬町)
本場手打うどん………………「ドライブインやしろ」(坂出市・丸亀市)
喫茶・軽食・さぬきうどん…「パーラーやなぎや」(琴平町大和観光ビル)

 「ドライブインやしろ」と「パーラーやなぎや」は、各3本の広告を出していました。「パーラーやなぎや」は、西讃で初めて出てきた「うどんを出す喫茶店」です。

製麺所の広告も6社(のべ10本)

 続いて、製麺所と製粉所の広告が6社(のべ10本)。

手打うどん・中華そば・ざるそば……「丸山製麺」(高松市宮脇町)
実演販売総本家…………………………「久保製麺」(高松市番町)
香川県特産さぬきうどん………………「藤井製麺」(三木町)
さぬき手打うどん・そば・中華そば…「牟礼製麺所」(牟礼町)
……………………………………………「望月製麺所」(高松市鬼無町)
……………………………………………「讃岐製粉」(香川町)

 「讃岐製粉」は前出の「さぬきうどん」の系列会社で、3回の広告掲載。1990~2000年代に製麺所型の人気店だった「丸山製麺」「久保製麺」はこの当時から客に食べさせる店だったと思いますが、広告内容からは判別できなかったので、とりあえずここに分類しました。

県外のうどん店広告も6店

 香川県外のうどん店で四国新聞に広告が掲載されていたのは、以下の6店です。

手打うどん………………「玉藻」(東京・新橋)
……………………………「ニュー高松さぬきうどん」(東京・有楽町店、新橋店)
……………………………「讃岐茶屋」(東京・銀座、日本橋、京橋)
たらいうどん……………「松野」(徳島県板野郡土成町)
名物たらいうどん………「御所温泉」(徳島県板野郡土成町)
名物手打たらいうどん…「イレブンパーク」(愛媛県西条市)

 東京の「玉藻」と「讃岐茶屋」は毎年正月に四国新聞に年賀広告を掲載し、香川の皆様に向けて年頭のご挨拶を頂いています。「ニュー高松」は高松の会社で、協賛広告の中に東京で展開するさぬきうどんの店の表記がありましたので、ここに挙げました。

 一方、徳島と愛媛の3店はいずれも「たらいうどん」の店です。少し前までは香川県内でも「たらいうどん」を打ち出している店がいくつもありましたが、この年は讃岐うどんに駆逐され始めたのか(笑)、一軒も見当たりませんでした。
 
 その他、うどん関連で見つかった広告は、「さぬき手打うどんの会(高松市三条町)」「麺類自動調理販売機・川鉄商事高松支店」「さぬきの手打麺機・さぬき麺機」の3つ。これらの大量の営業広告に加えてうどん関連の求人広告も10件くらい見つかりました。

 こう見てくると、やはり昭和49年の四国新聞は、“空前のうどん関連広告ブーム”の様相です(ちょっと言い過ぎ・笑)。以前にも少し触れましたが、うどん店の広告のほとんどを占める「協賛広告」というのは、店にしてみれば新聞社や広告代理店に頼まれて“お付き合い”で数万円程度の広告を出すものがほとんどですが、それでもこの頃、“お付き合い”する余裕のあるうどん店が明らかに増えてきていると思われます。広告媒体の種類が多様化した今日では新聞広告を打つうどん店はすっかり目にしなくなりましたが、この後、昭和50年代にはどういう展開を見せるのでしょうか。続報をお待ちください。

 ところで、昭和40年代の讃岐うどん界を振り返る時によく聞くのが、
(1)昭和43年に「足踏み禁止」の動きが表面化し、それを境にうどん作りの機械化が大きく進んだ。
(2)昭和40年代中盤の県産小麦の壊滅で、オーストラリア産小麦「ASW」の導入が一気に進み始めた。
という大きな2つのトピックですが、ここまで、その2つに関する新聞記事が、少なくとも四国新聞には全く出てきませんでした。そのあたり、真相は新聞からは当然全く窺えませんが、今後何かの形で出てくるかもしれませんので、一応、気に止めておきましょう。

(昭和50年に続く)

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